無責任、無関心、無干渉の時代、愛知県知床中学教師、18歳の卒業生に刺される。
時は、まさに、無責任、無関心、無干渉の時代の真最中である。そんな中で、突然、昼間の中学校の一室に、クラブ活動の指導をしていた教師を、18歳になる卒業生がナイフで刺して、怪我を負わせたのである。どうやら、その犯人の供述としては、4-5年前に担当だったその教諭に対しての恨みが原因だというのである。犯人が中学2年のときの担任が、怪我を負わされた神谷教諭だったのである。
この青年は、2005年3月に中学を卒業し、その後、高校へ進学した。すぐに、引きこもりが原因で、退学し、フリーターとして、今まで生きていたことになる。どうやら、この青年は、自分の人生がうまくいかないのは、この神谷教諭とであったためだと、考えたのだろう。そう自分を追い詰めていくと、この神谷教諭に対しての憎しみが生まれたはずである。そして、犯行に及んだ。もちろん、この犯人は、神谷教諭に対して、怪我を負わせてやるぐらいのつもりであって、殺害しようとする強い殺意はなかったであろう。もし、殺害しよう、神谷教諭を殺してやろうという強い目的意識があれば、別なところで別な凶器をもって、神谷教諭を狙うからである。
もちろん、この犯人の犯罪行為自体は、許されることではない。傷害罪等で起訴され、それなりに、社会的な制裁を受けることになるだろう。しかし、私は、もっとも驚いているのは、この犯人が今回の事件のきっかけとなった時期が、犯人が中学校2年だった点である。先生と生徒の関係である。何かの理由でしかることもある。問答の弾みで、少年が神谷教諭に殴りかかることもあったであろう。それから、4?5年も経過しているのである。20代の4-5年の変化もたいしたこともない。30代、40代など、変化などほとんどない。体が老化していくだけで、精神的な成長などない。しかし、男も女も13-14歳から18歳までの4-5年の変化は、その人の人生の中で、最大の変化率である。ある意味、その5年の間で、子供から大人に変わるからである。本来、誰でもが、精神的にも肉体的にも最大な変化率をもつこの時期に、この犯人は、ずっとおなじところにいたということになる。この犯人は、その間、だれとも、心を震わすような出会いがなかったことになる。難しい言葉を使うが、この犯人と相互作用を起こす人物や出来事が、ほとんどなかった。この犯人が、自分の心と過去を振り返ると、誰ともあたることがなく、5年前に相互作用をもったこの神谷教諭が出てきたことになる。これほど、寂しいことはない。
では、この神谷教諭との出会いにより、何か特別なインパクトをもった事件がこの少年の中に発生したのだろうか、それもないのである。ごく当たり前の日常的時間がこの神谷教諭とこの少年の間にも流れていただけである。それも、4-5年の前の話である。たぶん、神谷教諭は、一瞬、この犯人が通り魔だと、思ったに違いない。生徒を守らなければならないと、考えたかもしれない。それよりも、自分の命を守らなければならないと感じたかもしれない。もし、私が同じような状況にいれば、この犯人をみて、誰だとおもうだろう、直ぐに、ぴんと来れば、その人とどんな相互作用を過去にもったかを想起するだろう、それが分かれば、その犯人に対しての言葉がでるはずである。すぐに、わからなくても、自分の記憶の中で、それらしき人を探すだろう、そして、それが思い出せなければ、最後にこれは通り魔と感じ、逃げることを考えるだろう。
残念だが、日本は、無責任、無関心、無干渉の人間社会の国になったのである。誰かが、この犯人が犯行を及ぶ前に、この犯人だけでなく、通り魔予備軍、傷害罪の予備軍、自殺者の予備軍の若者に対して、魂と魂とのふれあいを起こすようなアクションをしなければ、日本はどんどんおかしな国家になってしまう。平均化され中和された若者など、何もおもしろくない。ますます、無責任、無関心、無干渉の時代になれば、平均からはずれた中途半端な若者は今後ますます排除されようとする。そうなるような風潮になってくる。いつの世でも、若者は、乱れるのである。自分の内部の情熱を昇華できずに、迷うのである。時には、暴走もする。しかし、それでも大人たちは、その暴走や乱れを大きくしないように、抑えたのである。社会全体で、若者たちの行為を大きくみまもり、ある意味、連帯責任をもって、若者を育てたのである。
人権や自由という言葉を無責任に使用して、乱れる若者を放置したのである。社会で本来あるべきはずの連帯責任を放棄し、それぞれが己のエゴの中に身を隠したのである。その結果、平穏な社会を望んだ、さかりのついた凶暴なひとには、あたかも去勢するかのように、その魂のありかを鎮めたのである。本来は、ひとりひとりの若者のエネルギーをみとめ、乱れすぎないように、社会全体である程度の圧力を掛けるべきところが、社会全体での連帯責任を負いたくない人が増えたために、ひとりひとりの若者のエネルギーを弱めるようなアクションをとったのである。その結果が、無責任、無関心、無干渉の人間社会となったのである。それでも、それは突発的に出てくる。地球温暖化での局所的なゲリラ豪雨とおなじように、訳が分からなく、予測不能の中で、色々な殺人通り魔事件がでる。今回の事件は、死亡者がでなくてよかった。この犯人は、この段階で、社会の規範を破ることで、逆に、その犯罪者という連帯の場に救いを求めたのである。自殺して自分を抹殺する以外に、たとえ、犯罪者の烙印が押されようが、その牢獄での連帯にしか救いが得られないとすれば、これは、大問題のはずである。若者は未熟である。だから、その未熟さをしかってやらなければいけない。匿名の中で、ほえる若者は、そのほえる内容に耳を傾けて、そして、それが間違っていれば指摘してほしいのである。あほにあほといって何が悪い。そういえば、相手も、あほとはなんだ、と突っかかってくる。それでいいのである。そこに、相互作用がでてくるのである。あほにあほといってはいけないから、黙っている。無干渉となる。
私の学生時代に、週刊プレーボーイがあって、そこに亡き今東光和尚が、極道辻説法を連載していた。いつも、そこには、「なにを寝とぼけたことを言ってやがるんだ、このぼけ野郎、あほにあほと言って何がわるい、このぼけ、しっかりしろ」そんな言葉が、あった。今、要求されているのは、社会でも会社でも、亡き今東光和尚のような毒舌をつける勇気と知識を持つ人たちである。若者に、しっかりしろ、このボケ野郎と胸をはって言える人を育てることである。
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