50歳以後、慣性の法則にどう向き合って生きぬくか。

 慣性の法則など、普通は意識しない。普通に生きている人は、はるか昔、聞いたことがあるかもしれないが、そんな言葉があること自身忘れている。人間もある意味、たくさんある物質の集合体である。当然に、心肺が停止すれば、死んでしまい、火葬され、骨となる。骨となってしまえれば、海岸に打ち寄せられた砂や岩と同じである。親族や友人の葬式を見るにつれ、いづれ自分もそうなる運命だと割り切るのだが、若いうちは、それを容認することは難しい。しかし、偶発的な事故で、若者もあっけなく、あの世にいってしまうことがある。慣性の法則とは、大きいものは、動きたがらない、動いているものは、停止したくないという物理の法則なのである。人間も物の一部であるから、その支配を受けることになる。軽いものは、直ぐうごく、重たいものは、なかなか動かない。スポーツカーは加速がいいけど、大型のトレーナーは、加速が悪い、それも慣性の法則である。急ブレーキをかけると、前に突っ込む、それは、急には止まりたくないからである。そして、逆に重たい人ほど、前に突っ込むのである。一度動いてしまえれば、今度は止まりたくないからである。

 

 メタボの人は、動きたがらない。あたりまえである。面倒くさいからである。昔は人生50年といわれた。医療が発達することなく、人間の素の状態で、放置すれば、だいたい50年間は生きれる状態だということである。ある燃料をもったロケットと同じである。ボーンと打ち上げ、放物線を描いて落下する。だいたい、それが、平均、50年間ぐらいは飛ぶということである。従って、40歳ぐらいから、だんだんと、体に変調がくる。成人病である。人間が、自制し養生しなくて、好き勝手な状態で生きたとすれば、50歳前後で、落下するということである。誰でも、動きたがらない、慣性の法則がはたらく。動かなく停止しているものは、停止という慣性の状態を続けることを望むからである。運動しなくなる。そして、人間は、食べなければ餓死する。もし、金があれば、おいしいものをたくさん食べようとする。アルコールが好きであれば、アルコールを多量にのむ、たばこに対して、ニコチン中毒になっていれば、タバコを多くすうことであろう。これもひとつの慣性である。そういう状況になれば、その状態の方向性へおちていく。ますます、肥満になり、高脂肪になり、肝機能がおきて、高血圧になる。心臓にも影響をうける。まちがいなく、50歳前後で死亡するはずである。20代、30代、40代では、若さがそれを吸収する。20才代であれば、どんなに不摂生をしても、どんなに無理をしても、ある程度までは耐えられる。しかし、年齢があがれば、同じことをしても、それが耐えられなくなる。なぜなら、本来は、50歳ぐらいで、人生が終わるように、人間が作られているからである。

 

 後は、その人の考え方である。50歳前後で壮絶に人生とさよならするのも、また一興でもある。70歳や80歳以上、長生きをして、この世に生を受けた喜びを長く感受していたいと思うのもまた、自然の成り行きでもある。どういう生き方をするかは、各人の勝手である。50歳から85歳の間で、大体の人は、落下して、人生の終焉を迎える。ダーツではないが、その中のどこら辺を目安にして、終末を迎えるかは、ダーツを投げるその人自身の意向である。俺は、60歳ぐらいでいいと、思えば、そこへダーツを投げればいい。ダーツをする人が40歳なら、残りの20年間で、落下地点へくるように、人生のプログラムが用意されるはずである。

 人生とは不思議なものであり、養生しなければ、目的どおりのところに落ちてしまう。医者の問診ではないが、年齢と今の姿と考え方等を聞けば、だいたい、この人は、何歳ぐらいまで生きれそうかなど、簡単に分かるものである。50歳以降、慣性的に動くのは、死への方向である。楽な方向、安易な方法とは、すべて、死へと向かう方向である。歩くよりも、車に乗っていたい、楽したい方向である。おいしいものを腹8分目で止めるよりも、満腹まで、食べたい、それも楽な方向である。アルコールもたくさんのみたいし、たばこもぷかぷかと吸いたいし、可能なら、涼しい空間で動きたくないものである。そう、何も考えずに、おいしいものをたくさん食べて、動かずに生きていたい。結局、それが慣性として動くのである。その結果、早く死ぬことになる。

 

 50歳以降、もし、できるだけ、長く生きようと思えば、自らその慣性に逆らうようにしなければ、だめである。食事も、ほどほどにする。あえて、動きたくないと思うところを動くことである。アルコールもほどほど、たばこは、禁煙、そして、できるだけ頭をつかう。つまり、仕事をし続けることである。加齢すると、無理も利かなくなるが、きっと、ほどほどの無理が適度ということになる。

 

 これから、少子高齢化であり、昔のように、死後の自分を、自分の子孫が供養してくれると思ってはいけない。これから、しばらくは格差社会がつづく、後期高齢者医療制度もどうなるか分からない。今後、誰でもが、自分の亡骸が、老人の孤独死として役所で処理される可能性がある。見届けてもらえる人もなく、ただ、ひとり、ぽつねんと死んでいかなければならないことだったありえる。少子高齢化と格差社会が進行していけば、何割かの人はそういう状況になる。仮に、富裕の家でなくなっても、いつ何時、ばらばらになるかなどわからない、そのときに、その家の墓がどうなるかなど分からない。血縁がうすくなれば、その家の墓に、だれも、供養の献花などしなくなるだろう。これからは、これがあたりまえだと思ったらいい。自分の死後、自分を覚えていてくれる人が、数人いてくれればいい、仮に葬儀があれば、葬儀の間だけ、記憶にとどめてもらえればいい。そのくらいの覚悟が必要である。それがあたりまえというつもりで生き抜かないと、逆に、それにおびえて、健康的に生きれないようになる。自分の死後のことなど、何も考えなくてもいいのである。健康的に生産的に生きれるところまで生きたらそれだけでいいのである。今の若者にそういってあげないと、彼らも老後が不安になって今が生きれなくなるのである。

 

 

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このページは、中野満が2008年8月22日 14:25に書いたブログ記事です。

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