中村中さんの「風立ちぬ」と堀辰雄の小説「風立ちぬ」の共通項
中村中さんの歌の題名を聞かなければ、昭和を代表する小説家、堀辰雄氏の名前など、記憶に上ることもなかった。文学的には、「四季」派をまとめた作家である。日本の戦前の抒情詩人、立原道造氏もその流れを汲む一人であり、戦後の作家としては、中村真一郎氏や福永武彦氏もその流れを汲む人たちである。フランス文学と王朝文学を足して二で割ったような感覚である。すべては、昭和の中で生まれ、昭和の中で集結したような感じである。とうに、忘れていた感傷であった。それは、人生の途上で、死と愛に向き合う時代に、共鳴する感覚である。だから、大学で文学を勉強するか、人の心象風景をえぐりながら、その感覚をプロットに乗せることを職業とする小説家として生計を立てようとしなければ、そのような感傷は、社会の中では、不要なものとされる。市場経済のビジネスの中において、そのような甘い文学性を保持しては生きていけないからである。文学に関連のある業界にいなければ、そのような感傷や純粋さは、ある意味、マイナスになる可能性がある。それがプラスになるかマイナスになるかは、それを評価してくれる上司の能力次第でもある。
音楽配信のネットから、中村中さんの歌ごえが聞こえてきた。映画、ゲゲゲの鬼太郎の挿入歌であるため、広告として、繰り返された。ファンの一人としては、直ぐにダウンロードした。そのとき、曲名が「風立ちぬ」でなければ、堀辰雄氏の名前を連想することはなく、そこから、立原道造氏の「優しい歌」など、その詩集までも思い出すことはなかった。風立ちぬ、とくれば、いざ、生きめやも、が続くのである。中村中さんの曲を聴き、なるほど、中村中さんらしい、視点で書かれている詩だと、感じた。中村中さんがこの曲に、「風立ちぬ」と何故つけたかも、分かるような気がする。
風立ちぬ、いざ、生きめやも、色々と解釈があるが、風が吹いた。だから、生きなければならない。これが「風立ちぬ」で引用されたボール・バァレリーの原文を訳すとこういう日本語になる。しかし、堀辰雄氏の訳文と、小説「風立ちぬ」の中で、主旋律としてながれている、人の無常観をみれば、「風はどこからか一瞬、湧き上がる。そうだ、生きれるなら生きなければならない。」という意味になり、さらに、堀辰雄氏があえて、「やも」という反語を使ったのは、「生きれるなら生きなければならない、しかし、人は生きれない、死んでしまうのだ」というものすごい哀しさをその訳文に含ませようとしたからだと想像する。
この歳になって、もう一度小説「風立ちぬ」を読んでみた。修飾語と被修飾語の係りが難しい小説である。ゆっくりとかみ締めるように読んでいかなければ、その文脈を理解できない。短編だが、濃密な内容である。婚約者の節子さんが、結核をわずらい、その中で、滅び行くものと、生き残るものとが、引き離されていく過程を描いている。愛情というもので、二つの魂は、結びつこうとする。しかし、現実の場では、二つの魂はひとつにはなれない。そして、どうすることも出来ない病のなかで、婚約者の節子さんは、死んでいく。「風立ちぬ」の視点は、作家の「私」なのである。節子さんの視点では、かかれていない。これでもか、これでもか、と自分を追い込んでいく。どうすることもできない自分をどこまでも追い込んでいくのである。短編だが、愛と死を見事に描ききっている昭和の名作である。
「風立ちぬ」とは、二つの矛盾なのである。交じり合わないものが、生まれるのである。そして、それは、普通にみれば理解し合えるものとして見えるが、じっくり見れば、次元の違うものとして、理解しあえないものなのである。蜃気楼かもしれない。蜃気楼に写ったものを手に取ろうとする。しかし、幻だから、実態がない。小説「風立ちぬ」の節子と「私」は、魂までひとつになろうとする。二人でいきて、二人が夢みた生活に向けて生きようとする。しかし、節子は、結核に犯され、サナトリュームに隔離される。「私」も節子と同じサナトリュームで、節子の付き添いをする。「私」は生きれる側、節子は生きれない側、それは、どうすることも出来ない溝、二つがひとつになれないし、その溝はどんどんひろがっていく。「風立ちぬ」とは、その溝(谷間)から吹き上がってくる風を意味するはずである。だから、風立ちぬ、その風が吹いてしまえば、生きていけないことになる。生きていたい、しかし、生きていけない。それが、「風立ちぬ、いざ、生きめやも」になるのである。
中村中さんの「風立ちぬ」も同じである。彼女の詩には、三つの視点が混在されている。ひとつは、男の視点、二つは女の視点、三つ目が、中間体の視点である。中村中さんの一連の歌は、友達の詩から、リンゴ売り、そして、風立ちぬも、その中間体の視点からみた世界を捉えているのである。独特の世界であり、それは、やはりはかなく、いじらしい世界である。ある意味、小説「風立ちぬ」と同じである。生きていたい、しかし、その世界では生きていけないのである。愛したい、しかし、相手の論理では愛せないのである。その中間体から見る夢は、男の視点とは重ならないのである。それに対して、男の側にいる普通の男には、どうすることも出来ないのである。それを受け止めてあげることは出来ても、そこで、ひとつなれるという幻想を共有することは、残念ながらできないのである。中村中さんの「風立ちぬ」は、その幻想を共有できるという男に対して、そういってくれるだけで、十分よ、それを理解してくれるだけでも、嬉しいというのである。しかし、彼女たちは、現実は、そうはならないことを知っているのである。男の癖に、化粧して、男の癖に、女の服をきて、男の癖に、男に媚をうって、そうして、世間から笑われて生きてきた人たちと、勇気をもって、その愛の幻想を向こう側にいるまともな人たちが共有できるわけはないと分かっているのである。しかし、一時でも、共有できる、共有したいというその言葉が嬉しいのである。現実には、再び会えないと知っていながら、再び会える日が来ることを信じている人に慈しみを感じるのである。
これから、中村中さんがどう生きるのかわからない。まだ、若い、ある意味、若すぎる年齢である。感受性が強い分、色々な刺激で心苦しんだはずであるが、彼女の人生は、これから変化するはずである。中村中さんの書く詩には、四季派の流れを汲む、強い文学性がある。どうも、これから、散文から小説へと彼女は舵を切るような気がする。きっと、どこかの出版社が、すでに、抱え込みを開始しているかもしれない。中村中さんの世界は、現実の世界では、やはり、受け入れられないものである。しかし、それが、力強く生かせるのは、虚構の世界である。あなたたちを笑った人たちが、どういうふうにしてあざ笑い、どういうふうにして、あなたたちの心を踏みにじっていったかを、克明に描ききればいいのである。きっと読者はそれを心待ちにしているはずである。それを通俗小説で終わらしてはいけない、そこにこそ、強い純文学性を持たせるべきである。そうすることで、小説「風立ちぬ」と中村中さんの「風立ちぬ」が、どこかで、強い重なりを示すはずである。
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