人生の末期を汚すこと

 失って、そのありがたさが本当にわかるのは、健康と親のありがたさと信頼である。何気ないものである。しかし、本来それがそこにあることが、わからないのが、人間である。歩けること、走れること、何気ないことである。しかし、その歩けること、走れることが、どれだけ嬉しいことかが、失わないと分からないのである。何かのきっかけで、歩けなくなる人がいた。記憶の中では、歩いたこと、走ったことが、蘇る。桜吹雪の中を走ったこと、入道雲わく田舎のあぜ道を走ったこと、もみじ散る古都の寺院を自分の足で散策したこと、雪積もる道を長靴であるいたこと、そして、月明かりの雪道にのこる自分の足跡が記憶に蘇る。きっと、自分の足をつかって動いた事柄を思い描くはずである。そして、何かのきっかけで、何十年ぶりに再度歩けるようになった。リハビリを続ける。昔のように歩けるようになった。走れるようになった。そして、昔の記憶どおりの情景をかみ締めるように再現したのである。そんな人がいた。

 

 親のありがたみ、妻のありがたみも同じである。毎日の変化など、分からない。しかし、一日一日、人間は変化している。そして、5年、10年。15年、20年と歳月が降り積もっていくように過ぎていく。若い人も、中年に、そして、おじいちゃんや、おばあちゃんに、なるのである。その一日一日のありがたみも過ぎていく過程では分からない。しかし、それが積み重なれば、大きなありがたみとなるのである。

 

 人間にとって、社会にとって、何が大切か、それは信頼なのである。ひとり、ひとり、エゴがある。他人の心など分からない。だから、信頼するのである。信頼するしか方法がないのである。そして、人が一番やってはいけないのは、信頼を壊すことである。裏切ることである。信頼を解消したいのなら、相手にそのことを説明し、分かってもらって、解消するしかない。それが、別れとなる。出会えば、どこかで、別れがある。美しい別れでありたいものである。

 

 長いこと生きてくると、いろんなことを経験する。一番、哀しいことは、信頼しているひとから、裏切られることだろう。そして、信頼している人と別れることだろう。長いこと連れ添った妻を失えば、生きる気力がなくなる。そして、人としてこの社会で一番してはいけないのは、やはり不義なのである。義理があり、恩を受けた人を裏切ることである。もし、それをすれば、必ず、自分に帰ってくる。自分で自分の人生の末期を汚すことは、やるべきではない。ひとは、誰でもが、いつか人生の末期を迎える。そのとき、笑って迎えられるようでいたい。この世で生きれてよかったと、思って静かに天空に帰りたいものである。

 

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このページは、中野満が2008年9月 8日 12:58に書いたブログ記事です。

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