2008年11月アーカイブ
世の中には、なじむものとなじまないものがある。溶けるものと溶けないものがある。くっつくものとくっつかないものがある。それと同じように、音でも、綺麗に響きあうものと響きあわないものがある。何気なく生きていると、そんなことを意識することはない。それが、どうしたと問われれば、それで終わりである。ネットで検索しても、色々なことが明記されている。ある意味、学術的に考察されているもので、それを見ても、強いインパクトをもつものでもない。それでも、ふと、立ち止まって、短い自分の人生というものを考えてみると、確かに、世の中には、なじむものとなじまないものとがあることが分かる。これも、相対的なもので、なじむものから、なじまないものを見れば、なじまないものは、不協という感じを受ける。音楽の用語に、不協和音というものがある。ドとソを同時に鳴らせば、普通の人は、心地よいと感じる。しかし、ソから半音下がった、ファ#(F#Gb)をドと同時にならすと、何か不安定な不協と感じる響きを持つはずである。もちろん、一番不協なのは、キーになる音がドであれば、それと半音高い音と半音低い音、どちらかを鳴らせば、つまり、ド(C)とド#(C#Db)を同時に鳴らせば、不快に感じる。それは、ファ#(F#)が悪いわけではなく、あくまで、キーとなる音がドであるから、そうなるわけである。ドとソの関係は、平均律の音階であれば、シとファ#と同じになる。ともに、難しい言葉を使うと、完全5度の関係にある。ピアノの鍵盤を、ドからソまで、白と黒をかぞえれば、7個ある。シとファ#も7個である。その間隔が、7個あれば、その二つの音に完全5度の関係がなりたつ。(音楽は、難しいようで、そのロジックは、いたって単純なのである。)普通の人は、ドとソを鳴らしても、シとファ#を鳴らしても、同じように聞こえるだろう。音の高さの違いはわかっても、それが、どうなのかは、分からないはずである。それが分かる人が、絶対音階が分かる人だということである。
ちなみに、ドとソを鳴らしても、調性は分からない。しかし、それに、ミを鳴らせば、ド、ミ、ソの和音になる。絶対音階を感受する人は、それで、Cメジャーと言い当てる。ちなみに、ミb(レ#)を鳴らせば、それで、Cマイナーだと分かるのである。ちなみに、シとファ#にミB(レ#)を鳴らせば、Bメジャーだと分かり、レを鳴らせば、それで、Bマイナーだと分かるのである。普通の人は分からない。仮にそれが分かったとしても、それで、何かしらの価値を生むものではない。ただ、分かる人だけで終わってしまう。
中学までの義務教育の中で、誰でも楽譜と向き合う時期がある。よほど、音楽的な英才教育を受けた人以外は、楽譜に#(シャープ)やb(フラット)がたくさん付いていたら、嫌になる。だから、何も付いていないものが好まれる。つまり、ピアノやオルガンでいう、白い鍵盤だけで弾ける曲が、ドをキーとしたハ長調ということになる。Cメジャーである。ちなみに、シをキーとしたものであれば、シャープ(#)が、5つ付くことになる。ロ長調であり、Bメジャーである。基本的に、ハ長調もロ長調も同じである。音の高さが違うだけである。カラオケで、ハ長調の歌が高すぎて、一度さげろといわれたら、ロ長調にするだけである。カラオケマシーンは、簡単にできる。もし、それを流しの叔父さんがギターで速攻でやれば、すごい人だということになる。
元厚生省事務次官らを狙った連続殺傷事件に関して、どうやら、無職の小泉毅容疑者が、その犯人らしい状況である。色々と複雑な状況はあるようだが、実行犯は、小泉容疑者であることは、間違いない。後は、その背後に、誰かがいるかどうかである。小泉容疑者が、人きり岡田以蔵であるかどうかである。岡田以蔵的な人物であれば、小泉容疑者の裏に誰かがいて、人きりのために、彼を養っていたという線が出てくるからである。なぜなら、定職にもつかず、ぶらぶらとして、この十年間、月62000円の家賃を滞納することもなく、支払っているからである。月、62000円、それに、光熱費、衣食住を考えれば、最低でも、月づき、20万は必要になる。いずれ、あきらかになるだろうが、普通の心理から考えれば、誰か、彼を支えるパトロンがいて、それも、彼が、唯我独尊的に、自己の我を押し通せるぐらいの人か組織かがいて、彼の金銭的な支え、生きることの支えになっていたと考えるのが自然である。すべてが、彼一人で計画し実行したとしても、依然として、不自然さが残る。人を二人も殺し、一人は重傷を負わせている。彼の計画の中には、まだ、複数の殺人リストがあったのである。彼が実行犯であり、元厚生省事務次官夫婦殺害の要件を満たしているなら、間違いなく、起訴されるだろう。事件の重要性と社会に与えた衝撃を考えれば、50%以上の確率で、死刑が宣告されるはずである。責任能力が争点になるが、宅配便等の偽装をするなどの、用意周到さから見れば、責任能力は、十分にあり、刺し傷からみれば、相当な殺意が感じられるはずである。どれをとっても、殺人罪の最たるものである。
「官僚は悪だ、ゴミだ。家族も雑魚だ。だからやった」といっているが、あえて、そこまでやるだろうか、官僚は悪だは、同じように、政治家は悪だ、とも書き換えられる。それなら、官僚を支えている、国家警察も悪のはずである。自衛隊も悪のはずである。それが、飛躍すれば、社会は悪であり、人間は、悪だ、ゴミだ、その家族も雑魚だ、だからやったということにもなる。つまり、無差別通り魔殺人である。今回の小泉毅容疑者は、ちがうのである。普通は、だれでもいいのである。凶器をホームセンターか、100円ショップで購入し、それで、刺していくのである。通り魔殺人は、高いところから低いところに水が流れるように動くのと同じだからである。ある意味、自然な行動なのである。人間の意思をつなぎとめる糸が、切れた状態だからである。その人と遭遇したら、逃げることである。犯人の集中力は、長くは続かないからである。
大衆への商品、音楽、芸能もふくめ、それらは、不特定多数の人から支持を受けることで、お金儲けをするものである。知名度、認知度があがることで、商品の細部が分からなくても、確率論的に売れるものである。機械装置販売や、ある特定とした商品は、特定とした少数を対象にして、商いをするものである。俗に、いう垂直思考的商売(少数特定)、と水平思考的商売(不特定多数)との対比でもある。ある意味、まったく、やり方や考え方が違う。医薬品と化粧品(医薬部外品も含む)との違いでもある。医薬品は、効能があり、効く事を前提としている。薬であるから、その病をもつ特定とした人を対象とする。化粧品は、たとえ、効果効能があっても、薬事法でそれがいえない。仮に、効能をもつものでも、効能のないものと同じ扱いを受ける。有効成分がたくさん入っている化粧水も化粧品、単に水に防腐剤をとかしたものでも化粧水、だから化粧品、つまり、それは、不特定多数への販売を意味するのである。だから、化粧品は、水平思考的な商売なのである。イメージをあげる。認知度、知名度をあげれば、確率論的に売れることになる。認知度をあげるために、有名女優を莫大な宣伝費を使って使うのである。その経費は当然に原価に反映されることになる。
垂直思考的な商売方法で、水平思考的商売を考えても、拉致があかない。結果が残せないし、逆もまた、しかりである。小室哲哉容疑者が手がけた音楽事業というのは、まさしく、大衆を相手にしたものである。音楽事業のうちでも、クラッシク音楽や民謡音楽のジャンルであれば、まだ、垂直思考的な要素がある。技術や技巧が、あるからである。もちろん、クラッシク愛好という範囲であれば、それだけ、少数化され、狙う対象もクラッシク愛好家に特定されるからである。俗にいう歌もの、はやり歌は、対象は老若男女である。そこに、少数特定化される必要もない。逆にあってはならない。まさしく、ロジスチック方程式に近い挙動をうむ、確率論の世界がまっているだけである。初期のころは、指数関数的に動き、あるところから、急激にのび、そして、対数的に、ある常識の範囲の所で、寝てくて、そして下降するという感じである。
小室哲哉容疑者が考えるように、それは、半永久的に鼠算式に増え続けるわけはないのである。物には、はじめがあれば、おわりがある。不特定多数に関していえば、最初はなかなか支持されない、売れるわけがないのである。損益分岐点以下である。大衆と商売をするには、それだけの覚悟がなければ、最初から手を出してはいけない。音楽事務所も、新人を売りだすのに、いくら容姿端麗、歌もそこそこうまいといっても、ハイ分かりましたと、すぐに商品価値がでるわけがない。知名度があって、はじめて、タレントとしての価値があるのである。テレビ局のメインの収益は、広告費である。ただで、大衆に番組を見せている。テレビ局を運営しているお金、番組を制作しているお金、そのお金が広告宣伝費である。ある意味、視聴率が重要になる。多くの人が見ているから、企業はお金をだせるのである。テレビの媒体に広告を乗せるから、高いお金を払って、タレントを使うのである。それは、不特定多数の認知度が、そのタレントの価値となるからである。だから、ある程度、タレントや歌手に商品価値がでるまでは、時間が掛るのである。
誰が、考えても、こういう不況下で、企業はどうしたらいいか、政府は何をすべきかは、答えがでる。しかし、それは、中々実践できない。なぜなら、企業にも、行政府にも、たくさんの頭数の人がいて、それらが、がっちんこして、右往左往するから、何も決められないのである。自分は管理職だ、こういうときにこそ、点数を稼がなければ、自分の首がなくなるという不安心理が働いて、動かなくていいのに、逆に動いて結果的に墓穴を掘ることになるのである。そういう人は、普段と同じように、何もしないのなら、何もしないほうがいいのである。いずれ、大手の企業も、官僚機構の行政府も、減点主義を改め、実績に対して、評価点が加算される加算主義になるはずである。それが、あるから、あわてるのである。何もしないで、上に上がれるシステムにいる人は、そのまま、定年まで、なんとか乗り切ったほうがいい。企業が倒産したり、肩たたきされたら、それまでだと、開き直るのがいいはずである。禁煙と同じである。出来るなら、したほうがいい。しかし、65歳を超えて、70歳近い人が、苦労して禁煙をするのなら、そのまま、楽しく喫煙をつづけて、お迎えをまったほうがいいように感じる。もちろん、高齢でも、禁煙できるなら、禁煙をしたほうがいいに決まっている。
コストダウンは、なぜできないか、それは、面倒だからである。普通の技術者は、知識はあっても、それを応用する知恵がないのである。だから、考えるのが面倒くさくなるのである。点と点とが、つながればいい、しかし、コストダウンは、一つをやると、一つに弊害が出てくる。つまり、矛盾がでてくる。同じ平面状で、ロジックを追っているからである。そう、物事を、立体的に、考えることは、それだけ、考えるスペースが大きくないと、できないからである。頭の回転と、スペースと、もっていないと、途中で、ギャーといいたくなるのである。つまり、分からなくなるのである。だから、やらないのである。やらないのではなく、出来ないのである。しかし、それは、やらなくては、いけない。だから、それができる社員を抱えている会社は、生き残れるのである。出来る社員がいるというのは、それだけ、企業を安定化させた経営者の手腕がすごいということになる。ヘッドハンテングがあっても、そこに残るというのは、その会社に、安定感があるからである。安心、安定がなければ、社員は去っていく。少子化になるのは、この国に、この国の多くの企業に、未来に対する安心、安定がないためである。不安定な会社で働いている人に、どうして、安心して子供を生んで、育てなさいといえるだろうか。逆に、従業員に、安心、安定を与えられる基盤を作れる人に、会社の経営をまかせたらいいのである。もう、そろそろ、中小企業のオーナーは、そのことを割り切るべきである。どこかで、限界がある。そのときが来たら、経営を任せられる人にゆだねたらいいのである。
世にも、恐ろしいことが、白昼、法治国家の日本で起きたものである。元、厚生省事務次官の山口夫婦がさいたま市で殺され、そして、東京都の中野区で、吉原さんの妻が同じような手口で、刺されて重傷を負ったのである。たまたま、吉原元厚生省の事務次官がいなかったから、良かったものの、在宅していれば、山口夫婦と同じように、夫婦ともども殺されていたかもしれない。これは、あきらかに、山口氏と吉原氏を狙ったものである。個人的な怨恨ではない。あきらかに、彼らが、行政の担当官だったころに、彼らが職務として命令した事由から起きたことが原因であるはずである。それ以外に、二人が狙われる理由がないからである。
これに関して、何かしらの組織が関与していたら、テロである。もし、テロなら、これだけでは、事はすまないはずである。何かしらの犯行声明がでるかもしれない。しかし、現実的には、これ以上の犯行はおきないはずである。なぜなら、もうすでに、次のターゲットになりうる人には、SPが付いているからである。警察の警護をかいくぐってまで、身の危険を犠牲にして、殺害を実行する価値のある人が、厚生省関連にいるとは思えない。ある意味、自爆する覚悟で、刺し違える人がいるかどうかである。
これは、何かの警告である。事前に何かしらの、兆候があったはずである。元厚生省の事務次官に怨恨を持つ人はいないはずである。これは、あきらかに、彼らが、責任者だったときに行った事柄に起因して、今現在、何かの事由で不利益を被った人がいる。それも、激しい差別と不利益を今頃になって被った人への思いが、元事務次官の殺傷へと向かわせたと考えざるを得ない。犯人は、30代で160cmぐらいの男だということである。政治的な国家転覆をはかるような、テロではないようにおもう。どうも、見せしめ的な要素が強い感じである。
見せしめであれば、俺は本気なんだ、事務次官まで殺せるんだ、ということを誰かに見せたかったのだろう。はたして、事務次官を殺害して、なんのメリットが、この犯人にあるというのだろうか、衝動的に、怨恨により、殺害したのではないはずである。計画をして、殺すことを目的として、実行したはずである。凶器ものこさず、物証ものこさず、淡々と実行し、黒色のワゴン車で逃走する。到底、目的が、達成したとは思えない。というのであれば、これは、見せしめということになる。本丸は、別なところにある。もしかしたら、厚生労働省は、それをつかんでいて、事件があったあと、すぐに、警察に連絡し、要人の身辺警護を依頼した。これが、見せしめだということを、分かる人がいたと考えたほうが自然である。
世の中は、みんながそれなりに生きれるような暗黙の了解の上になりたっている。100人いれば、100人全員が、幸せになれるように、考えているが、世の中には、楽して生きようとしている人がいたり、逆に、不幸せを求めて自虐的に生きようとする人もいる。がんばろうと汗をかいて生きようとしようしている人には、それなりの応分の収益が与えられるものである。もちろん、世の中には、がんばろうと汗をかきたくても、かけないで苦しんでいる人もいる。何かの障害をもった人たちである。少なくとも、社会全体で、その人たちにも命の尊厳は保障してあげなくてはいけない。だから、その人たちの支援のために有効に税金が使われるのなら、だれも、それに文句を言う人はいない。
人生は、長いようで短い。学生から社会にでると、坂道を転げるように、歳月は流れ落ちる。長期の休みがなく、毎日、働くからである。そして、結婚し、家族ができれば、家族のために、働くからである。嫌になったから、はい、辞めますとは、簡単にいえないからである。上司が気に入らない、トップがおかしいといっても、よほど、非人道的な扱いを受けない限り、世間は、それをわがままとみる。転職として、旨くいく条件は、たったひとつしかないのである。惜しまれて辞める事例である。ヘッドハンテング的なものである。その人の能力や実績に対して、企業が正当な報酬を与えられなかった場合である。それ以外の自己都合の転職は、やめなければならない事由が、その人本人にあると世間は考えるものである。それが、不可抗力的なものである場合を除き、それをわがままとみる。だから、そのわがままを満たされるまで、転職は続くが、それは、下降線になる。条件が悪くなるからである。そう、世間や社会というのは、若い人が考えているほど、甘いものではないのである。
学生が、大麻所持で逮捕される。有名大学をパスした人たちである。もちろん、見つかり、逮捕されれば、普通は退学処分である。ネットや仮想空間に、なれている人は、大麻の種が簡単に入手できる。それを、こそっと、栽培するのである。麻薬成分は、大麻の葉の中にある。たばこが良くて、大麻が悪いという理由は、わからないが、大麻の方が、次の刺激をもとめ、覚醒剤に走りやすいからといわれているが、真偽はわからない。いずれにしても、社会では、だめだということである。だめというものに、手をだしたら、どうなるか、社会はそれを許さないということなのである。ある一面、社会とは、恐ろしいものなのである。大麻を所持しても、誰にも迷惑を掛けているわけではない、仮に見つかっても、執行猶予がついて、たいしたことはないと思い込む。スピード違反や駐車違反で検挙されるものと同類だと、考える。とんでもない話なのである。退学処分を受ける。その時点で、有名大学から、想定できる社会の階層には、入れないことになる。そして、何かあるたびごとに、逮捕の前歴が、あぶりだされる。それが、大麻所持、麻薬関連であれば、それで、NGなのである。
優柔不断が美徳だとは思わないし、権謀術数をめぐらして、戦略的に生きることも、意味があるとは思えない。人は、おおむね、三つの時期を迎える。ひとつは、成長期である。いわゆる、結婚するまでである。そして、発展期である。発展期は、子供の成長につれて、自分も発展することである。そこには、新たな家庭があり、自分の下には、守るべき妻と子供がいることになる。成長期とは、その発展期に備えるための準備期間でもある。いずれ、子供も、自分から離れていく。そして、最後の総括期に入ることになる。
ある程度、自分の体の自由が利くのは、65歳ー70歳までである。体力が落ちてくるからである。そこから、5?10年経過していけば、大体の人にお迎えがくる。今、生れ落ちたほとんどの人も、80年後の、29200日以内には、終末がくるのである。そう、一生の中で、一番時間が掛るのは、言語習得の時間なのである。この国であれば、この国の人々と、十分にコミュニケーションを取れる力、日本語の力を得るのに、一番時間が掛るのである。オバマ氏がアメリカ大統領になれたのは、彼の英語での表現力が抜群だったからである。内容は、人間である以上、それほどかわりはない。同じことを考えている人もたくさんいる。内容に対して、彼がオンリーワンではない。もし、オンリーワンなら、オバマ氏は誰からも理解されず、共鳴もされない。人気があるのは、共鳴できるからである。そう、自分の考えを、表現できる力、それが、抜群だったのである。
何かのスキールがあったとする。しかし、それが評価されるのは、ある程度そのスキールが、全体の上位10%以内になったときである。英検でも建築士でも一級の資格であればそこそこ食っていける。医者や弁護士や公認会計士の資格をもっていれば、ある程度の生活はできる。しかし、その中でも、あきらかに、格差が生じる。弁護士でも、軽自動車しか乗れない人もいれば、高級外車を乗り回しているひともいる。スキール自体が同じ程度であっても、そこにあきらかに、差が生じるのである。オバマさんと同じである。黒人系というハンディがある。彼の人間性がアメリカでNO1ということもない。もちろん、多くのアメリカ在住の人が、政治家になろうとしている。もちろん、アメリカの大統領になりたいと思っている人もたくさんいる。そのなかで、オバマさんは、NO.1になったのである。それは、言語を使っての表現力が、抜群だからである。もちろん、他の因子もある。(ボイス、容姿、トーンとピッチ、服装等)しかし、それ以上、強い因子は、表現力である。それをしたささえする彼の感受性やどの言葉をピックアップするという彼の感性である。あるイメージがある。それにぴったりとあう、言葉をピックアップする。そして、それをセンテンスに再構築する。それをどのタイミングでどのトーンでどのピッチでどのようなリズムで話すのかを、考え、実行する。そして、まわりの雰囲気を感受し、自分にフィードバッグし、自分の表現を場に対して最適化させる。それを、百万分の一秒で、できる力、それが表現力である。
田母神前幕僚長が、いくら国のありかを憂いても、舛添厚生労働大臣が、後期医療制度や消えた年金を復元しようとがんばってみても、国をした支えする子供が育たなければ、国のあり方は変わらないし、もっとおかしくなる。今の子供が50歳をこえるころには、すくなくとも、後30年―40年の未来には、人口バランスがおかしくなる。子供一人が、多くの老人を支える構造となる。この国の状態を国盗りゲームの仮想プログラムにおいてみたら、頭のいい戦略家なら、この国を無傷でいたただける作戦を下記のように考えるであろう。
ほっとけばいいと考えるはずである。そして、時期がくれば、必ず国力が落ちる。老人が防人では、どうすることも出来ない。防人をハイテクでまかなっても、必ず隙間が起きる。ハイテクは、プログラムが破壊されれば、おわりである。人間のすごさは、何があっても、命があれば、人間の細胞や組織を復元できる。いくら、ハイテクがすごくても、それ自身のハード、つまりCPUを自分で作り出すことはできない。そこを攻撃されれば、終わりである。ハイテクでは防人はできないのである。そして、戦略家なら、スパイをこの国の中枢部に送り込ませる。そして、時期をひたすらまつ。自分の代で、できなければ、自分の次の代の人に任せる。そうして、実が熟して、勝手に、落ちるのをまつ。そうして、落ちた実をとって、食べればいいのである。
戦後、この国は、必死で、敗戦の痛手を修復しようとした。戦前の文化、風土は、明治までさかのぼれた、そして、戦国時代まで、遡及できた。昭和30年代や40年代までは、地方にいけば、築何百年の家屋があった。武家であれば、そこに、刀やよろいはあった。つい最近まで、核家族化がすすむ前までは、だれでもが、自分の血縁のにおいをふるさとでかげたのである。先祖が、近い存在として、日本人の中に植えつけられていたのである。そう、戦争までは、どこの家でも、家族や血縁意識が保持され、盆や正月といったときには、先祖崇拝信仰が当たり前のように存在していたはずである。だから、日本の故郷や血縁や家族を守るために、特攻を志願した若者がいたのである。飛べば、命がないと分かっている。愛する祖国、愛する家族、愛するものを守るために、散華に己の命の終焉を託したのである。美化するつもりはないが、それは、そこに、一人ひとりが先祖とつながれている意識があるから、できたことである。それが、崩れた今は、誰も、特攻で、自爆しようとは思わない。自分の命と引き換えに守るものが、この国に残っているとは思えない。けっして強制して、飛べるものではない。イスラムのテロの自爆のように、そこに何か強いものがなければ、自爆行為など、ありえない話である。
だんだんと、夜の温度が下がっていく。つい最近まで、軽装でよるジョギングしていたのだが、上に一枚トレーナーを着て、走らないと、体がもたない季節になった。5km前後を走っても、汗はかくが、家に帰って、そのまま風呂に入れば、気になる汗の量でもない。そう、つい最近まで、夏であった。そして、秋になり、もう、あきらかに、晩秋を向かえている。そして、夜が更けていくと、そこには、もう、冬が来ているのである。なぜなら、夜、ジョギングを終え、ストレッチをしていると、東の空に、オリオンの三ツ星が綺麗に縦一文字にならんでいるのが見えるからである。そして、その下から、一番明るいシリウスが、昇ってきるからである。それは、冬の星座だからである。気づかないうちに、冬の冷気が、霊気となり、直ぐ近くまで忍び込んできている。
夜の星座、特に、冬の星座をみていると、そのまま、自分が逆向きになり、夜の空間に無重力となって、落ちていきそうな錯覚に駆られる。まるで、宮沢賢治の銀河鉄道のように、地球の重力の束縛から解放されれば、真空に近い宇宙へそのまま拡散していく感覚さえもつ。そして、その星が核分裂核融合を起こして、熱を発し、それが光となって、あの輝きを拡散している。その光が、長い年月を掛けて、光速のスピードで、私の目の中にも届いている。そして、その光は、私の脳の中で、収縮し、消える。何気なく星をみていると、そんな思いがしてくる。そして、ふと、この宇宙の中に、自分がいるという事実を認めれば、確率的に、私と類似した生物がどこかにいてもおかしくはないと感じる。すくなくとも、0ではない。なぜ、0ではないかというと、今、自分がここにいるからである。
率直に、無の境地にたって、次元を増やしていく、そして、素直に、この宇宙のありかを肯定してみる。良く分からないが、なぜか、この世はある。目的があるのか、そこに、ロジックがあるのかわからない。とにかく、なにかの縁で、この世があるのは事実である。それが、あるのであれば、別の宇宙があってもおかしくない。原子を測るオングストロームの単位からみれば、自分の体は、無限に近い大きさである。もちろん、地球はもっと大きいし、冬の星座のオリオンまで含めれば、無限の無限に近いものである。世の中は確率論である。ごきぶり君のたとえがよく、引き出される。ゴキブリ君を一匹みつけたら、その台所にはごきちゃんがたくさんいるということである。それと、同じことがいえるはずである。自分がいる。だから、自分と同じような感覚をもったものも、たくさんいる。この宇宙がある。なら、これと類似したものが、あってもおかしくはない。この宇宙が、オングストロームの原子の大きさと同じであれば、この宇宙が無限個にあつまるものがあってもおかしくはない。だから、UFOがいてもおかしくはない。逆に、UFOがいなければ、おかしなことになる。自分がここにいる。それは、あきらかに、ゴキブリ君と一緒のはずである。ただ、ゴキブリ君が賢いので、我々には、その一匹しかみえないだけである。世の中は摩訶不思議である。自分がここにいて、何かの意識をもっている。それは、この無限に近い無限からみれば、奇跡に近い、しかし、次元を考えれば、ここが、そこであることもありえるのである。我々には知覚できないものが、私の背後にいてもおかしくはないのである。たしかに、よくよく、考えると、それを否定する論理もないし、この世の約束事では、肯定することは出来ないはずである。だから、積極的にUFOを否定することもできない。確率論的にみれば、UFOがいてもおかしくはないとだけはいえる。なぜなら、別な人からみれば、我々がUFOであるからである。
今の会計検査院は、まさしく錦の御旗をかざす隠密部隊である。行政の支出が正当に行われているかどうかを検査し監査するところである。昔、国の行政機関と研究開発の委託業務を行ったことがある。あるとき、弊社にも会計検査院がやってきたことがある。当時の行政機関が適切に業務を行っていたかをチェックするためである。その行政府の担当官は、キャリアであったが、会計検査院には、平身低頭であった。国のあり方や、行政府の仕組みから、たぶん、身内には優しい会計検査院だが、民主党が参議院で過半数をとったため、国政調査権で、会計検査の開示を求めたら、身内にも優しく出来なくなったはずである。だから、国補助事業をめぐる12道府県の不正経理が、約5億5000万に上ることがわかったのである。国のあり方をみれば、過去も、同じことが繰り返されていたはずである。
私的な流用は、ほぼないはずである。多少、交通費を水増ししたり、たとえば、PC5台分の発注料金で、6台PCを入れさせ、そのうちの一台を私的に流用したりするケースもあったはずである。仮に、何かあったとしても、国庫に返納できる範囲の流用であるはずである。社会的な範囲での横領までは、行かなかったはずである。公務員ひとりひとりに、横領できる度胸はない。社会保険庁のように、組織全体で、横領まがいの行為を行っている場合を除くか、それが隠蔽できる環境でなければ、横領などできない。もし、横領を横領と呼ばせないような行為を仕組める官僚であれば、その人は、官僚などとちめちめした地位にとどまらず、まちがいなく、政治家になっているはずである。
行政の無駄というのは、ある意味、非常に難しい定義なのである。行政府は、利益を残すことができない。民間の営利団体とは違うからである。基本的に支出と収入とが、つりあわなければならない。収入(行政府に支給される予算)=支出+経費、であり、そこに、民間のように、利益項目があってはならないからである。私的な流用が、あったとしても、1%以下である。その支出先は、業者である。お金は、業者、つまり市場にながれることになる。ある意味、単純に、お金がばら撒かれることになる。本当に無駄になるのは、そのうちの、仕入原価である。ある意味、材料費である。それ以外は、市場に消えることになる。ある意味、無駄のようにみえて、市場に還元されているのである。本来はそうなるのが、筋なのである。
ある意味、行政が執行する予算は、公共事業費として、景気をした支えするものである。そこに、癒着や随意契約や還流や天下りという不当利得を発生させる土壌がなければ、公共事業はいいことなのである。不当利得とは、汗をかかないで、不当な利益を得ることである。本来の力では得ることができない利益を得ることである。行政から発注が掛れば、こんな楽なことはない。汗をかかずとも、仕事がもらえ、利益がでるからである。もちろん、こんな甘い汁を吸えるのであるから、何かのキックバックは、必ずあるはずである。それが、大掛かりになれば、官僚の天下りとなる。再就職斡旋ということになる。あきらかに、会計検査院が指摘した無駄遣いで発生した業者の不当な利益分は、(つまり、総利益―正当な利益=不当な利益 )、発注した官僚や役人のために使われるはずである。それが見返りである。それが公務員の身分として、一番おいしいところである。公務員から、その暗黙のおいしいところをとったら、何ものこらなくなる。たぶん、ばかばかしくなって、頭の良い人は、だれも上級公務員になる人がいなくなるはずである。会計検査院には、それを指摘する権限はない、それは、税務署である。会計検査院と税務署がもし、組んだら、業者から還流や見返りされる官僚の実態が暴露されるはずである。そうなれば、この国の官僚制度は崩壊するはずである。
ふと、なぜ、世の中が存在しているのかと、考える。何故に、こうして自分が生きているのかと、感じる。そうすると、どこともなく、自分の意識をかすめる風を感じる。それは、どこからか吹いてくるのかわからない。しかし、どこからか、自分をゆする振動を感じる。目の前には、パソコンがある。ネットをひらけば、色々な情報がはいる。10年前とは異質である。もちろん、20年前と比べたら雲泥の差である。特に、デジタル化に関しては、驚嘆する変化がある。振り返れば、戦争がある。その前には、明治維新がある。その前は、徳川の世があり、関が原があり、下克上の乱世があり、その前は、荘園制度の貴族政治があり、藤原時代につながる。源氏物語の世界でもある。そして、もっと、さかのぼれば、弥生時代、縄文時代につながる。そのなかで、自分と同じ感覚をもった人間が生まれては死んで、生まれては死んでいった。そうすると、それらが、ひとつの線でつながることになる。毎日のようにテレビキャスターとして活躍していた筑紫哲也さんが、先週の金曜日(11月7日)になくなられた。TBS系の「NEWS23」で、約20年間、キャスターを勤められた。テレビ朝日系のニュースステーションの久米宏さんとともども、10時から12時まで、報道番組の顔として、我々の脳裏に焼きついている。
その筑紫哲也さんは、もうこの世にはいない、火葬されているので、残るのは、筑紫さんの骨だけである。なんとも、奇妙な光景である。筑紫さんが出演されたNEW23が、サスペンス番組とともに、私の家にあるビデオの中に録画されている。それを見ようと思えば、いつでもみれる。多事争論で、意見を述べる筑紫さんのコメントは、どこかの記憶にのこっている。平日の(土日を除く)毎日、決まった時間に、決まったチャンネルをつけると、決まった人の顔が出てきた。それも一年ではなく、5年、10年、筑紫哲也さんが、番組を下りるまで、約20年弱、続いていたのである。まだ、73歳である。がんで、倒れなければ、後、2?3年は、現役で活躍できたはずである。考えてみれば、人の命はあっけない、世の中、確かに、朝に元気よく、いってきますといって家を出た人も、夕べには、遺体として、無言の帰宅をすることもある。だから、ある意味、70歳まで、現役でキャスターを勤められたこと、それ自身、偉大なことでもある。ただ、あっけない命の終焉だから、余計、命とは、人の命とは、このようなものなのだと感じる。
そう、ぎりぎりなのである。自分がこうして生きていられるのも、ぎりぎりのところを歩んでいると感じる。蟻が地面を歩いている。自分は、できるだけ、踏みつけないように歩いているつもりだが、いつも、地面を見て歩いているわけではない。自分は、蟻を踏みつけて、歩いているとは言いたくはないが、蟻を踏みつけるとは意識していなくても、確率的には、踏みつけて歩いているのは事実である。子供のころは、罪悪感がないため、平気で、蟻を踏みつけていたと記憶している。蟻からみれば、いつ踏みつけられるかわからない。突然、上から大きな靴底が見えてきたら、高い確率で、その蟻の命は終わりになるのである。一匹の蟻は、いつもギリギリのところで生きている。そう、きっと、我々も同じである。何か、自分以外の力を受けて、内からの力と外からの力とが、どこかで、バランスがつりあっていて、生きていられる。そのつりあいが悪ければ、病気になったり、最悪、事故にあったりする。そう、そのバランスが崩れたら、命が落ちていくような感じである。塀の上を歩いている感覚でもある。落ちたら、お終いという感覚である。
なぜ、こういう世の中が存在しているのか分からない。なぜ、物質が存在しているのかわからない。なぜ、この宇宙があるのかもわからない。だから、なぜ、自分がこうしているのかさえ、分かるわけがない。寝ている時は、自分にとっての世界は停止している。しかし、それでも世間は動いている。筑紫さんも同じ感覚を持っていたはずである。その筑紫さんは、もういない。そう、筑紫さんがいなくなった日以降も、同じように世界が動いているように見える。しかし、確かに、微妙に違うのである。筑紫さんがいなくなった世界が動いているからである。
人が絶好調のとき、すでに、崩壊の目はその人に宿されている。よく言われるのは、頂点にいるとき、周囲を見渡さないと、いつなんどき、どんなわながあるか、わからないよという事なのである。あのホリエモンも、絶好調だったのが、前の衆議院選挙であった。あの小室哲哉容疑者も、飛ぶ鳥を落とす勢いだったのが、約10年ぐらいまえであった。そのとき、小室哲哉氏は、ホリエモンの会社をつかい、その成長を支えていたのもまた、事実である。紆余曲折はあるが、自分の我をつよく惜し過ぎると、どこに落とし穴があるかわからない。やりすぎると、元の鞘にもどれない場合もある。何事も過ぎたるは及ばざるが如し、でもある。そんななか、トヨタ自動車も、営業利益予想を大幅に修正した。もちろん、トヨタ自動車は、賢い会社なので、次の戦略を着実に練っている。今までの、拡大路線、ガソリン車中心の販売戦略等を続けていけば、いままで内部留保していた資産も雲散霧消し、いつかは、倒産する。そうならないように、次世代を考えているはずであるし、拡大路線の疲労により、戦線が延びきっているはずであるから、縮小補強するはずである。天下のトヨタ自動車させ、無理をせず、利益をおさえ、実質をとろうとしているのである。潤沢にあるトヨタの資産は、次世代のエコカーの開発投資に向けられているはずである。そう、いままでように、マイカーを使って、楽しく、ドライブできる環境ではないと認識したのである。100人ならいい。1000人ならいい、一億人ならいい、しかし、10億の人が同じ事をしたら、どうなるか、あきらかに地球はパンクする、そう無限に市場経済は発展することはできないし、どこかで、修正がかかり、制限を受けることになる。制限付き市場経済に移行するはずである。その制限の根拠は、地球温暖化阻止である。生態系が保持され、地球全体が、人間のわがままを吸収してくれる範囲までである。それが飽和して、過飽和したら、どうなるか、その環境で生きれる人だけしか、生き残れない。地球の人口が減るだけである。餓死者がでて、医療を受けられずに多くの人が死亡するだけである。地獄絵図がまっている。それ以前に、奪い合いの紛争や戦争がおきるかもしれないし、核爆弾や細菌兵器をつかうかもしれない。このままの状態でいけば、地獄が今世紀中には待っているはずである。
だから、世界が不況になって当然である。なぜ、そうなるか、将来が不安になったからである。このままの経済活動が続くと思わなくなったからである。手元に在る資産を目減りしないように、資産運営したからである。その資産運営のシステムを、今の市場経済のメカニズムに委ねたのだから、それが破綻すれば、どうなるかは、分かりきったことになる。これからの経済は、地球が人間の欲望とエゴを吸収してくれる範囲内だけの発展ということになるはずである。無制限な市場経済は、破綻した。だから、株価は当然に乱高下し、ちょっとした事で反応する。いくら、主要国の中央銀行が利下げをして、経済活動をあげようとしても、もともとの体制が、ぐらついているのであるから、誰でもが、疑心暗鬼となるのは当然である。
市場は、必ず需要のある方向へ流れる。その需要がどこにあるのかが分かれば、そこにむけて、投資をしたり、それに対応できる研究開発投資をすればいいのである。今は、できるだけ損をしたくないように、売り逃げしているだけである。
日本には、莫大な資産がある。将来の不安を払拭させ、日本がリードをして、地球温暖化阻止に動き出し、エネルギーの枠組みをしっかりと調整できれば、市場は、地球温暖化阻止という制限を受けながら、順調に進展するはずである。市場の発展と人間の欲望とは矛盾するが、地球温暖化阻止というたがが、はめられる以上、自然増殖をする細菌に似た人間の金銭に対する欲望も押さえつけられるはずである。
ある意味、ネット社会で全世界がつながっているため、不特定多数の意思が確率として表れたのが、今の不況の姿である。ある意味、健全なことである。政治も、この流れにそって進展するはずである。年金、高齢者医療制度、公務員改革、地方分権、未来に対する安心を国民に与えるためには、今の隠された情報を公開し、誰が不当な利益をむさぼり、なにによって、この国のありかたがゆがめられているのかを示すことである。オバマ新大統領でアメリカに変化が起きる。その流れは、次の衆議院選挙に反映される。良い方向に向かうことであろう。
世界大恐慌時でも、バブル崩壊時でも、大手の銀行や証券会社や大手の総合商社がつぶれてなくなったときでも、人が生きている限り、そこに物流は存在していた。通貨暴落時にも、経済や金融はなりたち、人は餓死することなく、国家はつぶれることなく、存続していた。ある意味、何も恐ろしいことはない。確かに、世界景気の悪化により、厳しい環境に入ったようにみえるのも事実である。しかし、厳しい環境と映るのは、慣性が働くからである。従来の既得した方法論、安易な考え方で乗り切れなくなったからである。厳しいと感じるうちは、問題はない。自分のすすむペクトルと社会の需要が求める場とが、ずれたことを認識できるからである。その差分が分かれば、それを修正すればいいし、己にその差分を修正できる力がないと感じれば、それを補充すべく、必死に勉強し、その足りない分を補給すればいいのである。
いつの世にも、需要と供給とが存在する。市場は必ず、エネルギーの低い方向へ流れる。エネルギーの低いところとは、供給がないところである。したがって、いつまでも、それに対しての需要は存在する。逆に言えば、どんな市場も、需要が生まれる方向に動くということである。それが、世の中の鉄則である。飽和し、溢れ、新たな低いところへながれ、それも、需要と供給とで、飽和になり、そして、溢れ、また、低い方向へと流れる。そして、その流れる方向は、外部からの力をうける。磁場によって、電気線のベクトルが変わるように、電場によって、磁力線のベクトルが変わるように、市場の流れも変化をうける。それが、まさしく、地球温暖化である。エコロジー以外には、ない。これが、最大の変化になる。まさしく、CHANGEになる。
アメリカ型の市場経済万能の時代は終わった。その場が飽和し、そこから溢れでたものは、新たな需要がうまれる場へと移行する。そして、アメリカの市場経済の場で乱れ踊らされた人の心は疲弊し、新たな場を求めた。それが、CHANGEである。オバマ新大統領がいう、WE NEED CHANGEである。黒人の血を半分もつ新大統領である。あきらかに、白色人種優位の時代から、混合、融合、ハイブリッド型へと移行するはずである。対立は必ずエゴをうむ、そして、終いには、相手も破壊するが、自分も破壊することになる。まさしく、これからが、本音で、WIN?WINの時代、YOU ARE OK, SO I AM OK になるはずである。いままでは、建て前は、WIN-WINであったが
実質は、WIN-WINではなかった。格差と差別を助長する時代であった。
あきらかに、無限の経済活動、経済成長は、幻想であったことが分かった。無限の経済成長を求めることは、己の底なしのエゴに、欲望を満たし続けることである。ブラックホールに吸い込まれるように、人の欲望は無限である。それは、強い核に吸収されることになる。強いものが、力をもつことになる。重力と同じである。弱く、小さいものは、強いものに吸収され、強いものはどんどんと巨大化していく。そして、どうなるか、爆発して終わりである。そして、あらたな秩序を求めて動き出す。今の状態は、まさしく、爆発したのである。それをそのまま、放置すれば、爆発の連鎖が生じて、市場は破壊したはずである。
何の先入観を持たずに率直に読んだ。一気に読めた。取り立てて、騒ぐことは何もないと感じた。田母神氏の一個人の考え方を述べたものであると思えば、それを否定することはできない。そして、ふと、感じたのは、田母神氏の苗字は、良い苗字だと、率直に感じた。田んぼに母のような神が宿ると、その田と母と神の漢字を3つ並べると、そういう印象をもった。田母神氏は、苗字から、自分が生まれた故郷、日本を愛するようになったのだと感じた。もし、私も、田母神という苗字をもつ家から、生まれたら、同じように、日本の田畑を愛し、そして、田畑を守る日本の風土、それをつかさどる日本の神を慈しむようになるかな、とふと感じた。
確かに、懸賞論文の書き手の肩書きに、防衛省航空幕僚長、空将という文字をいれるのは、よくない。あくまで、田母神氏の個人の寄稿という形であれば、何も問題はない。後で、その書き手が、防衛省航空幕僚長、空将の肩書きをもつ人間と分かっても、それは、個人の思想の自由だで、突っぱねられるからである。もし、そうすれば、問題は起きなかったはずである。もし、そうでないのなら、田母神氏は、これを肩書きともども世に出して、ひとつの話題性を集め、世に、自説を押し広めたいと考えたのだろう。確信犯的な行動である。もちろん、黙ってても、定年が近づく。黙っていて、防衛省トップに右顧左眄し、防衛省関連の天下り団体に再就職すれば、それはそれで、個人の生涯の損得を考えれば、そのほうがいい、しかし、田母神氏は、それよりは、積年の思いを、ぶちまけたほうが、いいと、感じたのであろう。ある意味、それはそれで立派なことである。
田母神氏の主張は、ある意味、正しいことである。個人や国家の本音の心理をその時の時空間に並べたら、相対的に、日本だけが侵略国家ではないということになる。欧米列強諸国、すべてが植民地政策をとっていたため、日本も含め列強諸国すべてが、侵略国家であったということになる。そして、その中で、日本は、比較的、義をもって、その国と融和をはかりながら、植民地政策を実施したということである。たしかに、日本だけが、侵略国家という汚名を受けることは、正しくない。すべての列強諸国が、侵略国家だったといわなければならない。どの国でも、植民地にされて、愉快だと思う国民はいない、もし、日本が江戸時代に、国を開き、新しい国の制度に変えなければ、つまり、明治維新を敢行し、富国強兵をしなければ、多くのアジアの国々と同じように、欧米の植民地にされていた可能性がある。そのとき、多くの人が攘夷意識をもち、支配者側と内戦状態をもったであろう。つまり、国家が他国を支配するような状態であれば、そこに支配する側の法理はあっても、支配される側の法理は存在しない。だから、無条件降伏を正式にした日本としては、日本は侵略国家であり、蛮行を繰り返した、ならず者国家といわれても、ある意味しかたがないのである。
まるで、平家物語の盛者必衰の理の現代版を見ているようである。確かに、小室容疑者が手がけたアーチストや作品は、ことごとくヒットし、そのつど、莫大な印税が彼の懐に飛び込んできたのは、事実である。たまたま、著作権制度があり、それとレーベルもアナログからデジタルへ変換したころで、複製という作業が、スピーディに成し遂げられる時期だったのが重なり、瞬く間に、彼の作品が、日本全土に浸透していったのである。熱し易く冷め易いといっても、その当時は、彼が作り上げた作品が日本人の中には、斬新と映ったのである。そして、彼が作り上げた多くのメロディとリズムは、飽和するまで、吸収されたのである。たまたま、それが飽和するまで、小室哲哉容疑者の作品は時間が掛ったのである。そのため巨額な富が毎年彼のところへ集まったのである。音楽でも絵画でも小説でも、すべてに、大衆によって飽きるまでの飽和時間があるのである。未来永劫、世に出す作品があたることなどない。人には、個性があり、特に芸術作品をだすにあたっての引き出しが個人にはある。それが豊富であっても、個人であるかぎり、必ず物事を見る視点があるし、パターンは存在する。どこかで、限界は存在する。どこかで、飽きられるときがくるのは、避けられないのである。
歌ものは、基本的に、はやり歌なのである。斬新と思っていたものも、直ぐに、なれてしまう。将棋の戦法と同じで、斬新なやりかたも、それに目がなれてきたら、そんなものかで終わってしまうのである。飽和時間だけの問題となる。残念ながら、今の時代では、はやりものでしか、商売ができないのが現状である。はやらなくても、いいものはある。じっくりと聞かせる演歌もある。しかし、売れない。売れるためには、莫大な広告宣伝や大衆の嗜好を変化させるぐらいの世界的な仕掛けが必要になる。演歌的なものを広げたいなら、アメリカやヨーロッパに、その演歌的なリズムの曲をヒットさせ、そのリズムが潮流だと認識させれば、今度は、演歌が主流になる。演歌歌手や演歌的なメロディーを得意とするプロデューサーが、そのときは、第二の小室哲哉容疑者になるだけである。
独善になるのが、アーチストや技術屋の傾向である。それを是正し、大衆(ユーザー)と調和させるのが、営業やマネージャーの仕事である。アーチストや技術屋は、大衆には迎合したがらない。自分の作品や技術が、世界一だとうぬぼれる。もちろん、その自信がなければ、世の中渡っていくことはできない。それはそれでいい。問題は、ある程度、世の中に売れて浸透し、それに、飽和が来たときにどう対処するかの問題になるのである。必ず飽きられる。同じパターンは、2回までで、3回同じ事をやると、うざったいと思われる。一流の芸人は、そのとき、視点移動し、大衆に迎合し調和を図る。大衆に受けるには、どうしたらいいかを考える。それが出来る人が、一生、トップにいる芸人やアーチストである。
