母親が幼児を殺す時代になった。秩序崩壊
どんな事件にも、どこかで、納得できる点があった。納得できない事件もないではなかったが、めったになかった。最近、納得できない事件が増えている。自分中心に考える癖が付きすぎているように感じる。時間の流れがそういう方向にいくのであれば、人間の社会や個人のつながりは、ばらばらに、なっていくように感じる。世の中の技術は、微粒子化の方向へと流れている。大きいものを粉砕し、細かくすること、もともと小さいものだが、製造過程において凝集したものを、解砕し、分散させること、油の粒子を細かくして、それが再凝集しないように、微粒子のまま、溶かしこむこと、それらがメインになっている。しかし、その過程のなかでも、乱れという場を抑圧し、それなりの秩序をもって、微粒子化しなければ、製品化など出来ない。
家庭も会社も地域も一人一人の集合体である。それぞれに、自己中心的な自分が存在する。それが、相対的な関係で結ばれている。いままでは、それが、ある程度、強い絆で結ばれていた。絆を、信じるから、家庭も会社も地域も存続できるのである。その絆を支えているのは、人間への愛(利他の精神)であるはずである。そして、その愛の根幹にあるのは、自分もその愛(利他の精神)によって、助けられた経験や思いが心の中に横たわるからである。それが、なければ、常に自己中心的になってしまうはずである。自分の中に、つらい経験があるから、その絆を大切にしようとするのである。その経験は、どこで、得られるか。それは現実の集団の中でしか得られないのである。対人関係の軋轢の中で、傷つき、もがき、人は大きくなっていくのである。それから、逃げたら、他人の心の痛みを、仮想の中では分かるが、現実の場では理解することなどできないようになる。
わが子が、何かしらの重い障害をわずらってしまった。非常につらい現実である。そして、そのわが子の将来を悲観して、わが子を殺し、自らも命をたつという事件は過去には多々あった。親子心中であり、母親が助かった事例もある。そのとき、非難はするが、その母親の苦難を想像すれば、事件そのものには、納得できる点があった。裁判長は、必ず、どこかで、暖かい言葉をかけ、情状酌量をする。それが、絆である。しかし、どこからか、社会はおかしくなった。できるだけ、他人との関りをさけ、仲良しクラブだけで、事をすまそうとする。仮想の中で処理をし、現実の対人関係の軋轢に身をおくことを避ける。そこにあるのは、常に自己中心的な自分がいるだけである。だから、仮想で身につけた仮面を突き通す強い現実的な事例が起これば、おどおどと、慌てふためくだけである。ある意味、頭のいい技術者や芸術家気質の人の弱点でもある。
母親がわが子を殺し、不審者が子供を殺戮し、訳の分からない人が、短絡的に通り魔殺人を行う時代になった。あきらかに、秩序が崩壊している。あまりに強い自由というエネルギーによって、家庭や会社や地域の中にあった絆という力を切断してしまった。そうして、ばらばらになった個人は、仮想の世界にはしり、自己中心的に自己防御するようになった。だから、見てみぬふりをする。人の恩を忘れ、己の利益で行動する。時代は、かならず、揺り返す現象をもつ。戦争で押し付けられたものが、戦後、反動で大きくなっただけである。それが、再びもどってくる。
人もまた、慣性をもつ。人の過去は消せない。過去の行状は、どこかで残るものである。策士、策におぼれるという諺が生きているのは、時代が変われば、策を弄して、地位を得たものは、その策でまた自分も倒されるということである。利を求めて、策を弄せば、結局、信用を失い、利を失うことになる。どこかで、秩序は回復されるはずである。もし、このままの状態がすすめば、間違いなく、人類は滅亡する。
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