人の幸運と不運を分けるものとは
航空機事故でも列車事故でも交通事故でも、全員死亡もあるが、助かる人が出てくる場合もある。生きる人と死んでいく人の差とは、いったいなんなのだろうか。マクロの世界では、結果があれば、必ず原因がある。そこに何かしらの道筋があれば、因果律があるという。難しいことをいうが、もっともっと小さな世界では、不確定性原理というものがあって、原因がこうだから、結果はこうなると必ずしも言い切れない世界があるのである。世の中には裏と表があるのであれば、表は我々が見えている世界で、こうだからこうだね、という世界なのである。裏は、すべてが、いわば、そうなる場合もあるし、そうならない場合もあるね、ただ、そうなる場合の方がつよいかな、常に、確率の世界でしか表現できない世界である。明日、雨は60%の確率で降りますといったら、傘をもっていくか持っていかないかは本人の自由である。明日は、60%の確率で雨がふるといっているだけで、降らなければ、そう、降らなかっただけね、で終わりなのである。降らなければ、たまたま、その降らない40%の確率がきただけである。結果に対して責任が追えない世界なのである。
そう、確率だとすれば、誰にも分からないということである。生かされるものと生かされないものとが出てくる。人生でもうまくいく人とうまくいかない人がいる。それが、まったくの確率の世界かというと、ある程度、長く人生をやって、回りをみていると、必ずしも、そうではないように思えるのである。もちろん、若いときは、すべてが確率の問題であり、神様はサイコロ賭博がすきなだけだ、と思っていた。たしかに、生きるも死ぬも、うまくいくのもうまくいかないのも、ある意味、時の運かもしれない。自分にできるのは、その確率を高めるように努力することだと思ってきた。たしかに、それは正しいことであり、それしかないように感じられる。
しかし、どうも、それだけではないように思える。不義を働いてうまくいったためしがない。一時、うまくいったように思えても、長続きはしない。科学では証明できないが、何か、別な力がどうも作用しているように思えてならない。そういう感覚が人間にはあるのだろう、その感覚があるために、神様や仏様という人を超越したものが心に現れてくるのかもしれない。それが想像できるために、多くの人は、神仏を崇高するのだと思う。
たしかに、同じ状態にいても、何故太郎君は助かり、花子さんは死んだのだろうかという問題にぶつかる。結果がそうだから、そうだ、人には分からないが、花子さんが死んだのであれば、その結果に対する原因が花子さんにはあった、死への因果律があったというしかないのである。では、その因果律を決めたのはだれか、それは分からない。それは、花子さん自信か、賭博の好きな神様しかないのである。つまり、人間にはわからない何かがあり、それによって、我々の生死や幸運や不運は左右されているということである。それが神様ならそれは神様である。そして、それは、見えないけど、人の後ろにいつもいるように感じる。
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