運命論と人の一生を考える。
嘘を100回言い切れば、誠になるとよく言われる。やはり、嘘は嘘であり、どこかにほころびが出てくる。やっているのに、やっていないといい続けることは難しい。やっていないのに、やっているといわれたら、腹が立つ。だから、冤罪は非常に怖い。もちろん、逆のケースもある。やっているのに、やっていないといい続け、そのうち、それほど、いい続けているのなら、そうなのかな、と思うこともある。なぜ、そう思うかは、やっているのに、やっているといい続けるには、それなりに大変だからである。あるいみ、苦痛でもある。それをずっといい続けているのであるから、そろそろいいかなと思うのである。やった結果とその後の苦痛の代償がつりあってきたから、まあ、いいかなと感じるだけである。
人生は、一度きりしかない。若いときは、大きな可能性がある。なんでもできる。確かに、総理大臣でもノーベル賞受賞者も作家も歌手も経営者も、それ以外の人との差は、小学校時代にはない。それぞれの差は混沌として差別化されていない。まさしく、宇宙の創世と同じである。卵の中の生物の孵化と同じである。赤ちゃんがお母さんのおなかの中で大きくなるのと同じでもある。しかし、どこからか、小学校時代に、仲良くいっしょに遊んでいた人が、外的なものか、内的なものか分からないが、差別化されるようになる。結果から見れば、総理大臣になった人がいれば、そうなる要素がそこにあったというしか方法がない。作家も歌手もまた同じである。どうも、そうなる気質やそうなる何かが組み込まれていたと結果からみれば、そう思わざるをえない。その考え方が、運命論なのである。
しかし、運命論は、あくまで、結果からみた原因をみている。結果がひとつに集約され、今がそういう状態であることがわかる。死んだ人は生き返らないし、タクシードライバーは総理大臣でないことが分かる。ひとつだから、それが結果なのである。だから、現在から過去を見ているに過ぎない。結果がわかっているのであるから、誰でもいえる。種明かしされた手品と同じだからである。そう、なぜか分からないが、人は、時間が経過して、細分化されていく、その過程は正しい。まちがっても、時間が逆流して、老人があかちゃんになることはない。エネルギーからみれば、親からエネルギーをもらい、生まれ、孵化され、エネルギーを獲得して、成人となる。それから、飛行機の着陸のように、人生の終末へとランデングする。その過程は、地球の一生も同じであり、宇宙もまた同じである。人の一生は、はじめがあり終わりがある。親から子供へと命は受け継がれる。たぶん、この世の仕組みもそういうふうに成り立っているのだろうと、想像できる。あらかじめ決められているのか、それを我々は知らないだけなのだろうか、どうも、全体の可変できる範囲は、決められていて、その範囲の中を確率的に動いているようである。
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