大分県の教員採用汚職事件を受けて、先生は世間を知るべきです。

 教職という聖域に守られて、人は己のエゴを隠すことになる。これだけ、つぎからつぎへと口利きを利用して、教員になろうとする人がいるのかと思うと、我々が知らない教職という聖域は、どれだけ、世間と比べておいしいところなのか、ふと想像したくなる。子供たちが、初めて、大人と接するのは、たぶん、学校の先生が最初であろう。全員とはいわないが、すくなくとも、金でその地位を得た先生に教えられた生徒は、どんな影響をうけるのだろうか、果たして、先生の中で、胸を張って、俺は先生だ、私は先生だと、生徒の前で胸をはっていえる先生が、何人いるのだろうか。

 

 そして、教育委員会、これも訳のわからない組織である。すべて、教職という聖域に守られて、その閉鎖社会のなかで、先生も成長する。外部との接触がなく、教員という立場で、生き抜くことになる。彼らは、先生である。学科を生徒に教えることもさることながら、どう生きたらいいのかという大命題も、彼らに教えなければならない。真剣になって、ぶつかってくる生徒をどう指導していくのだろうか、本来、もっと年配の人から人生を指導されなければならない立場の中途半場な若い先生が、どんな顔をして、生徒に、人生の指導をするのだろうか、私は、一度、彼らがどんな精神で、そんな気持ちで生徒とぶつかり、生徒に何を教えているのか、見たくなった。率直にそう感じる。

 

 中には、真剣になって、色々な問題と取り組んでいる先生もいるだろう、しかし、それも、基本的に、その小さな教職という鳥かごの中で、それらを考えているに過ぎない。それは鳥かごの中での話である。外部から敵が襲っても、絶対に傷つかない立場である。公務員という立場、その守られた聖域のなかで、考えているにすぎない。生徒は、そこから、社会に出て行くのである。社会の荒波にもまれたことのない先生が、どうして、社会の荒波の中で、どう生きたらいいのかを教えることができるのであろうか。

 

 生徒は、先生のことを信用していない。すくなくとも、中学校になれば、子供ながら世間をおぼろげながら理解するようになる。保身に走り、守られた鳥かごの中で、学習指導要領にそって、たんたんと教科を教える先生に対して、感受性の強い生徒なら、簡単にそこに嘘があることを見抜くはずである。だんだんと、先生の嘘が嘘と分かってくる。当然に、先生に対する抵抗や反抗が芽生えるはずである。いじめや差別がうまれるのは、先生が、いい加減だからである。先生が毅然たる態度をとらないからである。いや、とらないというよりも、とれないと分かっているから、いじめや差別が生まれるのである。先生のいうことを聞かない生徒は、感受性が強い子である。感受性が強いから、すこしの刺激でも、反応してしまうのである。それを受け止める器量が、今の先生にあるとは思えない。世間をしらず、ニートの不安定さも分からず、市場経済の弱肉強食のもとで、必死で家族を養うために働くサラリーマンの気持ちも分からず、先生になった人がどうして、規範からずれる生徒を救えるというのだろうか。

 大学を卒業して、教員試験をうけて、先生になる。狭き門である。30歳にも満たない先生が、どの顔をして、生徒と対面し、生徒の悩みを受け止められるのだろうか、一緒になって、悩みを聞くことなどできない。一緒にその苦しさを共有して、泣いてあげることなど出来るわけがない。そんなことは嘘である。頭で考えて、そういうふりをしているだけである。今、必要なのは、職業化した先生を再教育する先生が必要なのである。日本には徴兵制はない。あれば、ある一定期間、2年なら2年、先生を訓練する必要があるのである。具体的に、ある一定期間、民間会社で仕事をさせるぐらいのプログラムがあってもいいのである。ある一定の成果を市場で出せない場合には、教職に復帰させないぐらいの厳しさがなければ、話にならないのである。

 

 先生は生徒をその弱肉強食の市場へ送り出すのである。ある意味、戦場と同じである。その戦場での苦しみを理解しないで、どうして、かわいい生徒を戦場へと送り出すことができるのだろうか。頭ではわかっている。しかし、生徒はそれが嘘だと見抜いている。だから、耳を傾けないのである。傾ける価値のない人に、誰も耳を傾けない。子供は、ある意味、正直なのである。正直だから、自分の気持ちに素直なのである。だから、反抗するのであり、気に入らなければ、すねたり、怒ったりするのである。それを諭すのが、基本的に先生の仕事なのである。

 

 少なくとも、社会にでて、社会の荒波を経験してない人を、教員として採用すべきではない。募集資格の中に、学校をでて最低3年間、民間で就労した経験をもつこと。最低でも、民間で就労した経験を持たない人が、教鞭をとること自身がおかしい。自分で経験したこと、いいことも、わるいことも、社会で経験したこと、それがベースとしてあるから、生徒に本当のことが言えるはずである。生徒は、それを見ているはずである。

 

 中には、いい先生もいるし、情熱的に指導している先生もいる。その反面、買春をしたり、恐喝したりする先生もいる。それは、教師も人間であるということである。一体、先生の中に、胸をはって、私は先生だと生徒の前に言える人が何人いるのだろうか。大人は、嘘をいう。嘘を言葉で正当化する。子供にはそれができない。子供の方が純真なのである。純真だから、残酷であり、わがままなのである。だから、暴力的にもなるのである。その子供たちを受け止められるだけの人間性が、どのくらい今の先生にはあるのだろうか。

 

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このページは、中野満が2008年7月16日 17:00に書いたブログ記事です。

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