2008年10月アーカイブ

 民主党に政権担当能力があるかどうかは分からない。しかし、自民党に政権担当能力がなくなったのだから、民主党に政権を担当させて、自民党が出来なかった改革を進めてもらいたいと、誰でもがそう思うはずである。政府が10月30日に発表した「追加経済対策」内容を新聞やテレビやネットで、見聞きしたが、誰のための追加経済対策なのか、誰にむかっての追加経済対策なのか、はなはだ疑問である。率直に感じた印象であった。特に、定額減税をし、3?6万もらえるなら、当然に頂くが、それで、自民党を支持しようなどと、一向に思わないし、逆に、こんな無駄なことをやって、暇な役所に仕事を与えたと感じてしまう。そう、先細りした役所や天下り先に仕事を出して、それなりの大義名分を与えるのが落ちなのである。

 

 本日の朝のワイドショーで、民主党の河村議員が、税金を払う人は苦悩を背負い、税金で働いている人は、極楽な生活をしている、と言っていたが、まさしくそのとおりである。かたや、借金で苦しんだり、自殺まで追い込まれている。また、路上生活を強いられたり、ネットカフェ難民として生きる若者がいたりする反面、東京の高級住宅街では、覚醒剤が白昼取引されたり、慶応大学では、学生が大麻所持容疑で逮捕される時代なのである。格差が想像絶するほど広がっているのが事実である。麻生首相は、国会で、カップラーメンの相場は、400円ぐらいと寝とぼけたことを言っている。牛丼より高いわけがない。いくら、庶民の視察といって、商店街を歩いても、それが、政策に生かされなければ、ただのパフォーマンスとして、終わってしまう。それが時間外であれば、警備のSPの残業代として、そこにも税金が無駄に使われていくだけである。

 

 今が100年に一度の危機でもない。山一證券がつぶれ、北海道拓殖銀行が経営破綻し、大手の銀行が救済合併し、下位の大手総合商社も救済合併した、色んな業界でも(化学品、医薬品も)、単独では成り立たないため、それまでの日本的な財閥系や銀行系列の枠を超えて、一緒になったのである。それが、バブル崩壊後の今から約11年前の出来事である。今回は、100年に一度ではなく、10年に一度の危機なのである。これは、日本が単独で悪化したのではなく、世界全体が沈降しただけなのである。ある意味、他が下がり、日本はそれほど下がらないのであれば、相対的には日本はいいという状態なのである。何も、じたばたすることなく、年金や高齢者医療制度、未来に対して安心できるようなシステムを作り出していけば、自然と消費に金がながれ、内需主導で、お金が市中に出回るようになるのである。問題は、自民党が長年作り上げた馴れ合い政治が、機能しなくなっただけである。動脈硬化を起こしているにも関れず、フルマラソンを走ろうとしているのである。

 

 三年後に消費税の引き上げを言及したが、とんでもない話である。麻生首相も、公務員制度改革をやった後といっているが、公務員制度改革をやりもしないのに、何故、三年後に消費税を上げることが前提となるのかわからない。そこに、ロジックはない。それは、公務員改革をやっても、そこに公務員改革をやる公務員が必要になり、一向に無駄が省けないということを明言したのである。つまり、公務員改革などやらないといっているのである。もちろん、3年後、麻生首相が、首相でいる確率ははるかに低い、次の衆議院選挙で、自民党と公明党で、連立内閣が組める保障もないのである。逆に、自公で連立内閣が組める確率が低いのが現実である。だから、選挙目当てのリップサービスと多くの人は、そう思うはずである。今の自民党には、そこまで、政権担当能力が欠如しているのかと、思われてもしかたがない。ある意味、逆切れである。どっちみち、だめなら、大きな事を言ったほうが、いいと感じたのだろう。昔の大本営と同じである。戦禍が悪化しているにもかかわらず、今だに皇軍勇ましくといっているのに等しい。

 

 今は、早く衆議院を解散し、民意を問うことしかないはずである。それで、麻生首相が支持され、再度、内閣総理大臣と首班指名されたなら、思い切って、追加経済対策を実施したらいいのである。されなければ、下野して、次の参議院選挙での巻き返しを図ればいいのである。それが天下の常道のようである。

 

 東証の日経平均株価が、7000円を割ったときがある。底値とほとんどの人が思ったはずである。案の定、それから、株価は、10000円に向けて推移している。数ヶ月まえまでは、12000円前後であるから、それから、一気に落下していったのである。2割ぐらいの下落はあっても、7月には、14000円前後であるから、3ヶ月で、資産が半値は、確かに行き過ぎである。それが、すこしづつ回復している。

 

 誰が考えても、株それ自体には、実態がない。もはや、投機の対象である。ばくちの世界と同じ、安値で買い、高値で売る。その利ざやが利益、もちろん、利益が出る人もいれば、それと同じだけ損している人がいる。基本的に、実態のない場である。仮に、世界で誰も車を買わないということが起きれば、トヨタも日産もホンダも、倒産する。誰も、車を買わない人などこの世にいないと考えるが、それも、確率の問題で、絶対にそういうことが起きないとはいえないのである。もちろん、その確率は非常に低い、巨大地震が起こり、日本がつぶれる確率よりは低いかもしれないが、それでも、起きないことはない。すべて、確率なのである。だから、三ヶ月で、半値になった株価も、三ヶ月で、元にもどることもありえる話である。なぜ、株価が7000円から反転したか、多くの人が、それが底値だと感じたからである。だから、今度は、逆なことが起こる。後は、多くの人が、10000円の株価が妥当かどうか、日本の株価をどう捉えるかで、今後の予想が決まる。10000円までは、いくと感じれば、上げ潮にのる。なぜなら、日経平均9000円の時に安めの株を買って、日経平均が10000円の時に売れば、利ざやが生まれるからである。だから、多くの人がそう思えば、日経平均株価は10000前後には、近々にいく。そこで、再び、乱高下が生まれるかどうかは分からない。

 

 確かに、これで、アメリカの消費パターンは、変わることは事実である。アメリカが消費を引っ張ってきた。汎アメリカの考えのもと、アメリカの自由と経済力は、幻であったと、多くのアメリカ人が悟ることだろう。巨大な証券会社も銀行もメーカーも、破綻する。テロに屈することがなかったアメリカも、自ら仕掛けた市場経済のわなに自らはまり、自縄自縛の結果となった。もはや、アメリカの考えが万能ではない、少なくとも、アメリカ流の自由な市場経済でいけば、このような結末を迎えるということが理解できた。アメリカ人も、将来に対する不安を覚えたはずである。アメリカ人の消費は、抑圧されるはずである。日本企業も、輸出型から、内需対応へとシフトするはずである。海外に工場を作ってきた日本の企業も、それらを整理し、すこしづつ日本に工場をシフトするはずである。だんだんと保護貿易的な要素を持ち出すはずである。多少もどしても、それでも、まだ自由市場経済の流れである。行き過ぎたものをもどすだけである。

 

 日本が不景気なのは、金が日本でまわらないからである。内需を刺激する政策をとらないからである。日本には、巨大なお金が眠っている。将来が不安だから、お金を使わないのである。教育費と老後が心配だから、消費を控えるだけである。とにかく、食糧の自給率を上げたり、脱石油政策をとったり、エコを日本で進めていけば、必ず内需拡大に弾みがつく。日本に力がつけば、円高と進み、株も高くなる。これが、本来の姿である。円安と株高のリンクは、おかしい。それは、政策がおかしいからである。

 

 株価が乱高下して収縮し、市場関係者のパニックが過ぎ去り、その後、冷静に市場を見渡せば、パニックの嵐で空洞化になった市場がいたるところで見えるものである。多くの人が、それが日本の株式市場だと考えれば、資金は、日本に流れることになる。衆議院選挙が、遅かれ早かれ、実施される。そうなれば日本の政治や官僚制度の仕組みが大幅に変わることになるはずである。そうならなければ、いつまでも。円高と株安の連鎖を断ち切ることができない。円高と株安がリンクするのは、日本の産業が輸出をメインとして考えているからである。内需を刺激する政策をとれば、円高と株安のリンクが弱まるはずである。円高が株高となるような政策を実践しなければ、本来はおかしいのである。なぜなら、円が強くなることは、本来はいいことなのである。それだけ、力があることの証である。力のある会社の株価が上がるのは当然であし、強い通貨の国が豊かになるのは、当然だからである。円高と株高にならないのは、どこかがおかしいのである。

 

 右肩上がりの経済では、ある意味、だれがやっても、ある程度は伸びる。株式運用で赤字がでるのは、右肩上がりあがりが崩れ、それを運用している人の才覚が現れるからである。運用している人が素人だから赤字になるのである。世の中は、人と同じように、誕生と臨終がセットになっている。日々、変化をしている。世の中は、その生死の数の重なりなのである。全体的に成長していても、その中には大きく伸ばしているところもあれば、瀕死の状態のところもある。トータルでどうだといっているに過ぎない。そして、世の中は、周期がある。永遠に良いことばかりは起きないし、同時に永遠に悪いことばかりでもない。晴れれば曇ることもあり、ときどき、嵐もくる。それが、どうも世の中の摂理みたいである。そして、全体的に停滞しだしたということである。もちろん、そのなかでも、成長するところもあれば倒れるところもあるのである。

 

 今は、リセッション期に突入したようである。だから、みんなおとなしくしている。金持ち喧嘩せずの状態に入る。資産のある会社は、この時期、あえて、戦いは挑まない。自分だけが、負けているのではなく、みんながおとなしくしている状態であるから、それに従うだけである。この時期、5年後の未来のために、新規のビジネスを構築したり、コストダウンを考えたり、省エネを進めるのである。要するに、次にくる波に備えるのである。次のキーワードは、エコロジーであり、コストパフォーマンスであるはずである。消費エネルギーをどれだけ少なくし、最大の効果や効率を発生させることができるかが、勝負になる。

 

 この時期、資産のある会社は、そうやって、次の波に備えることが可能である。しかし、零細企業には、その体力はない、知恵をだし、新たなものを作り出すしか生き残る道はない。同じことをしていたら、生き残れない。次の来る時代の波を読んで、それに対応した技術や加工技術を構築する以外、厳しいかもしれない。後は、国がどのような支援策を出すかに掛っているが、今のシステムでは、期待は出来ない。光ブロードバンドが必要なのに、古い電話回線で、物事を処理しようとしているのだから、話にならない。電話回線やISDN回線を光ブロードバンドに変えるためには、政権を交代して、非効率的な縦割り二重行政を排除していくしかないはずである。

 

 5年後、伸びている会社かどうかは、今のあり方をみればわかる。今、汗をかいて、頭を使って、知恵を出して、コストダウンと省エネに取り組めるかである。そういう会社は、5年も大きくなっている。投資家は、そういう視点で企業をみて、企業の格付けを検討すべきである。

 先週の夕方、高速の伊勢湾岸線から、豊田ジャンクションで、東名に入ったら、道路補修工事ということで、大渋滞に突入してしまった。まったく動かない。片側一車線、数十キロ規制していた。しばらくすると、やっと動き出した。渋滞の原因は、たったひとつ、ニ車線が一車線になり、ブレーキを踏んで、減速するからである。昔、必ず、天王山トンネルで渋滞が発生した。今は、上り下り4車線になったため、渋滞はなくなった。その原因は、ドライバーが、トンネルの前で、ブレーキをかけて、速度変化を起こしたからである。誰かが、道をふさぐから、それが増幅して、混乱となり、車が止まるのである。もし、ヘリコプターから、全体を俯瞰して、きちんと、これはここ、それはそこへ移動して、運行しなさいといったら、渋滞など、起きない。だから、片側一車線になって、しばらくすると、時速は60キロ前後しかでなかったが、スムーズに動き始めるのである。そして、二車線になり、普通にもどるのである。そして、腹立たしいことに、また、渋滞がまっているのである。なぜなら、また道路補修工事が数十キロはたれたところでやっているからである。

 

 信号機がパンクすると、車はどうなるか、まったく動かない。パニックになる。お巡りさんが、来て、整理をしてやらなければ、どうにもならない。二車線では、車はある程度自由である。前に行きたいドライバーは、追い越し車線を使う。それでも、追い越し車線をとろとろと走っているドライバーがいれば、何かしらのサインを送る。それでも気づかなければ、通常車線から、追い越しを掛ける。とにかく、二車線あり、ある程度、割り込める車間があいている程度の流れなら、ドライバーの自由が、制限時速内の範囲ではある。覆面パトカーに運悪く捕まったら運が悪いと諦められる人であれば、140キロ以上で走っても問題はない。ただし、違法であるから、見つかれば、捕まるだけである。そういう若いおにいちゃんも時々見かける。

 

 今の株価の乱高下や金融パニックとは、まさしく、信号機がない状態の交差点なのである。交通量は増えている。ちょっとしたきっかけで、崩れるのである。交通整理する神様がいないのである。高速道路を走る若者には、エゴがあり、欲望があるのである。見えざる神様の手が、自ずと交通整理するわけがないのである。投資をやっている人達は、高速道路を140キロ以上で暴走する若者と同じ心理なのである。ある意味、麻薬中毒に似た感覚をすでにもってしまったのである。そこに、自制などあるはずがなく、我先に、利益に群がろうとする人たちの集合体である。そこに、いくら論理で説明しても、多数の参加者がエゴをむき出しにして、わめいている状態であるから、すぐには治まらない。高速道路の渋滞と同じように、待つしかない。駄々をこねる子供を諦めさせるには、なき疲れて眠るしか方法がないのである。しばらくは乱高下し、その中で、どういうふうにしたら、利益が出てくるか、新たなビジネスのモデルを誰かが出してきて、それに従うのがいいと多くの人が納得して、はじめて、再起動が掛るはずである。

 

 小泉構造改革からの、流れがこれで、終焉する。アメリカの市場経済、開放経済がいいと、いっていた人たちは、完全に人間の欲望を忘れている。そのルールとモードでここ数十年、社会は回ってきた。それは、アメリカが本来もっていたキリスト教的な倫理感、正義感の喪失でもあった。仮想と現実との乖離である。それは、倫理なき市場経済主義の破綻である。麻生太郎首相が、今やろうとしていることは、昔の日本の手法でいこうとしている点である。しかし、事は、すでに、グローバル化の中に、日本経済も巻き込まれている。まさしく、時は幕末に近い感じである。攘夷はもうできない。開国、倒幕へと維新が動いたように、日本の仕組みを新しくしなければいけないのである。秋葉原で、オタク気分で、演説しても、そのパフォーマンスは通用しなくなったのである。残念ながら、幕が下りてしまったのである。その余韻で生きれるだけ、この国には余裕はない。だから、株が乱高下するのである。倫理をもった秩序ある市場経済にあわす必要がある。

 

 しばらくは、株の乱高下はつづく、しかし、頭のいい人は、それで、利益をきちんと確保している。変化があることは、力が生まれていることを意味している。それをマイナスにつかうのも、それをプラスにつかうのも、才覚である。株が乱高下している。株のデイトレイダーにも、激しい格差が生まれている。巨大な富を失う人もいれば、巨大な富を得る人が、今の乱高下の中にもいるのである。まさしく、乱気流の中にいる、パイロットでもある。パイロットの感性と理性によって、その乱気流の中をどうとでも切り抜けられるのである。

 

 何故だか分からない。物心ついてから、物事には、何事も陰と陽があることが頭の中で理解できるようになった。プラスとマイナス、表と裏、男と女、陽と陰、メジャーとマイナー、高と低、色々な対極があることが頭の中で分かる。ほとんどの物理現象も、その表裏の反転の組み合わせであることが、分かるようになる。もちろん、命の活動も、基本的に、波のように、高低差による、エネルギーの平滑化の運動であることもわかる。イメージでいけば、サインカーブ(波)に、定数がマイナスの指数関数を重ねたもの、波が浜辺に打ち寄せられて、段々と波の高低差が減衰していき、最後には、平滑化し、限りなく直線に近づくような感じである。臨終時のように、心拍数が減少していく。心臓のポンプ機能が段々とゆっくりとなり、終いには停止する。よく、テレビのサスペンスでみる、時間に対して、変化のない、直線が画面上に現れるようなものである。

 

 ある程度、人生を生きてくると、人間の後ろには、なにか大きなものがあるように感じる。今の我々には、3次元空間以下の世界しか見えない。もちろん、それに、時間軸が重なるから、時間軸に対する3次元の空間での物事の変化を、相対的に見ることができる。何故、相対的かといえば、我々は神様ではなく、その空間の物事と同じように、それらと一緒に時間にながされている存在だからである。あくまで、自分という視点でしか、物事を捉えることができないからである。3次元空間でいえば、天気である。もし、我々が、2次元の平面の中に閉じ込められていたら、3次元空間でうごめく気象の変化を、不気味な鼓動として捉えるだろう。それと同じように、我々の背後に何かの影があり、それが我々の感覚をいつもよぎっている。そして、それがいつも、陰と陽の反転の組み合わせとして、この世の事象として、我々の眼に現れるような気がする。それを、ひとつのストリーとして、表現したのが、易、易経という書物である。私は、先人の知恵のするどさを感じる。

 

 だから、我々には永遠につかめないが、陰陽が別れるまえの状態がどこかにあるはずである。それは、荘子がいっている、胡蝶の夢の中かもしれない。どこかの涅槃の花の上にとまる一匹の蝶の幻の世界が、この世のありさまかもしれない。それを荒唐無稽と否定する論理も世の中にはない。最終的には、不可知論をもってすれば、人間が想定するすべての論理が否定される。もちろん、否定されるもの自身もそれで否定されるわけだから、いかなる論理も今度は肯定されることにもなる。実証する論理も、同じことである。物質には、必ず正(陽)と反(陰)があり、なぜか分からないが、この世には、正の物質が残り、陰の物質が隠れたといわれている。それが、ひとつになると、物質がきえて、光となる。

 

 だから、この世にあるものは、この世を包括するなにかの仕組みに従っている。その仕組みは我々には、永遠にわからない。もしかしたら、何もないのかもしれない。わからないし、そんなことを考えて生きていくことにも意味がない。いえるのは、物事は、陰と陽が繰り返すことでそれがなりたつことである。そして、個人にとっては、それが、減衰してどこかで消えるのである。ブラスとマイナスが、相殺されて、0に近づく感じである。どんなものにも、終止形がある。不安定なものでは終止形にならない。音楽でも、ハ長調の曲であれば、終わりは、ドで終わるのが当然となる。不安定とは、行き過ぎた陰と陽、プラスとマイナスである。ハ長調の曲であれば、ドと不協する音では、終止形にならないということである。

 

 だから、何かの縁で、過分に利益がでていれば、何かの縁で、過分に虐げられた人に補填するのがいいである。悪銭身につかずとは、不当に得た利益は、どこかで吐き出してしまうのである。意地汚く、おいしいものを食べる人は、メタボになり、苦しむことになる。だから、昔から、祟りというものが世界中、どこにでもある。無残に殺された人の無念は、マイナスの不安定となり、この世に残るというものである。それを中和するのに、その加害者は、加持祈祷を施し、その人の魂を鎮めることになるのである。人の死は大きな背後の視点からみれば、関係のないことである。そこに、何かしらの不安定なものがあれば、それを中和させるような働きがあるはずである。雨が降る、雷がなる、風が吹く、すべての気象現象は、大気のバランス(陰陽の差)を平滑化するものである。金融不安の株価の乱高下も当然に起きて、どこか中和されたところに落ち着くはずであるし、北朝鮮の日本人拉致家族の無念さは、必ず、何かの形で解消されるし、中近東での紛争も何かの形で収縮するはずである。それが、世の中である。自分のエゴを外して、この世と交差する何かの動きに心を同期すれば、それらの道理が見えてくるのである。

 

 一年がたてば、365日経過したことになる。人の命とは、摩訶不思議なものである。統計的に、誰かが毎日死んでいる。病気でうんぬんすることもあれば、事故で命を落とす場合もあるし、この瞬間にも、大地震が発生し、命を落とす場合もあるし、路を歩いていて、上から、物品が落ちてきて、たまたま当たって、即死することもある。ほんとうに、朝、元気でいってきますといって、手をふって分かれても、夕べには、無言の帰宅ということもある。15歳の若さでなくなるひともいる。20歳、30歳、病気であれば、何かしらの因果関係があるので、それなりに、納得できるが、突破な事故や事件に関しては、どうすることもできない。

 

 神様がいたとしよう。神様は、人の未来も予測できる。この人が、いつどこでどういうふうに命を落とすかわかっているとしよう。その神様からみる人の年齢というのは、まちまちである。仮に、神様からみて、100歳で人は命を落とすということであり、そして、100歳をひとつの基準値だと仮定すれば、今、99歳の人がいれば、余命は1年ということになる。今10歳の人がいて、明日に、何かの事故に巻き込まれ、命を落とすことが分かったとしよう、そうなれば、その人は、限りなく100歳に近い年齢だということである。つまり、人の年齢というのは、あいまいでいい加減なものである。20歳の人でも、25歳でなくなれば、それまでである。5年の寿命しかないことになる。

 

 そう、人の年齢も確率的で、非常にあいまいである。生まれた時を基準に持っているから、そうなるのである。本来は、後、何年ぐらいはある程度、健康でいられるかということがその人の必要な実逆年齢なのである。それが確率分布になる。統計的な数字と同じになる。明日の天気予報と同じように、70歳まで生きられる可能性が、80%±10%というような数字になるはずである。もちろん、私には、死後の世界があるのかわからない。もちろん、個人的には、死後の世界があってくれたほうがいい。現世で添えられなかった人と、あの世で添えたいという心中事件もままにある。あの世で、幸せになってもらいたいと願うのは、人として当たり前である。

 

 人は確率的に生死の境をふらふらとして生きている。病気でなければ、その確率は低い、しかし、低いといえども、何かしらの事故や事件が待ち構えている。車を運転する人がいれば、中央分離帯をまたいで、飛び込んでくる車も確かにある。通り魔で、刺されて死亡した人がいる。そのとなりにいて、かすり傷も負っていない人もいる。車が突っ込んできても、1cmずれていたため、その人は生きて、逆にその1cmのために、隣の人が死亡した事例もある。飛行機事故でも、席がひとつずれていたために、助かった人がいることは、席ひとつずれていたために、死んだ人がいるのである。

 

 その確率的に生死の境をふらふらとして生きている感覚をつかむことは難しい。しかし、ある年齢まで、生きてくると、何故、自分が生き残って、他の人が死んでいくのか、そこに何かがあるような感覚を強く持つ。何かに生かされている感覚である。人の役目のひとつは生殖である。子供を自立させれば、その役目はおわる。そして、子供を成長させた後の役目とは、なんなのか、私が生きていることで、何かプラスになることがあれば、そのために、生かされているように感じる。そのプラスとは、一体、なんであるのか。世の中は確かに摩訶不思議である。自分がぽっくりといけば、自分にとってのこの世は終わるからである。だけど、この世は、自分だけのものではない。色んな人のこの世が、数十億分重なっていることになる。それらが、相互作用しあって、ひとつの人の世を形成している。それと自分のこの世がどう関っていくのか。だれでもが余命をもつ。その中で、なんとか、すこしでもいい方向になればと思っている。多くの人がそうおもっているのは、間違いはないことである。

 相撲を開催している側は、絶対に八百長といういかがわしい言葉を使わない。八百長ということが、何かいかがわしく感じるのは、そこに、昔ながらの半か丁かの賭け事が絡んでいるかのような印象を与えるからである。実際に、長屋で、太郎さんと次郎さんが、へぼ将棋をしながら、朝青龍と白鵬どちらが、勝つかい、ビール一本かけようじゃないか、俺は、白鵬だ、といって、かけ相撲をやったとしても、そこには違法性はない。日常茶飯事の範囲だからである。しかし、そこに、巨大なお金が動いたり、何かしらの組織が胴元になって、掛け相撲を仕切ったりしたら、これはご法度である。仮に、日本相撲協会と関係ないところで、興行されていたら、それは単に相撲という手段をとったまで、ということなる。賭け事が、良いか悪いかは別にして、そこに公平さがなければ、それは完全な違法となる。あきらかに、詐欺だからである。朝青龍と白鵬が、あらかじめ示し合わせて、俺が今回は勝つ、次は俺が負けると示し合わせていたら、それは、フェアーではない。もし、長屋の太郎さんがそのことを知っていて、次郎さんに、ビール一本かけようじゃないかといって、太郎さんが、朝青龍を選んだとしたら、それはれっきとした詐欺になる。違法性がでてくる。太郎さんは犯罪行為をしたことになるのである。もちろん、相撲を興行している相撲協会も、そのことを知って、観客からお金をとったら、それも詐欺にあたる。観客は、がちんこ勝負を期待しているし、そこに、確率の勝負の面白さを見に来ているからである。

 

 無気力相撲とは、まあ、このぐらいにしておこうかという、気合の抜けた相撲のことである。大関も横綱もスーパーマンではない。年がら年中、がちんこで、勝負するとは思わない。なぜなら、力士も体が資本だからである。体が壊れたら、力士を廃業しなければならないからである。世の中には100%などありえない。ずっと連勝、連勝で勝ち続けることなどできない。どこかで、負けるときがくる。相撲の力士で、番付が上な人は、それだけ勝率が高いのである。相撲社会も閉鎖社会である。どこかで、もちつもたれつという日本的な関係が出来ている。すべてが、がちんこで、それも個人のエゴとエゴのぶつかり合いであれば、力士も体が持たないはずである。たぶん、前もって、金銭授受の約束をして、故意に勝負をつけるようなことはないはずである。しかし、相手の立場を考えて、まあ、このぐらいにしてあげて、相手に花を持たせてあげようか、という相撲をとれば、相手も以心伝心で、その呼吸が分かるはずである。投げを打たせてあげるか、よりきらせてあげるような動きをするはずである。回りには、わからない。しかし、相撲をとっている力士にはそれが分かるはずである。だから、あとで、気を使っていただきました、といって、お礼をもっていくことは、ありえるはずである。持ちつ持たれつの関係である。

 

 故意に無気力相撲をとって、負けてやるから、金をよこせとは、言わないはずである。それをいったら、お終いだからである。そのことが外にもれたら、相撲の興行が成り立たないからである。負けていただけませんか、という何かのサインは出すかもしれない。しかし、だれだって、試合のときに、勝ちたいと思うのが当然であるが、そこに、負けてくれ、その代わりにお金を払うと、表立ってはいわないはずであるし、いえないはずである。もし、故意な無気力相撲をとったとしても、それが、それと分かるような相撲しかとれないような力士では、プロの力士としては話にならない。そう、だから、プロの力士が相撲取る世界では、表立って、これは八百長だと思えるような相撲はないのである。だから、八百長はないのである。しかし、人から分からない世界では、あうんの呼吸によって、力士間での信頼の関係により、自発的または、相互間の意思による星の貸し借り、勝負の貸し借りは存在するはずである。そこには、客観的な証拠はない。あるのは、間である。立会いでの呼吸の間と同じ気持ちの通い合いである。

 新聞やネット等の世論調査を見ていると、次の衆議院選挙では、民主党が自民党を制する可能性が強くなった。もはや、自民党内部は、江戸幕府崩壊の時期と重なるようである。ちょうど、NHK大河、篤姫が最後の大奥の院として、江戸無血開城にむけて、これから動くことになる。昨日のNHKでは、14代将軍家茂が死去し、来週には、孝明天皇が死去し、明治天皇(薩長)対15代将軍徳川慶喜(幕府)との対立が描かれるはずである。それが今の日本と重なるはずである。今、ぞくぞくと、官僚内部から、裏金問題や、年金等の不備が、露見しだした。もし、自民党政権が磐石であれば、内部の汚点やひずみなど、表にでることはなかった。すべては、闇に葬られていたはずである。たとえ、参議院が、民主に抑えられていても、自民党政治がある程度しっかりしていれば、民主党内部に楔をいれ、内部分裂や離党を促すことも可能であった。土井社会党が参議院選挙で勝ったときも、新進党で羽田政権をつくって、非自民党政府を作ったとしても、自民党は、手練手管と権謀術数とで、政界を自分の意のままに持っていったのである。そうではない今の情勢は、まったく、江戸幕府崩壊と類似するのである。

 

 明治維新は、ある意味、革命である。薩摩にしても、長州にしても、権力の実権を掌握したのは、藩の下級武士の集団である。最後は、長州が農民を軍隊に徴兵し幕府軍と戦ったのである。西郷隆盛にしても、大久保利通にしても、黒船が来航し鎖国が緩まなければ、一生下級武士として、薩摩の地で終わっていたはずである。それが、明治政府の大勲の地位まで上り詰められたのは、時代が変わり、体制が変革したからである。その変化の中で生きた人たちだからである。NHK大河の篤姫は、これから、佳境に入ってくる。新しい時代を築こうとする人たちと、古いものを守ろうとする人たちの戦いになってくる。公武合体から、倒幕へと、動いていく。

 

 後期医療制度、消えた年金、公務員の裏金、戦後の馴れ合い政治の弊害がでてきた。そして、アメリカ発のサブプライムローンから発した金融破壊、アメリカの市場経済主義の馬脚がはがれたのである。アメリカの市場経済がいいといって、その考えで推し進めたのが、前の小泉政権なのである。なんと、今の自民党の大多数は、それを支持した人たちで占められている集団である。その意向で、推し進める政策は、当然、アメリカの万能市場主義を支持するものであることは当然である。

 

 麻生太郎首相が、いくら、個人的なキャラを混ぜて、人気を盛り上げても、株価下落や景気悪化、お年寄りからの天引き、消えた年金、公務員の裏金等が次から次へと出てくれば、もはや、下支えさえも出来ない状態である。さりとて、選挙を先延ばししても、民主党は世論の後押しをもらって、参議院で、徹底的に戦うことになる。そして、2/3条項をつかって、法案を通せば、自民党はそのとき崩壊するはずである。そして、基本的に頭のいい官僚たちは、手のひらを返すように、勝ち馬に乗ろうとする。自民党の政治家を平気で裏切ることになる。官僚制度は、守りきることができないと感じれば、各個人の官僚は、個人の保身だけを考えることになる。どこからか、官僚の内部告発が多発するようになる。官僚制度は守りきれない。自分は、頭のいい官僚である。だから、俺だけ助かればそれでいい。なぜなら、官僚組織は必要だからである。下っ端が切られても、上層部の俺が切られわけがない。そういう感覚をキャリアは持つはずである。この現象は、江戸の幕末と同じことである。いくら、錦の御旗があったとしても、徳川慶喜が大政奉還などせず、一戦を覚悟して、薩長と戦う決意をすれば、大勢は徳川方にながれ、薩長は壊滅し、それを支持した帝も退位し、公武合体を支持する帝が位に就いたはずである。なぜなら、徳川と薩長の力はそのときでも8対2ぐらい、徳川の方が強かったからである。慶喜が戦うことを放棄したから、組織はがたがたと崩れたのである。真っ先に、政権を投げ出したのが、慶喜、そして幕閣のキャリアが、薩長へと流れたのである。

 

 自民党は、はやく総選挙をしたほうがいい。負けたとしても、そこそこで、とどめることが出来るからである。先延ばしをすると、徳川幕府と同じことになる。今の情勢を考えると、麻生太郎首相が何かをやっても、その結果がつながらない以上、焼け石水である。逆に、麻生太郎首相を温存していたほうが、自民党にとっては、よかったかもしれない。なぜなら、期待値があったからである。最後の麻生首相での実績やいい方向での変化がなければ、期待はずれとしてうごき、逆に民主党にその期待値がいくことになるからである。

 人の仕事を見ていると、その人の五年後の姿が見えてくる。なぜ、みえるのか、それは、五年後の未来を今時点で内包しているからである。本人には、見えないかもしれないが、長いこと、人生を歩んでくると、だんだんと、それが見えてくるものである。運命論ではないが、確かに、人は過去も未来も今時点では重なっているように思える。上に立つ人は、最終的には上に立つし、名を残す人は、最後には名を残すようになっているように感じる。そう、人生には、虚と実がある。別な言葉で言えば、仮想と現実がある。上に立つ人や名を残す人は、必ずその虚と実とが、一如に重なるものである。仮想の世界が現実になり、現実が仮想のようになるのである。つまり、自分が思い描いたものが、現実のものとなるのである。

 

 前にも書いたが、ありがとうという気持ちがあっても、それを言葉にのせて、ありがとうといわなければ、ありがとうは存在しないのと同じである。ありがとうという気持ちがなくても、ありがとうといえば、それなりに存在するものである。もちろん、ありがとうという気持ちをもって、ありがとうといえば、真のありがとうになる。心の中の真実が、つまり虚が真であっても、現実の場で、つまり実の場で、言わなければ、偽になってしまうのである。

 

 真が1であり、偽が0であれば、虚も1、実も1でなければ、虚実の積は1にはならないのと同じなのである。巧言令色、仁すくなし、の諺のように、言葉巧みに生きても、結果が残らなければ、つまり現実の場で、結果がでなければ、それも偽になるのである。

 

 仮想の世界で生きる若者がいる。最近の頭のいい若者の傾向でもある。仮想の中で自分を守ろうとする。現実の場では、人との摩擦がある。逆に、頭がいいから、その虚の世界で生きれるのである。しかし、上に立つとは、現実の場での摩擦を耐える心をもち、現実の困難の壁を乗り越える力を養うことでもある。仮想の世界で、PCや携帯を縦横無尽に使えば、色々な特権を検索できる。株取引や電子マネー等でも、利ざやは稼げる。しかし、それまでである。現実の進歩はない。逆に、年齢がいき、現実との乖離がつよくなるため、余計、厳しくなる。そう、現実から逃避して、いつも、仲良しクラブ的に生きれるほど、現実は甘くはない。自分とは、異質な人、自分を評価しない人、自尊心がつよい人と席を同じくするのが、あたりまえである。それが現実である。上司が、そんな人なら最悪である。しかし、人生は、時としてそういう最悪な場を与えるものである。逆に、インテリほど、現実的な人との衝突に対して弱いのである。打たれ強くはないのである。幼稚園や小学生低学年は、仲良しクラブ的である。しかし、中学、高校等になれば、我の強い人たちとの衝突が起きてくる。仲良しクラブ的には、生きていけないのである。

 

 そう、人をみていると、5年後の姿が見えてくる。課長であっても、部長や取締役や社長的な行動している人もいる。考え方が違うのである。感(かん)とロジックを両方兼ね備えているのである。感とは、虚の世界でもある。ロジックとは、現実の場での人間世界でのロジックでもある。それが、一如的に生きている人は、5年後、必ず上にいる。たぶん、その人は相当上に行くであろう。逆な人もいる。いくら、仮想の中で生きて、あたまがよくても、現実の場で、自分のありかをさらせなければ、進歩はありえない。ありがとうという気持ちがあって、ありがとうといえなければ、5年後の未来は、必ず落ちている。残念ながら、虚と実の積が1以外は、つまり、0であれば、同じなのである。不服かも、しれないが、感謝の気持ちがない人で、感謝の気持ちを表現しない人、つまり、0X0=0と感謝の気持ちをもっていても、感謝の気持ちを表現しない人、つまり、1X0=0、と感謝の気持ちがない人で、感謝の言葉をいうひと、0X1=0、いずれも、5年後の未来は、進歩がないか、悪くなっているはずである。

 

 自分の人生を振り返って欲しい、5年前と今がどうか、そして、10年前を見て欲しい。着実に進歩しているのなら、その方向性が正しい。何か不服があったり、面白くないことがあれば、どこかで、間違っている。過去はどうでもいい。次の5年後、どうなっているか、もしかしたら、何かの事故や事件に巻き込まれて、いなくなっているかもしれない。そうでないなら、どうなっているか、予測してほしい。その予測がいいように感じられるなら、たぶん、そのようになっているだろう。

 こうなるのは分かっている。もともと、株取引には実態がない。実態がないものをあるかのように錯覚して、取引している。それが経済活動である。ある面、日本人が好きな般若心経の色即是空の世界である。そして、その錯覚を錯覚として楽しむのが、空即是色の心境でもある。今は、乱れの状態である。自然界も、人間が仮想で作り上げた金融取引の場も、原理原則は同じである。エネルギー保存則は適応されるし、エントロピーの法則も適応されるはずである。なぜなら、金融の経済モデルも、人間の頭が数理的に導き出した世界だからである。つまり、その法則は、物理の法則、数理の法則に従うことでもある。

 

 人は、洗脳される。実態のないものをあるかのように錯覚させられる。群集心理でもある。今でも覚えているのは、トイレットペイパー騒動である。石油危機のとき、だれかが、トイレットペイパーがなくなるという風評をながした。実際は、需要と供給とが、あっていたわけであるから、あわてなければ、どうなることでもなかった。しかし、不安心理である。一週間に一人一バックで十分だったのが、なくなるという不安から、3?4パック買いあさったのである。それで、どうなるか、需要が4倍増えた。供給がたりなくなる。たしかに、トイレットペイバーはなくなった。余計拍車が掛かる。3?4パックではたりない。10パックあるなら、10パック、全部買いあされという心理が働いた。それで、日本の小売りからトイレットパイパーはなくなった。どこへいったか、各家庭の戸棚の中に多量に詰まれたのである。

 

 だれもが、右肩上がりを期待する。経済活動は、半永久的に続くものだ。しかし、それは半分は嘘である。半分は正しい。地球は孤立系であり、そこが飽和すれば、どうすることもできないからである。今までの破壊と創造のプラスの経済活動であれば、半永久的には続かない。戦争の縛りにより、町や作ったものを破壊することが出来なくなったからである。本格的な戦争をすれば、核戦争となり、世界が終わるからである。そして、石油の燃料も限界があり、これ以上、エネルギーの放出を増やせば、地球温暖化で世界はやはり終わるからである。

 

 だから、世界の多くの人が、このままの状態ではありえないと感じたのである。だから、サブプライムローンの矛盾が露呈し、バブルがはじけたのである。返せない人にお金を貸したのである。返せる論理は、たったひとつしかない、買ったときよりも、いつも、その価値があがること、つまり右肩上がりが前提なのである。借り手には、返す能力はない、しかし、貸した側には、それは債権として残っている。その債権を色々な手法にわけて、金融派生商品に分割し分散し、全世界にウイルスのように撒き散らしたのである。アメリカの経済が右肩あがりで、どんどん、エネルギーを放出し、繁栄を続けていられる状態ならいい、しかし、地球温暖化や汎アメリカ主義の弊害で、ブレーキが掛ってきた。だから、だんだんと、仮想から現実へと醒めていったのである。そうなれば、銀行の預金引き出し騒動と同じである。ある意味、トイレットペイパー騒動と同じである。疑心暗鬼になって、パニックになり、だれもが、ばばを取りたくないと思ったのである。自分がもっている債権が、裏書、裏書と回し手形のような形であれば、最終的に、その内のいくつかは、サブプライムローンの一部であり、債権と思っていたものが、実は不良債権だと考えれば、取り付け騒ぎが起こるのは当然である。

 

 私は、国家のため、人の命を犠牲にしてもいいとは思わない。どんな大義名分があろうとも、平和で問題のない他国を侵略するために、人殺しを奨励するようないかなる政策も支持はしない。それを表立って、賛同しない人は、世の中にはいない。世間で言われているテロリストも、決して自分たちをテロリストだと思っていない。長い長い民族間の紛争の末、相手方を邪とし、自分たちを正とする習慣が知らず知らず付いてしまったのである。我々は、アメリカの船と戦後一緒に乗っかってきた。呉越同舟であれば、アメリカの敵は日本の敵でもある。アメリカの市場主義で、西洋文化を推し進めれば、それをよしとしない人たちとの摩擦が生じる。保守的な人は、海の向こうからやってくるものを受け入れたくはない。特に、宗教での戒律の押し付けは、相当の抵抗になるだろう。目には目という論理が、キリスト教でもイスラム教でも存在する。やられたら、やり返せ、奪われたものは奪い返せである。だから、アメリカとイスラム原理主義者たちの戦いは、相当に根っこが深いはずであるし、イスラムの地で、実際、どんなことが起きているのかも分からない。ただ、いえるのは、平和に楽しく生きている他国の人たちの命を脅かすような行為は、許したらいけないということである。だから、紛争地域で、NPOとして、その地域の人のために、一生懸命働いている人を、殺害するような行為は、絶対に許してはいけないことである。

 

 だれにでも、平等に時間は過ぎ去る。生まれて、20年すぎれば、二十歳であり、40年過ぎれば、四十歳であり、60年過ぎれば、六十歳になる。そうして、あの世へと向かう。ある程度生きていると、人の生き死には、はかないものだと感じる。自分の生きれる時間(余命)が、当たり前だが、毎年毎年短くなる。そうすると、だんだんと、生死感がぼやけてくる。生きているのと、死んでいるのと、どんな差があるのかと感じ出す。記憶が薄れてくる。そうして、生きている記憶と失われていく記憶の比率が変わってくる。失われていく記憶が多くなり、いずれ、自分がだれであるのか分からなくなり、そうして、自我が消えてしまう。それが、人の記憶と命の風化現象である。

 

 小泉元首相により、閉ざされていた北朝鮮の扉が少し開いた。拉致されていた5人がかえされた。日本人は、これで、拉致問題が解決すると感じた。残念ながら、北朝鮮の扉は再度固く閉ざされてしまった。横田めぐみさんは、生きているのか死んでいるのかわからない。すくなくとも、横田めぐみさんの子供さんであろうと思われる人の映像は、北朝鮮のメデアを通して、我々に届いた。直ぐ近くの国に、日本から拉致された人がたくさんいる。これは、犯罪なのである。もちろん、日本も戦前にはひどいことをしている。しかし、間違いは間違いとして、戦後日本は謝罪し、平和への路を歩んできたのである。

 

 アメリカは、アメリカの論理でうごく。アメリカの北朝鮮へのテロ支援国家解除は、アメリカの自由であり、それをとやかく出来る立場ではない。

 

 先週末、テレビで、サイパンからロスへ移送される三浦和義氏の映像を見た。飛行機の最後の座席に座り、窓から誰かに手を振っている様子が映し出されていた。そして、あの奇妙な黒の帽子が印象的だった。何かの文字が書かれていた。報道でしったが、そこには、「PEACE POT MICRO DOT」と書かれていたそうだ。スラングで、幸せに、バイバイという意味だそうである。最初から自殺する予定でいたのか、それとも単なる偶然なんかわからない。しかし、その映像を見たとき、なにか、訳のわからない違和感を感じたのは事実だった。そして、この連休に、三浦和義氏、拘置所で、自殺との報道が流れた。とくに、驚きはなかった。率直に感じたのは、やっぱしという印象だった。

 

 日本人としては、死者に鞭打つことはできない。一様に報道も、その事実を伝え、真相を究明してほしいというコメントを残している。日本では、ロス事件は、結審している。一事不再理が働くから、刑事罰は問えない。真実はどうかはわからない、しかし、日本の法制度では、裁判であきらかにされたものが、真実として扱われる。仮に、やったとしても、やらなかったとしても、最終的に最高裁判所で、認定された事実が、社会的な事実として取り上げられる。そう、裁判制度とは、ある意味、恐ろしいものである。真実は藪の中、自分ではやってないと主張しても、最終的に、社会がそう認めれば、それが事実になる。だから、冤罪は、本当に恐ろしいものなのである。

 

 記憶のないところで、人を殺した。まったく覚えていない。だから、自分はやっていないと主張する。記憶にないのだから、どうどうと、言える。人を殺した実感が存在しないのだから、やっていないといえる。しかし、記憶がなくても、その人がある人を殺した事実は存在する。そこに恐ろしさがある。ある人を殺した事実がある。だから、殺人罪としては適応される。難しい言葉で言えば、殺人罪の構成要件を満たすという表現になる。しかし、記憶にないとなれば、心神喪失である。つまり、責任がないということで、罪には問えないことになる。しかし、それを客観的に証明することは不可能である。人を殺すとき、記憶がないということは、ありえないと感じるからである。でも、それは分からない。本当に、なかったかもしれない。検察は、それは、責任を回避するための、口実だ、それは嘘だというだろうし、弁護側は、記憶がないのは、事実である、冤罪を作るきかと、争うだろう。この場合の争点は、記憶があるかないかという一点に掛る。無罪か死刑または無期懲役の選択肢になる。

 

 アメリカでは、共謀罪がある。日本にはない。日本では、実行者と共謀したら、共同正犯として同じように罰することになる。実行者が特定されない以上、日本では、罪には問いにくい。しかし、アメリカは、実行者が特定されなくても、そこに、何かしらの共謀が認められ、そして、殺人が行われれば、罪に問えることとなる。もちろん、その共謀があったかなかったかが、裁判の争点となる。

 

 なぜ、三浦和義氏は、アメリカ自治領のサイパンにいったのだろうか、つい、うっかりとしたのだろうか、日本にいれば、捕まることはない。人権も保障されるし、そこそこの生活もお迎えがくるまでは、出来たはずである。34歳から、三浦和義氏の人生は変わってしまった。ある意味、この人の一生は、2003年の最高裁での無罪確定で終わっていたのかもしれない。それから、5年で、人生を終えている。今の61歳であれば、まだ若い。これからであったろう。しかし、アメリカと日本は違う。裁判が始まれば、日本での裁判記録等が、事実として取り上げられるだろう。ほぼ、間違いなく、共謀罪が成立した可能性が高い。そうなれば、アメリカでの長い収監生活が待っている。

 

 人の一生はどうなるか、分からないものである。三浦和義氏は、七ヶ月前に、自宅を出た。そのときは、何気なく出て行ったはずである。4日5日後にはもどってくると思っていた。しかし、交通事故でも何かの事件や事故に巻き込まれたのでもない。これは、自殺なのである。三浦和義氏は、七ヶ月前に自宅をでて、鍵を閉めたとき、再び、この扉の内側にかえることはないとほんの瞬間でも予知できたであろうか。

 

 あれほど、連日、ガソリンの高騰がニュースを賑わかせていたのが、嘘のようである。原油価格が大幅に下落し、さらに、円高になったため、ガソリン価格は、大幅に下がる。しかし、利ざやを稼ぎたいために、値下げ率の下限値で調整することであろう。ガソリン価格のバブルは一端、終わった。はじけたバブルで、誰かが大幅な利益を失う。おなか一杯に、詰め込んだ、実態のない空気は、はじけたのである。そうなれば、需要と供給との関係の上に、大多数の人が考える適正な価格が乗ることになる。実態に即したものとなる。

 

 株安になるのは、現金がほしいからである。本物のダイヤモンドならいいのだが、仮想の上にダイヤモンドを作り上げた。人はそれを本物のダイヤモンドと同じ価値を持つものだと勝手に信じたのである。ほとんど価値がないものを、価値あるものとして、取引したのである。バブルである。日本が経験したバブルは、まだ土地という実態があったのである。不動産取引がメインであった。それは、0にはならない。需要と供給の上にたった、ある適切な取引金額に、いつでも収縮するからである。アメリカのサブプライムローンから発したバブル崩壊は、仮想世界の取引の中まで、突っ込んできた。仮想の洗脳が、消えかけたのである。すべてが疑心暗鬼になる。今までのトレンドや変動率等が、こっぱみじんと砕けたからである。仮想世界で生きてきた人の首は絞まっている。欧米で巨額の収入を得た人の財産は、雲散霧消し、路頭に迷う人が出る可能性がある。自殺する人もでてくるだろう。彼らが信じたものが、一気に崩壊するからである。

 

 日本の株安もどこかで、止まる。そして、反転する。なぜなら、今は、高値で信用取引したものの決算をしなければならないからである。現金が必要だからである。株を売るのは、最後の手段だからである。そうして、どこか、需要と供給にみあったバランスのところで世界経済は落ち着く。そうなれば、今度は、人間の心理として、安全なところに、確実なところに向かう。日本の市場に向かうからである。なぜなら、円が強くなっているのは、それを示唆しているからである。しばらくすると、日本の株式市場は、乱高下しだす。売りと買いが動くからである。資金が苦しいところはうり、資金が強いところはそれを買う。

 

 マスコミや世界のエコノミストは、行き過ぎた自由放任の市場原理主義が、今回のリセッションの原因と分析するはずである。それに踊らされて、財産を失った人は、しばらくは、投機を見送るはずである。やはり、おじいちゃんやおばあちゃんが、言っていた様に、楽して儲かることなど世の中にはないということを実感するはずである。堅実に物を作って売って、それなりの幸せをもつのが一番いいことに、世界の人々が気づくはずである。

 

 普通の人が、世界をぐるりと見渡せば、どうしても、そこに食料危機と地球温暖化の危機が見えてくるはずである。地域紛争や民族紛争は、基本的に宗教が絡んでいる。2000年や3000年の昔から同じことが繰り返されている。普通に考えれば、バイオ技術とエコロジーの技術の需要が見込まれる。太陽光発電、温度差での発電、エネルギーの効率化がどうしても必要になってくる。経済は、需要と供給である。需要があれば、そこに供給できるところの価値があがるのは当然である。冷静に考えれば、日本に資金が流れるのは、当たり前である。もし、そうならないのであれば、今度は、そうならない原因をつくる日本の内的な要因があることになる。それが日本の固有のシステムなら、それは改めないと、日本は再度日が昇るチャンスを自ら逸することになる。

 アメリカ発の金融危機は、怒涛のように、世界の株式金融市場を乱した。世界のコンピューターがネットでつながれているため、ひとつ、大きな予想外の動きをすれば、それが、無秩序な乱れとなって、世界のマーケットを襲うことになる。不安定な原子核に中性子をぶち込めば、核分裂の連鎖反応が続くのと同じことである。もし、ある程度の秩序と制御が働けば、巨大な爆発は起きない。それが原子力発電である。その秩序と制御をなくし、あるがままの連鎖反応を容認すれば、一気に爆発は短時間に加速する。原子爆弾である。原子爆弾も原子力発電も、基本は同じである。それをどういうふうに制御するか、という問題である。

  

 ダムに水が一杯たまっている状態としよう。水は高いところから低いところに流れる。大きなエネルギーである。水力発電は、その水の力で、発電のタービンを回して、電気を作る。ゆっくりと秩序をもって、制御しているため、安全な電気となる。もし、それを一気に落としたら、つまり、ダムが決壊したら、どうなるかである。ダムの下流の町は土石流で飲み込まれてしまう。

 

 ホースの中に、水を流そう、ゆっくりと流せば、水は綺麗にながれる。流れているのか流れていないのか分からない。出口をみて、水が出ているから、分かるのである。いわゆる層流というものである。激しくめちゃくちゃに流してみたら、白い気泡がめちゃくちゃに発生しているのがわかる。それが乱流と呼ばれている姿である。気泡が発生するのは、乱れた状態つまりエネルギーが高い状態で不安定状態だからである。ウランの原子核と同じように不安定な状態なのである。水流体の場合は気泡を発生させることで、自らのエネルギーを下げようとしているのである。浪が岩場にぶつかって、白い浪しぶきをあげるのもおなじ。ホースの先端を絞って、ジェット流をつくり、それを壁にぶつけると、白い飛沫が飛び散るのも同じことである。流体の場合には、レイノルズ数という、乱れの指標が存在する。だからある程度の秩序を作り出すことはできる。気体の場合は、目に見えない。だから、恐ろしい、激しい乱れは、乱気流と呼ばれる。その中に突入すれば、どうなるか、最悪、ハイテク機でも墜落する。

 

 物理も経済も基本的に同じである。市場を参加者の自由意思に委ねれば最善の結果が得られるとは限らないのである。参加者が多くなれば、その自由意志は、めちゃくちゃに動く。エネルギーが高い状態になるのである。氷がとけ、水になり、さらに水蒸気になろうとしているのである。それが、個人の自由意志の放任ということである。しかし、アメリカ型の自由の本質は、必ずしもそこにはない。アメリカの自由には、キリスト教的な倫理感が必ずペアーになっている。市場を参加者の自由意思に委ねれば最善の結果が得られるためには、その自由意志を持った人には、必ずプロテスタント的な倫理感があることが前提となる。アメリカはつねに、汎アメリカである。しかし、だれもが、プロテスタント的な倫理感など、もっていない。それを別な言葉で表せば、愛と正義なのである。哀しいまでの愛と正義感があるのである。しかし、ほとんどの人はそれを理解しない。当たり前である。なぜなら、民族が違い、歴史が違うからである。もともと、物事を測る尺度がちがうから、話が合うわけがない。

 

 南部陽一郎博士の名前は、量子力学(クオーク)の本に出てこなかったことはなかった。それほど、有名な人である。故湯川秀樹博士や故朝永振一郎博士の次に必ず紹介される人だった。南部陽一郎博士の業績がなければ、今日、言われている素粒子(クオーク)の性質を十分に説明することができなかったはずである。知っている人は知っているが、知らない人はまったく知らない。アメリカで活躍した数少ない日本人の物理理論家の一人である。87歳の年齢になってしまった。ノーベル物理学賞を授けるのなら、もっと早く授けるべき人であった。それだけの業績を残した人である。これで、南部陽一郎博士の名前と業績は、ノーベル物理学賞受賞者として、日本人の記憶の中に残ることである。これで、一気に南部陽一郎博士の知名度が上がる。たぶん、ネット上では、南部陽一郎博士と同時に受賞された小林名誉教授、益川名誉教授の名前が、ヒットしているはずである。その人はだれなのだ、一体、三人の業績とは、一体何なんなのか、クオークとは、なんなのか、検索ソフトでは、ぐるぐると、ノーベル物理学賞を受賞した3人に関連するキーワードを多くの人が検索しているはずである。ある意味、非常に嬉しいことである。

 

 たぶん、小林―益川理論等、読んでも分からない。私も良く分からない。当たり前である。相当な基礎知識がなければ、わからないからである。その世界にいて相当傾倒した人でないと、分からないはずである。量子力学の素粒子の理論、さらに、それぞれのクオーク(素粒子)を構成する最小単位、それがひも(ストリングス)みたいなものであることまで、南部陽一郎博士は、考えられている。それが今の超ひも理論の考えである。実証できるものではないが、そう考えると、色々とつじつまがあうのである。この分野の考えは、非常に、壮大である。物質の成り立ち、宇宙の成り立ち、最終的には、人間とは、命とは、心とは、自分とは、死とは、それらの命題を揺り動かすほどのテーマにもなる。

 

 3人へのノーベル物理学賞の受賞理由は、「小林―益川理論」と「対称性の自発的な破れ」が素粒子物理への貢献に寄与したことが、評価されたのである。今後、「対称性の自発的な破れ」とは、一体、どういうことなのか、そもそも、その対称性とは、その破れとは、そして、自発的な破れとは、いったい何を意味するのか、それが、どのように、重要なことなのか、テレビや新聞等で、解説されることだと思う。

 

 この世は、何か分からないが、ビッグバーンというものが起きて、宇宙が生じた。我々の意識は、それを風船のバルーンのように、外部からそれを眺めようとする。しかし、実際に我々は、そのバルーンの内側にいることになる。そのバルーンの外側になにがあるのか、そのバルーンによって、分離される境界があるのか、それも分からない。そう、我々がいるこの世の事象を吟味すると、どうしても、時間という概念が生まれ、エネルギーという考え方が我々にうまれる。それをさかのぼっていくと、ビックバーンという現象を想定しなければ、おかしなものになると気づく。それがなければ、つじつまが合わなくなる。そして、それを基点として、何故、質量が生まれたのか、何故4つの力が分離したのか、そういうものが、人間の頭の中に、疑念として生じてくる。それを追求していったのが、物理学である。