人を信じることと人を疑うこと。打算でついていけば、いつかは切られる。
人は一人では生きていけない。特に、この社会情勢では、グループを組まなければ何もできない。会社でも、組織でも、仲間を組んで生きることになる。おサルさんでも、グループを組んでいる。学生でも、仲良しクラブが存続する。どんなものでも、何かしらの集団が形成される。国会議員の集団といえば、政党である。集団であれば、そのときのリーダーや代表の考えが中心になる。大政党であれば、派閥がある。派閥があれば、昔は集金能力がある人が派閥の長になれた。そして、自民党であれば、その派閥の長が時の勢力状態に応じて、総裁になり、総理大臣になった。田中派、田中角栄、福田派、福田赳夫、大平派、大平正芳、中曽根派、中曽根康弘。いずれも、総理総裁になっている。唯一、自民党総裁で総理大臣になれなかったのが、今の衆議院議長の河野洋平氏だけである。
会社であれば、トップは、社長である。基本的に、どの集団でも、ある意味、宗教法人と一緒である。政党であれば、その親分を信じられなければ、終わりである。郵政民営化反対で出て行った国会議員は、時のトップ、小泉純一郎元総理を信じられなかったからである。あのとき、小泉純一郎総理は、ある意味、神に近かった。だから、ほとんどの人が、小泉純一郎氏を盲信したのである。その結果が、今の衆議院での自民党の議席数である。そして、小泉純一郎氏が総理から去れば、ぞろぞろと打算的にある人達は自民党に帰ったのである。オーナー会社であれば、その社長がすべてとなる。その社長を信じることができなければ、その社員は必ず去る。人の一生にとって、配偶者と働く場所(勤務先)は、一番長く付き合う人と場所である。信じられなければ、寄り添うことができない。妻を信じられなければ、離婚し、勤め先のトップ、大企業であれば、所轄部長、中小零細企業であれば、社長を信じられなければ、辞めるしか方法がない。もちろん、人によって、その集団のトップの考えを信じて入る場合と、その集団に帰属していたら、自分にとって都合がいいという打算で入る場合がある。打算で入った人は、別な打算が入れば、職を転々とするはずである。
だいたい、転職するたびにうまくいく人など、めったにいない。たいていは、段々と落ちていくだけである。転職してうまくいく場合は、そのトップにほれ込んで、そのトップを信じきれた場合である。トップが、なぜ、トップでいられるのか、なぜ、トップという状態を保持できるのかは、それを支持してくれる人がいるからである。それは、そのトップを信じてついてきてくれる人に対して、トップ自ら、よほどのことがない限り、裏切らないからである。もし、裏切ったら、トップとしては入れなくなるからである。そして、もうひとつの事例がある。その集団を飛び出して、自分で新たな集団を築き出すことである。企業でいえば、ベンチャー企業である。なかなか、ベンチャー企業は存続できない。利益をだすことが難しいからである。うまくいくかいかないかは、その企業のトップの考え方が、回りの人に支持されるかどうかにかかっている。芸能人やタレントと一緒である。そのベンチャー企業の社長のために、何かをしてあげようかと思わせる雰囲気があるかどうかである。それも、一過性でなく、ある程度継続可能なくらいの力をもっているかである。それがある意味、カリスマ性と呼ばれるものである。前に所属していた集団のトップよりも、つよいカリスマ性の力をもっていれば、当然にその人は出て行くことになる。
人を疑い出せば、きりがない。もし、集団のトップの言うことが信じられなくなり、その言動を疑い出せば、それは、どうしようもない。そのとき、その本人がその集団に打算で帰属したのなら、その打算は時と場合においては、外れることもある。自分に順当に利が来ればいいのだが、それが減ることもあるし、配置が換わり利が失われることもある。打算で帰属したのなら、打算がまたその縁の切れ目でもある。打算を隠して近づく人がいる。そして、その打算がばれたとき、大体は、関係が壊れる。もし、信じられなくなるのなら、そして、疑いだすのであれば、何をもって、その集団のトップを信じたのかを問い返してみるがいい。
人を信じきることは難しいことである。相手を信じれば、相手から信じられる。これが、基本的に、WIN-WINの関係である。集団の場合も同じである。企業のトップの思想や考え方、哲学、行動が、信じられたからついてこれたのである。昔は、終身雇用制で、就職すれば、終身、その企業で面倒を見てくれたものである。それは、信頼関係がなければなりたたない。企業側は、人を雇うのは投資である。人を育てるのは、莫大な金が掛かるのである。とくに、オーナーの中小企業は、私財をなげうっても、金を工面し、人を育てたのである。そのオーナーの信頼を裏切るようなことは、普通はできない。昔は、そういった関係が日本にはあった。それで、日本社会の成長はなりたっていたのである。それが義理人情の世界だったのである。育ててくれた義理がある。助けてもらった恩がある。だから、そこに忠義があったのである。
欧米のような発想の自由、自分にとって都合が悪ければ、簡単にやめる。そして、能力向上を求めて、企業を渡り歩く人がいる。結局、そういう人は、使われておわりだということを忘れている。集団のトップは、自分を信じてくれる人を大事にする。いつの世でも、外様は外様である。大企業でも、中途採用される。基本的に、その人達は外様である。辞めて出てきた人は、また、おなじように、自分のところも辞めてでていくと思うはずである。だから、その人に、重要な機密を教えるわけがない。そのとき、重要なのは、辞め方なのである。人を採用するとき、ある程度の会社は、その辞め方を調べるものである。不義をしてやめた場合には、その不義がずっと、隠れた履歴書として残るのである。企業が倒産した場合、その会社や集団にいられなくなった正当な事由がなければ、それを繰り返す人の定着率はさらに悪くなる。だから、数年いて、やめて、また数年別なところで働くことになる。なぜなら、雇う企業も使い捨てとして採用するからである。人は出会いである。人は一人では生きていけない。必ず、どこかの集団に帰属する。そのとき、自分に影響を与える人を信じきれるかどうかで、その人の将来は確実に変わる。
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