2008年7月アーカイブ
規制を撤廃し、市場を開放するほうがいいし、構造改革を断行するのが、正しいことだといった元総理大臣がいた。確かに、人間がいて、そこに、資源があって、エネルギーがあれば、消費と生産は、繰り返され、段々と人間社会は豊かになる。限りなく、社会は膨張すると考えるだろう。もし、それが、無限の世界であったり、社会が飽和に達するはるか以前の状態であれば、の話である。1000年前の状態であれば、ほとんど、問題はなし、自由は謳歌されるべきである。
もしかしたら、小泉構造改革の5年間で、日本はとんでもないものを失ったのかもしれない。それが、いいことなのか、悪いことなのか、分からない。ある人にとってはいいだろうし、ある人にとっては良くないことだろう。問題は、日本全体が平均してよくなったか、どうかであり、仮に一時的に良くなったとしても、それが原因で、没落の道へ行くのなら、それは、いいことだとはいえない。規制が撤廃される。光速ネットワークが張り巡らされる。非効率の官僚の構造改革は厳しく断行すべきだが、それが出来ていないのが現状である。
規制が撤廃されると、どうなるか、必ず、平均化する。規制とは、分けることである。水槽を二つに仕切る。右に高い温度の水、左に低い温度の水をいれとくとする。高い温度の水はほっといたら、冷めてくる。だから、冷めないように、がんばって、高い温度を維持しようとする。高い温度が維持できるのは、仕切りがあるからである。では、その仕切りを外せば、温度は高いほうから低いほうにながれ、水槽は、ある温度になる。均質化したためである。いくら、高性能のものを作ったとしても、いくらいい技術をつくったとしても、いくら、すばらしいものを作ったとしても、規制がなければ、技術は人の移動を通して水面下で移転される。ヘッドハンテングである。日本で作るよりも、台湾や中国で作ったほうがいい、パソコンも性能がほとんど変わらないのなら、5万以下の方を選ぶ。そう、安くていいものは必ず売れるという法則が成り立つ世界である。携帯電話もそうだし、テレビもビデオもあらゆる規制のない自由な商品はみなそうである。
高性能、高品質になる。それが技術だと錯覚していた。それは、どこまでもつづくものと錯覚していた。確かに、昔のパソコンでは、立ち上げるまでに数分かかった。処理速度も遅かった。しかし、どこかで、飽和に達した。それ以上の能力は不要だからである。人間の感覚がそれを識別することが出来ない領域に達したからである。そこを通過すれば、後は価格競争である。日本で作る必要なない。同じ機能なら、同じ性能なら、同じメンテナンス性なら、10万の商品よりも5万の商品の方がいいはずである。そして、次に狙われるのは、車である。日本の車がいいのは、周動部回りの技術がすばらしいからである。エンジンを含め、そのまわり、ベアリング、ギアー、とにかく、力を伝達するパーツがいいからである。しかし、燃料電池や太陽光やバッテリー技術が大幅に革命的に伸びれば、まちがいなく、ガソリンエンジンから、モーターへと駆動部は変わる。日本の大手重電メーカーが、車を作ることも可能である。今、世界でNO.1の日本の車会社は、栄枯盛衰の理のように、間違いなく凋落が起こり始める。
時は、まさに、無責任、無関心、無干渉の時代の真最中である。そんな中で、突然、昼間の中学校の一室に、クラブ活動の指導をしていた教師を、18歳になる卒業生がナイフで刺して、怪我を負わせたのである。どうやら、その犯人の供述としては、4-5年前に担当だったその教諭に対しての恨みが原因だというのである。犯人が中学2年のときの担任が、怪我を負わされた神谷教諭だったのである。
この青年は、2005年3月に中学を卒業し、その後、高校へ進学した。すぐに、引きこもりが原因で、退学し、フリーターとして、今まで生きていたことになる。どうやら、この青年は、自分の人生がうまくいかないのは、この神谷教諭とであったためだと、考えたのだろう。そう自分を追い詰めていくと、この神谷教諭に対しての憎しみが生まれたはずである。そして、犯行に及んだ。もちろん、この犯人は、神谷教諭に対して、怪我を負わせてやるぐらいのつもりであって、殺害しようとする強い殺意はなかったであろう。もし、殺害しよう、神谷教諭を殺してやろうという強い目的意識があれば、別なところで別な凶器をもって、神谷教諭を狙うからである。
もちろん、この犯人の犯罪行為自体は、許されることではない。傷害罪等で起訴され、それなりに、社会的な制裁を受けることになるだろう。しかし、私は、もっとも驚いているのは、この犯人が今回の事件のきっかけとなった時期が、犯人が中学校2年だった点である。先生と生徒の関係である。何かの理由でしかることもある。問答の弾みで、少年が神谷教諭に殴りかかることもあったであろう。それから、4?5年も経過しているのである。20代の4-5年の変化もたいしたこともない。30代、40代など、変化などほとんどない。体が老化していくだけで、精神的な成長などない。しかし、男も女も13-14歳から18歳までの4-5年の変化は、その人の人生の中で、最大の変化率である。ある意味、その5年の間で、子供から大人に変わるからである。本来、誰でもが、精神的にも肉体的にも最大な変化率をもつこの時期に、この犯人は、ずっとおなじところにいたということになる。この犯人は、その間、だれとも、心を震わすような出会いがなかったことになる。難しい言葉を使うが、この犯人と相互作用を起こす人物や出来事が、ほとんどなかった。この犯人が、自分の心と過去を振り返ると、誰ともあたることがなく、5年前に相互作用をもったこの神谷教諭が出てきたことになる。これほど、寂しいことはない。
では、この神谷教諭との出会いにより、何か特別なインパクトをもった事件がこの少年の中に発生したのだろうか、それもないのである。ごく当たり前の日常的時間がこの神谷教諭とこの少年の間にも流れていただけである。それも、4-5年の前の話である。たぶん、神谷教諭は、一瞬、この犯人が通り魔だと、思ったに違いない。生徒を守らなければならないと、考えたかもしれない。それよりも、自分の命を守らなければならないと感じたかもしれない。もし、私が同じような状況にいれば、この犯人をみて、誰だとおもうだろう、直ぐに、ぴんと来れば、その人とどんな相互作用を過去にもったかを想起するだろう、それが分かれば、その犯人に対しての言葉がでるはずである。すぐに、わからなくても、自分の記憶の中で、それらしき人を探すだろう、そして、それが思い出せなければ、最後にこれは通り魔と感じ、逃げることを考えるだろう。
アメリカの財政赤字も過去最大となる。日本の財政も悪化の一途である。しかし、アメリカも日本も、国家が倒産することはない。もちろん、企業は、倒産する。しかし、今まで、国家が倒産したためしがない。国家がつぶれるときは、植民地化されたからである。国家の主権が実質的に他国に譲渡されるからである。1945年の第二次大戦終結後、国家のありようが大幅に変わった。侵略することが出来なくなったからである。経済的に、民間企業が多国籍企業として他国に入ったとしても、そこで、成り立つのは、利権だけであり、政権が倒れたり、事業の必要性がなくなれば、その関係も崩壊する。アメリカの企業集団も日本の財閥集団も、一時、開発途上国に対して、戦前の支配関係に類似したものを作ったかもしれない。しかし、経時的に見て、驕れる平家久しからずである。どこかで、その利権も代が変われば雲散霧消していく運命であった。
経済も政治も、基本は、地球が有限の世界であることを忘れていることである。物を作り出していけば、需要と供給のバランスだけで、永遠に社会は繁栄することになってしまう。しかし、これは、ありえない話である。
ぐうたらな男がいたとしよう。独身である。ただ、この男は仕事が出来る。意外と所得が高いとしよう。いい、マンションをもっていたとしよう。最初のうちは、掃除も洗濯も食事もゴミだしもきちんとしたとしよう。しかし、だんだんとルーズになってくる。なぜなら、この男、仕事をしなければ、食べていけないからである。世の中には、二つの決まりがある。エネルギー保存の法則(熱力学第一法則)とエントロピー増大の法則(熱力学第二法則)である。この男は、とにかく、食べるためには、仕事をしなければいけない。疲れて帰ってくる。家に帰ってまでも、仕事はしたくない。当たり前の話である。だから、だんだんと、流し台に食い散らかした食器等が乱雑にならぶ、コンビニの袋に食べ残しがつまってくる。大体、社会人の男の部屋とは、こんなものである。だんだんと足の踏み場もなくなる。ゴミ屋敷になってくる。
肥満と喫煙を自制することは、結局精神力を鍛えることと同じである。"何故、太るか"は、食べるからである。消費に対する摂取が過多だからである。人間は、食べなければ餓死する。直物のように、光合成によって、生きることは出来ない。自らの手足を使い、人間にとって、毒でない、害のないものを摂取するから、生きることが出来るのである。肥満を防止するのは、理論的には非常に簡単である。食べ過ぎないことである。したがって、肥満を防止するのは、食べた分、どのような形でもいいから、消費すればいいのである。人間には、年齢と社会的な環境とによって、それぞれの基礎代謝が決まっている。それは、スポーツ選手と事務員とストレスを受けやすい人では、値が違う。同じカロリーを摂取しても、基礎代謝の高い人は、それだけ消費しやすいので、肥満にはなりづらい。10代や20代なら、基礎代謝のための体つくりは可能だろう、消費しやすい運動家タイプを作るのであれば、それなりに訓練すればその体はできる。しかし、問題は、その基礎代謝も、年齢や社会的な環境によって、変化するのである。運動家タイプの人であっても、30代後半から40代になれば、社会的な地位も上がってくる。肉体を消費することができずに、暴飲暴食と睡眠不足、それに過度の喫煙が加われば、間違いなく、肥満が生じてくる。健康診断でも、もともと、体が強いため、なかなか顕在化しない。それに甘えて、放置すれば、どこかで、一気に数値が悪くなる。それが、気に入らない上司であったり、経営者であったりしたら、ほくそ笑んで待っていればいい。そのうち、病に倒れて、再起不能になるからである。
結局、自分の健康管理は、自分でするしかない。会社での健康診断、地域医療での健康促進プログラム、いろいろなものがある。しかし、人間の細胞の活性化の期間は、約28日である。化粧品でも薬用化粧品でも、その効果が出てくるには、約28日、かかるのはそのためである。即効的に効くのは、医薬品である。しかし、副作用が伴う。だから、医者の処方箋や医者の管理が必要なのである。薬局でうっている風邪薬と医者が処方する風邪薬は、その性質が違うのである。病院は、あくまで、今までと違う症状がでてきて、社会的や日常的な活動が困難になったとき、治療をうける場である。その症状が、急激に悪化したとき、人は救急車をよび、緊急医療を受ける。当たり前の話である。もちろん、病気には個人差がある。何も悪いことをしていないのに、ウイルスに感染する場合もある。それとは異なり、病気を自制できたにも関らず、それを放置し、病になる場合がある。それが、肥満と喫煙に関るものである。もちろん、肥満が悪いわけではない、人によって、その脂肪のつき方は違うからである。太っていても、内臓に脂肪がついていない人もいれば、やせていても、内臓に脂肪がついている(脂肪肝)人もいる。
人の生き方に、いいもわるいもない。生まれた環境がよく、何不自由なく生活でき、それほど、働かなくとも、資金がある人も世の中にはいる。美味しいものを食べ、上質のアルコールをのみ、それに、ぶかぶかとタバコをすう。あえて、働かなくても、資金がある。一年、二年、まず、慣性の法則が働き、動きたがらないはずである。重たいものほど、動かすのに、外部からの力がより必要だからである。血液はどろどろになる。喫煙で血管は収縮する。高血圧で倒れるか、糖尿で倒れるか、心臓で倒れるか、脳血栓で倒れるか、いずれにしても、成人病で、命が早くなくなるのは間違いない。そういう人生もいいとわりきり、そうなったら、すっぱと、自らの人生を自らで終止符を打つといって、それを実行できれば最高なのだが。しかし、世の中、そういう人はほとんどいないのが、現状である。そうなったら、じたばたするのである。
私もずっとタバコを吸ってきた。時々は、禁煙キャンペーン等をみて、やめようかなと思ったことはあったが、出来ても、数時間でギブアップした。特に、健康診断を受けても若いときは体に異常はなかったし、家系的にも癌発生はなかったので、20代や30代半ばまでは、気持ちよく喫煙をしていた。その頃はまだ、飛行機も全面禁煙ではなかったので、愛煙家としては、まだ居心地がよかった。特に、飛行機の中でアルコールを飲みながら、喫煙するほど、楽しいものはなかった。
急激にたばこに対して、制限が掛りだしたのは、ここ5年ぐらいである。それまでは、ある程度、どこでも吸えたのが、5年ぐらいまえからすえなくなった。企業でも、応接間に灰皿を置いている企業は少なくなった。どこの企業でも、部屋の隅っこに喫煙室をもうけ、その中に空気清浄機をつけている。飛行場の喫煙室と同じようなものである。アメリカでは、飛行場の内部にも喫煙室がないところがある。どうしても、吸いたければ、外に出て、吸えということである。もはや、欧米では、たばこを吸う人は、人間ではないような扱いである。タバコを吸う人は野蛮人であると、そういう人も欧米の人にはいる。
まず、100人の医者に、たばこは体に害はありますかと尋ねれば、ほぼ全員が害があるという。色々な医者にたばこを吸ってますかと尋ねたが、大体、昔は吸っていたといい、今は禁煙していると答える人が多い。5年―10年まえに禁煙したといっている医者が多かった。たばこが、なぜ、良くないかといえば、習慣性、依存性があるからである。もし、習慣性がなければ、簡単に止められるからである。吸わなければ、禁断症状がでるから、つらいのである。
仕事の能率を考えると、仮に、仕事場の机から、喫煙室まで行き、そこで、たばこを一本すって、もどってくるまで、5分掛るとしよう。もし、一日20本吸ったと考えれば、100分、ロスしたことになる。8時間労働中、正味、労働している時間は、昼食時間を除けば、5時間ぐらいでしかない。これで、AさんとBさんとが二人いて、Aさんは喫煙、Bさんは禁煙だとすれば、AさんとBさんとの給料に差をつけざるを得ないことになる。新人であれば、会社としては投資である。回収するまでには、ある程度の年数が必要である。あきらかに、喫煙することと仕事との能率化や業務結果に対しての相関が認められなければ、通常、喫煙者と禁煙者との差別化が起きるのは当然かもしれない。今後の人事評価に加えられる可能性がある。
通り魔殺人、無差別殺人が、後を絶たない。仕事が面白くない、世の中が嫌になった。それで、誰でもいいから、無差別に人を殺す。これは、まったく防ぎようがない。凶器は、100円で売っている包丁である。簡単に買える。それを取り締まることはほぼできない。誰が、通り魔かなど、分かるはずがない。通り魔予備軍だとしても、実際に、凶器を取り出して、犯行に及ばない限り、逮捕できない。警察官が、不審者として、すべての人に職務質問しようものなら、今であれば、すべての日本人が不審者として職務質問されてしまう。現実的にそれは、不可能なことである。
日本人は、昔から、たたりをおそれた。死者には、魂があり、それが、安堵されないかぎり、災いを死者側から報復として施すものである。それがたたりである。目には目という、遺族と加害者の報復の論理ではなく、あくまで、殺人を犯した側への心理的なプレッシャーを与えることで、殺人行為そのものを抑止しようとしたものである。地獄の閻魔大王も基本的に類似したものである。悪いことをした奴は、死んだ後、それ以上の報復を受けるというものである。日本人は、たたりと地獄という死者の視点から現世のモラルを構築していったはずである。それが、現世の欲望とエゴの発散を抑止したはずである。そして、必殺仕事人等の仮想空間で見えるのは、表では処罰されない人を、裏社会から、死者のたたりとして、報復するものである。日本人には、そこに、悪いことをしてはいけないという、暗黙のモラルがあったのである。悪いことをしたやつは、地獄に落ちる。己の欲望で、人を殺したものは、死者のたたりをうける。一族郎党皆殺しを行ったものは、因果応報で、いつか同じ運命を受けるというものである。
その強い倫理感が、昔の日本人にはあったのである。すくなくとも、私の年代の人にはその意識はあった。子供のときから、年配の人から教えられた。親からも教えられた。たたりがある。地獄に落ちる。それは、まさしく、先祖供養であり、死者の霊を慈しむものであった。夏休みの学校では、林間学校があり、肝試しがあった。墓を廻るものであった。霊感の強い人は、どこかで、強い霊を感じて、存在感を示したものである。そうすることで、死者の霊という仮想空間を通して、日本人は、一種独特の連帯感を死者の霊と共有したのである。
もし、命を大切にするという考え方があれば、道に蟻が一匹いたとしても、その蟻の存在を気づけば、けっして、その蟻を踏みつけたりはしないはずである。普通は、人間は人間を殺すことは出来ないはずである。殺すことができるのは、人殺しの命令があるからである。人を殺さなければ、自分が殺される状況にあるとき、人は人を殺すことができるのである。それか、相手に対する激しい憎しみが生じたときである。相手の存在を消したいぐらいにつよい感情が起きたときである。それ以外には、どこかで、人殺しの衝動は抑止されるはずである。
22日の午後9時40分、そろそろ、書店も一日の営業を終了する時間である。郊外型の駅ビルである。八王子は、中央線、八高線、横浜線、私鉄の京王線が乗り入れているところである。東京近郊には、大きな大学もあり、八王子は、ひとつの学生の集結場所でもある。斉木愛(まな)さんは、アルバイトとして、9階の本屋で働いていた。本屋さんは、アルバイトの時給としては、高くもなく、低くもない。ただし、本が好きな人であれば、本屋さんでアルバイトをすることは、きっと楽しかったに違いない。ごく普通に生活し、ごく普通に友達と語り合い、ごく普通に恋愛も楽しんでいたはずである。
22日の朝、いつものように、彼女は目覚めたはずである。大学は、夏休みかどうかはわからない。学生は、お小遣いをためたり、夏休みの旅行の支度金にする目的でこの時期アルバイトにいそしむはずである。何時から何時までのアルバイトだったかは分からない。すくなくとも、斉木さんは、その日の午前9時ごろには、起きていたはずである。運命とは、残酷である。その日の12時間後には、殺傷されているのである。こういう事件をみるにつれて、被害者の12時間前を考えてしまう。秋葉原で殺傷された女性もそうであったし、スイミングプールで撃ち殺された女性もそうだった。彼女たちがその日、起きて、殺傷されるまで、どんなことを考えていたのか、何か普段とは異なる雰囲気を感じていたのか、もし、死者の魂をよみがえらせることが可能なら、私は、彼女たちのその日の心の叫びを聞いてみたい。
この犯人(菅野昭一容疑者)は、卑劣である。無差別に関係のない人を殺す犯人は、到底許すことはできない。特に、被害者の家族や関係者は、なおさらそう思うであろう。誰でもよかったといわれたら、この犯人に殺された斉木さんのご両親は、救われないはずである。いままで、大切に育て上げた娘さんをこの愚かな犯人によって、誰でも良かったといわれて、殺されたのであれば、どう気持ちの整理をつけたらいいのかと思うはずである。誰でもが、被害者と加害者を天秤に掛けてみる。被害者に同情はすれ、加害者には、ひとかけらの同情の気持ちも起きないはずである。仕事がおもしろくなかった。だれでも良かった。ただ人を殺したかったというのが動機であれば、自分を真っ先に殺すべきなのである。この犯人は卑劣である。人を殺害した後、凶器を置いて逃亡したのである。そして交番近くでうろうろしているところを職務質問され、逮捕されたのである。
自分の気持ちがむしゃくしゃし、そのいたたまれないところから逃避したくて、犯行に及んだ。事件がおきれば、マスコミは、報道してくれる。自分の思いも伝えてもらえる。そして、自分は、生きることができる。一人だけの殺傷であれば、死刑にはならない。そして、抵抗することなく、捕まり、そして裁判のときに、情状酌量を狙って、反省と改悛の情を示せば、無期懲役になるはずである。死刑にならなければ、どこかで、出てこれる。ある意味、支援団体がつき、自分をまもってくれる。もし、そこまで計算にいれて、犯行に及んだとしたら、この犯人によって殺された斉木さんはまったく救われないはずである。
これも、答えなどないはずである。事件の前日の夜、その長女は父親と一緒にカレーを作った。母親がパートからもどってから、家族一緒にビデオ鑑賞をして就寝した。ごく普通のありふれた光景である。もちろん、その父親は、いつものように、自分の自宅で、家族と一緒に寝たのである。数時間後、自分の娘に殺されるとも気づかずに。そして、その夜、台所の包丁を取り出して、その長女は、父親を殺害した。それだけを描写すれば、不気味な短編小説の出だしになりそうである。父親を突発的に殺害するのであるから、そこに、何かの理由はあるはずである。しかし、決定的な動機など、周囲からは聞こえてこないのである。もちろん、起訴するにしても、人が死んでいるのである。責任能力が問われるはずである。この事件を立件するには、何故、父親を殺害したのかという動機が必要なのである。
ある意味、この事件は非常に恐ろしい。たぶん、この家族には、特異性がないからである。どちらかといえば、エリート的な家族であろう。しかし、そういっても、特別な特権階級でもない。製薬会社に勤める46歳の父親であれば、それなりの年収は貰っていたはずである。世間に比べるとすこし、楽な生活をしていたごく普通の家族だと考えてもいい。この長女も、それなりにこの環境の中で成長したはずである。今の時代の15歳の女子であれば、昔の17?18歳ぐらいの体力はあるだろう。たぶん、多情多感な年頃で、精神的なものに憧れをもったはずである。オカルト的なものや、宗教的なものに対して、14歳ー15歳の少女は、ある程度興味をもつはずである。数年前から始まる初潮とが、切っても切れない関係にあるからである。たぶん、闇の中で始まる初潮、それが繰り返される。それは、だんだんと肉体が、生殖を受け入れられるようになるための過程でもある。しかし、ある一部の14-15歳の少女は、それを悪魔からのささやきと感じるかもしれない。たぶん、少女は、どこかで、内部から排出される血の色に、おぞましさを感じたのかもしれない。それだからといって、それが父親を殺す遠因になるとも思えない。
娘が父親を殺した場合であれば、普通、父親が少女を肉体的に虐待したかどうかの明確な事実が見つかる。しかし、それがなければ、それは少女の複雑な心理から出てくる。突発的に、父親を殺したりはしないはずである。衝動的に何かをしでかす少女であれば、すでに、何かしらの事件を過去に起こしているはずである。殺人は、究極の犯罪である。したがって、相手を否定するための殺人と、自分を守ろうとして相手を殺す場合がある。この場合、この長女は、寝静まった頃、突然、起きだし、台所にあった包丁をもって、父親のところに行き、刺し殺したのである。それも暗がりの中で実行したのである。何かにとりつかれて犯行を犯したとしか思えない。もし、父親も、自分の娘に殺される予感がしたならば、何かしらの予防をうったはずである。それがないのであれば、突発的に何かに憑依されて殺人を実行したということになる。
ふと、感じる。このままの状態が続けば、いずれ、社会はパンクするはずである。無秩序にエネルギーを放出していけば、激しいノイズの場で、地球は覆われ、その中でうごめく人の心も、無秩序に乱れ狂うはずである。確かに、PC(パーソナルコンピューター)が、出現してから、世界は変わった。それに、ネットワークがつながり、世界のひとつひとつのPCが連結された。それにより、世界はまた変わった。時のながれとその変化を視覚化すると、あきらかに、指数的に変化しているのが、感覚的にもわかる。去年の変化率がたとえば、2倍だとすれば、今年は4倍になるということである。もっと、長い年月で、地球を見ると、成長は、鼠算的には、行かない。どこかでパンクする。そうすると、この文明も、どこかでパンクすることが予想される。
少子高齢化と地球温暖化がすすむ。年金や高齢者医療制度の躓きで、日本の未来は、限りなく暗い、このままの状態でいけば、日本は、非常に不平等な社会になるはずである。それを打破するには、科学を使うしかないと感じる。有機物の人間を、無機物で構成される機械で、補うことしかない。人間と人間とが、対応すれば、そこに必ず、心と心の対立が生じる。紛争が絶えないのは、エゴとエゴがぶつかるからである。介護で問題になるのも、人間が人間を介護するから、そこに、利他と自利との葛藤が介護する人の心に生じるからである。誰でも、年はとりたくはない。しかし、誰もが、命の終末を迎える。脳細胞が消滅していき、誰もが最後には認知症になる。少子高齢化で、最高齢者を高齢者で介護することが予想される。社会の中の個々の絆は、時間とともに、ばらばらになる。形あるものが、ばらばらになるのと同じである。エントロピーの法則が働くからである。それが、時間軸に対して機能するからである。時の不可逆性は、マクロの大きさで生きる人間にとって、受け入れざるを得ない真理でもある。そう、人は、いつか、必ず、土に帰るのである。太古、滅亡していった生物がいる。それらは、自分たち以外のもの(ツール)を作ることができなかったからである。人間のすばらしさは、ツール(もの)を作り出すことができる点なのである。
人は、ものを作り出した。その基礎が科学である。物理や化学等の科学がそれを支えたのである。そして、いままでは、科学の進歩は人殺しのツールとして発展してきた。その最高峰にたつのが、原子爆弾である。本来は、科学の進歩は人殺しのツールであってはならないはずである。少子高齢化がすすみ、人は、自分の終末を自分で見つめることになる。残念ながら、これから、人は、孤独死にならざるをえない。一人ひとりが、自分の終末に自分で責任を持たなくてはならない時代が必ず到来する。そのとき、そばにいるのが、ロボットのはずである。人間が人間をいたわり介護する。美しい秩序があれば、そうであろう。しかし、介護ビジネスも基本的に、ビジネスであれば、営利を伴う。費用に対する効果でしかありえない。それを飛び越えて、心情的に介護することは、ビジネスとしてはありえない。子供が親を介護する。夫が妻を妻が夫を介護する。しかし、現実の場では、痛ましい介護疲れが出ている。認知症の子供や夫を親や妻が殺す。法律上は、殺人罪になってしまう。これから、ますますそういう時代が到来する。人が人であり、人の尊厳が守られ、人がその優しさに解き放たれ、美しい秩序がなりたつまで、残念ながら、時代は、この方向性に流れていく。認知症の夫や子供の命が尽きた。激しい寂しさと哀しさが起こる。しかし、残念ながら、心のどこかで、ほっとする気持ちが出るのもまた事実なのである。
たとえ、少年の心を分析しても、何かしらの答えなど出てこない。少年の動機は、「親にしかられ、嫌がらせしてやろうと思った」という単純なものである。14歳の中学生2年の少年である。すこし、感受性がつよいだけで、ごく普通の少年である。それが、ひとつのきっかけで、このような事件に発展してしまう。実に、恐ろしい時代になったものである。少年は、この時代の中で、この時代とともに生きてきた。この少年が物心ついたときは、携帯電話は当たり前、ネットも当たり前、日本経済や世界経済も市場経済の中、弱肉強食で生きてきた。ネットを見れば、モラルは崩壊し、少年が一番、関心を強く持つ性も、公開されている。有害サイトといえ、すこし気転のある少年なら、簡単にダウンロードし、CDに焼き付けているはずである。なまなましいリアルな映像が、みえるはずであるし、盗撮などの映像も簡単に見えてしまう。小学校の高学年から、友達の間で、今、大人たちが見ているAVなどを、見ているはずである。ネットの仮想の中では、すべてが、無秩序に重なっている。美しいものも、醜いものも、汚らしいもの、隠さなければならないもの、人間と人間社会のすべてが、無秩序に乱れて重なっているのである。現実の社会の中では、動かすのが難しい、犯罪を犯すのも、現実には難しい。しかし、仮想のネット社会の中では、殺人予告も、強迫も、現実社会で出来ないことが、簡単にできるのである。
そして、この便利になった時代が、昔は出来なかったことを、意外と簡単に出来るようにしてしまうのである。もし、この14歳の少年が20年前や30年前にタイムスリップしたなら、ほぼ間違いなく、バスジャックなどしないはずであり、できなかったはずである。なぜなら、もともとの動機それ自身が抑圧されて消滅するからである。親がしかったのは、この少年が好きになった女性に近づいたからである。どんな関係かは分からない。この女性の親が、学校に相談し、学校から、その少年の親にその件で連絡したからである。少年の親がどういうふうにしかったか分からない。それが、多情多感に動く少年に、犯罪の垣根を越えさせてしまったのである。14歳である。今は、情報が過多であり、成長もはやい、今の14歳であれば、昔の16?17歳ぐらいの肉体は持っているはずである。異性に関心を持つのは当然であり、ネットを開けば、すべてが丸見えである。そして、少年は、自分を自制することが出来なくなったはずである。
自我が目覚めているため、回りの目を気にする。昔は、秘めた思いは、なかなか告白などできない。好きになっても、その思いを伝えるには、手紙を書くか、電話をするかしかない、しかし、昔は、好きな女性の家に電話をしても、親が出てきて、取り次いでもらえない。自分の思いは手紙でしか、なりたたなかった。募る思いは、実ることがなかった。そして何かの機会で、手と手、体と体が触れ合う機会があった。その手や体の感触が、恋愛のひとつのエピローグとなったはずである。それが中学生か高校生であった。募る相手を抱きしめたい、募る相手と交じり合いたい、そう願う気持ちは、昔から変わらないはずである。実らない思いや性欲は、何かの形で昇華していったのである。そして、年齢があがり、社会的にも認められ、自分の行為に責任が持てる年齢になって、初めて、性の扉は自由に開いたのである。
教職という聖域に守られて、人は己のエゴを隠すことになる。これだけ、つぎからつぎへと口利きを利用して、教員になろうとする人がいるのかと思うと、我々が知らない教職という聖域は、どれだけ、世間と比べておいしいところなのか、ふと想像したくなる。子供たちが、初めて、大人と接するのは、たぶん、学校の先生が最初であろう。全員とはいわないが、すくなくとも、金でその地位を得た先生に教えられた生徒は、どんな影響をうけるのだろうか、果たして、先生の中で、胸を張って、俺は先生だ、私は先生だと、生徒の前で胸をはっていえる先生が、何人いるのだろうか。
そして、教育委員会、これも訳のわからない組織である。すべて、教職という聖域に守られて、その閉鎖社会のなかで、先生も成長する。外部との接触がなく、教員という立場で、生き抜くことになる。彼らは、先生である。学科を生徒に教えることもさることながら、どう生きたらいいのかという大命題も、彼らに教えなければならない。真剣になって、ぶつかってくる生徒をどう指導していくのだろうか、本来、もっと年配の人から人生を指導されなければならない立場の中途半場な若い先生が、どんな顔をして、生徒に、人生の指導をするのだろうか、私は、一度、彼らがどんな精神で、そんな気持ちで生徒とぶつかり、生徒に何を教えているのか、見たくなった。率直にそう感じる。
中には、真剣になって、色々な問題と取り組んでいる先生もいるだろう、しかし、それも、基本的に、その小さな教職という鳥かごの中で、それらを考えているに過ぎない。それは鳥かごの中での話である。外部から敵が襲っても、絶対に傷つかない立場である。公務員という立場、その守られた聖域のなかで、考えているにすぎない。生徒は、そこから、社会に出て行くのである。社会の荒波にもまれたことのない先生が、どうして、社会の荒波の中で、どう生きたらいいのかを教えることができるのであろうか。
生徒は、先生のことを信用していない。すくなくとも、中学校になれば、子供ながら世間をおぼろげながら理解するようになる。保身に走り、守られた鳥かごの中で、学習指導要領にそって、たんたんと教科を教える先生に対して、感受性の強い生徒なら、簡単にそこに嘘があることを見抜くはずである。だんだんと、先生の嘘が嘘と分かってくる。当然に、先生に対する抵抗や反抗が芽生えるはずである。いじめや差別がうまれるのは、先生が、いい加減だからである。先生が毅然たる態度をとらないからである。いや、とらないというよりも、とれないと分かっているから、いじめや差別が生まれるのである。先生のいうことを聞かない生徒は、感受性が強い子である。感受性が強いから、すこしの刺激でも、反応してしまうのである。それを受け止める器量が、今の先生にあるとは思えない。世間をしらず、ニートの不安定さも分からず、市場経済の弱肉強食のもとで、必死で家族を養うために働くサラリーマンの気持ちも分からず、先生になった人がどうして、規範からずれる生徒を救えるというのだろうか。
人間がいれば、必ず虚と実がある。表が虚で裏が実の場合もあれば、表が実で裏が虚の場合もある。虚とは、すなわち、仮想や理想世界をいい、実とは現実や収益性をさすこともある。音にまつわることでは、ビジネスでも学問でも芸術の世界でも、その分野は多岐にわたる。音楽とは、時間軸に対する音の変化であれば、風も音楽であるし、人の鼓動や人の足音も音楽になる。演奏、ボーカル、音楽制作、音響力学、音響心理学等、いろいろな分野で色々な人が仕事をしている。この世の市場経済の中で、それで生計を立て、生きることになる。
繁華街を歩けば、ストリートシンガーが、楽器を抱えて歌を歌っている。学校に行けば、キーボードやギターを抱えて、それなりの青春を謳歌する若者がいる。フリーのスタジオにいけば、たいてい、類似したファッションを着こなした、粋なおにいちゃんが、バンドを組んで、見果てぬ夢をおっている。みんな、音楽を楽しんで、今というその時間を生きている。うまい人もいれば、下手な人もいる。私が高校生の時代から、その風景は変わらない。毎年、はしかのように、ある時期、若者は、音楽に熱中し、一回しかない青春を謳歌している。ギター一本でやっている人、バンドを組んだ仲間たちが、青春定番の夢や恋愛や人生をつれづれにつづり、それにメロディーをのせ、歌っている。ある意味、万国共通の現象でもある。実に、美しい風景である。そして、普通は、誰でもが、それで食べていけたらと夢を見る。自分の中の限りない可能性を模索して、好きな音楽でやっていけたらと思う。ある程度、やっていれば、だれでもがそこそこうまくなる。バイオリンをやっている人、ビアノをやっている人、ギターをやっている人、ドラムをやっている人、大体、私の子供時代でもしゃれた友人は小学校からやっていた。
テレビをつければ、はやり歌が流れている。バンドを組んだ人たちも、それなりにかっこよく、映像化されている。曲が売れれば、印税がはいり、いい車にのり、豪邸にすみ、それなりの生活やそれなりのステイタスを受けている。それを若者たちは見ている。自分たちもそうなりたいと願い、必死でがんばる。差別化しなければ売れないと思い、自分たちの音楽観というものを自我の中で作ろうとする。俺たちの音楽とは、こういうものだと、若者が自我を主張するのと同じように、自分たちの音楽を作り出そうとする。何か特徴をだそうとして、あえて、外すこともある。歌い方も演奏も、だんだんと、スタンダードからはずれ、自己主張をしだす。ある意味、自然の流れなのである。だんだんと、それが、肥大化していき、趣味で楽しくやっていたことが、終いには、自分たちのすべてとなってしまう。それで、食べていけたら、こんな幸せはないのである。しかし、人生とはそんなに甘くはないのが、現実である。
彼らが夢みたテレビや舞台で活躍するひとは、ほんの一握りの人たちである。普通、作家でも画家でも歌手でも芸人でも、売れている人を100人あげろといわれたら、窮してしまう。オリコントップ100に入る人をあげてみろといわれても、全部はいえない。芸人でもそうである。バンドやボーカルで100人の名前など、普通の人はたぶん言えない。つまり、毎年、100組ぐらいの中に、いないと、それなりの収入を取ることなどできないということになる。
たぶん、君たちの年齢では、人生がなんであるか分からないはずである。それは、だれも分からない。しかし、自分の人生が確かにカウントダウンされだしたと感じ始めた頃、人生とはこんなものなのかと、悟り始める。それは、自分の中からではなく、向こうから語りかけてくるのである。人は、どこかで、死の淵をさまようときがある。病気になり、自分は死ぬんだなと思うときがある。たしかに、そのときも、向こうから何かを語りかけてくる。しかし、病気が治れば、その扉はしまり、向こうから語りかけてくることはない。自分の小さな自我の中で、自分以外の外の世界を詮索することになる。だから、分からない。大人が無数にいる社会というものも分からないし、その中で棲息しうごめく人の深層心理も分かるはずがない。それは、私にもわからないし、誰にもわからない。人は分かったふりをするだけである。そして、向こうから語り始めたこの世のあり方と比較して、人生とはこんなものなのかとどこかで感じるだけである。
リクルート就職活動をしている学生は、未来をつかもうと、前に行こうとする。学校で学ぶことなどは、ほんの一部分でしかない。学校で学んだことを社会で活かそうと思うと、後、最低でも5年は掛る。なぜなら、社会には、階級があるからである。自分のやりたいことをやろうと思えば、それなりの実績と信用がいるからである。すべては、能力ではなく、実績と信用がものをいうからである。はっきりという、人間の能力など、ほとんど差はない、やる気と気転があれば、工業高校を卒業したものを、企業でみっちり2年間、教育を受けさせれば、有名な大学の大学院を卒業した人と同等以上の能力を発揮されることができるのである。もちろん、人間性に優れた能力のある指導官が企業にいればの話である。しかし、それを実践している大手の企業もあるのもまた事実である。自分は、出来る、自分には能力がある、自分は有名な大学を出て、それなりにがんばったんだというプライドの高い人は、企業に入れば、必ず打たれる。なぜなら、企業には、それなりに出来る人はうじゃうじゃいるからである。会社に、必要なのは、結果である。学位が取れるような内容であっても、それが、学術的な評価を受けようと、それ自身には、企業的な価値はない。それは、あくまで、売れるためのツールでしかない。化粧品を売るのに、有名な女優を使うのは、その女優さえも使っているという錯覚を与え、その化粧品の差別化を狙っているにすぎない。化粧品の内容がどんなにすばらしくても、それが売れなければ、話にならない。企業活動とは、商業化なのである。それが嫌なら、公務員か、大学の研究室に残るべきである。
就職を斡旋する会社も、営利団体である。口利き屋である。それは、企業であるから、しかたがない。一番、大切なのは、信用と実績である。だから、有名な大学を卒業したものや、誰かの紹介(コネ)をもってきた人をある程度優先して採用するのである。なぜなら、企業は、学生の裏にいる人となにかしらのパイプを持ちたいからである。何故、それが通用するかは、企業は、学生に能力の差を認めていないからである。それが実態なのである。しかし、それがすべてではない。
人には、絶対言ってはいけないことがある。心の中で思っていても、それが言葉としてでれば、それが一人歩きする。殺人を心の中で思っていても、それを実行したらどうなるかというのと同じである。自民党の加藤紘一元幹事長が、どんな真意があったのかわからないが、「拉致被害者5人を北朝鮮に返すべきだった」と発言したと報じられている。非公式に、友人との酒を飲んだたわごとであれば、えっと、聞き流すことができるかもしれないが、それでも、本気でそう思っているのなら、これはとんでもないことだといわざるをえない。
色々な考え方があるだろう、北朝鮮という独裁政治国家体制である。もちろん、北朝鮮に行ったこともなければ、詳しい北朝鮮事情も知らない。ごく一般的な日本人として、北朝鮮関連の報道を見たり拉致に関する特別番組をみたり、新聞等で関連記事を読んでいる程度のことしかしらない。だから、北朝鮮と日本とがどんな関係か、水面下でどう動いているか等の裏事情もしらない。しかし、アメリカが北朝鮮に対してテロ国家指定解除措置をとろうとしているこの時期、加藤紘一元幹事長が、とんでもないことを発言するには、それなりの裏事情があるのかもしれない。
拉致被害者の心情は、ただひとつである。拉致した被害者全員を即刻、帰せである。そして、その国家的な犯罪に対して、謝罪と処罰と賠償をしろである。「めぐみちゃん」を返せなのである。それが実現できるなら、後はどうでもいいことなのである。政治がどうの、経済がどうの、軍事がどうの、どうでもいいはずである。願いはたった、ひとつである。「めぐみちゃん」をかえせ、それしかないのである。めぐみちゃんは、ひとつの拉致された人全員の象徴である。めぐみちゃんをかえせというのは、拉致した被害者全員をかえせ、ということなのである。
自分の子供が拉致されたら、普通は、だれでも、取り返そうとする。警察は、めぐみちゃんが北朝鮮の工作員に拉致されていた可能性が高いと判断していた。横田夫妻にも、それが分かっていた。しかし、国家間の壁があったために、どうすることも出来なかった。親として、"どうしているの、元気なの、寂しくないの、大丈夫"、そう、毎日、問いかけていたはずである。その消息もわからない、しかし、北朝鮮も完全に鎖国政策をとっていたわけではない、どこかからか、拉致された人の情報は、不確定的ながらも、入っていたはずである。政治家や、一部の人たちは、拉致された人の心情論で、国家間の折衝を動かすことはよくないという人がいる。しかし、世の中を動かすのは、やはり人の心でしかないのである。もし、日本が同じことをやったとしたら、日本は断罪されてしかるべきである。
私は、意外とテレビを見る。本も読むし、色々なものに目を通す。やることは結構あるし、この一連の美粒ブログも、大体2時間ぐらいで書き上げる。一年も続けていれば、瞬間的にどういう構造にし、どうすればいいかなど、ひらめくものだ。時間を掛ければいいものが出来るかなど、わからない。じっくりと、調べて客観的な事実を基にして何かを創作する場合、その検索する時間に労力を使ったものである。それを並べてしまえれば、後は、人間の脳が、短時間で処理してしまう。経験と柔軟性と訓練次第で、人間の脳は恐ろしい能力を示すものである。
デジタル家電の普及とインターネット(高速情報処理)が、ライフスタイルを大幅に変えたのである。私は、見たいテレビはリアルタイムではみない。必ず、ビデオにとっている。今は、ハードディスクがあるため、ハードとDVDを兼用して、同じ時間帯のものでも別々に録画できる。当然に、邪魔なコマーシャルなど、スキップさせてしまう。これが実態である。よほど、テレビコマーシャル、それ自身に人をひきつけるコンテンツがなければ、それをみない。しかし、それも数回みれば飽きてしまう。企業側からみれば、多額な金額をかけてテレビCMを流したところで、その費用対効果が見えてこない。見てもらえないのであれば、意味がない。これは何を意味しているかといえば、スポットCMの収入が落ちているのは、その費用が高い、費用対効果から見る需要と供給のバランスが崩れていることなのである。それは、テレビ業界と広告代理店との関係が崩壊していることを意味している。広告代理店は、自分たちの生き残りを掛けて、いろいろなメディアとの連携を模索する。民間のテレビ業界は、許認可性の上に成り立ち、ある程度の縛りがある。しかし、広告代理店には、その縛りがない。あくまで利益を追求する民間の営利団体である。企業側にとって、テレビに広告媒体としての価値があったのは、CMがリアルタイムで流されるからである。多くの視聴率をもつ番組の途中でながされるCMを半ば強制的に見せ付けることができたからである。視聴率とリアルタイム、それが、重要なキーワードだったのである。
テレビ業界の収入源は、広告である。金がなくなる。いい番組が作れない。予算が削られるからである。ますます、見なくなる。そして、デジタル家電の普及である。2011年の7月には、地上デジタル放送がまっている。テレビがパソコン化する。ますます、録画化が加速する。CMをスキップする機能まで、今のデジタル家電にはついている。確かに、テレビをつければ、類似した番組しかない。チャンネルを変えれば、同じ人があちこちにでている。コメンテーターも、同じ人たちである。今の時代は、直ぐにあきられてしまうのである。Aさんが、何回も出演していれば、その人が何をいうか、予想がついてしまうのである。その人に人間的な深みが感じられなければ、共鳴したいと思わないのである。共鳴がなければ、直ぐに飽きられてしまう。これが原則である。
ホリエモンがラジオ会社とテレビ会社を買収しようとした。ホリエモンは、自分の欲望(エゴ)を隠して、性急に本丸にいったために、挫折したが、もし、合法的にライフドアーを大きくし、合法的に、自分の目的を、実現するために、事業を拡大していたら、彼は、うまくいった可能性があるのである。彼が考えたことは正しい、しかし、それを実現するために行ったアクションに問題があっただけである。逆に、考えたことは正しいが、それを実現するためのトップとしての人間性が未熟だったのである。本丸を攻めるなら、外堀を埋める作業が必要だった。徳川家康が、豊臣家を崩壊させたのは、大阪城を攻めたからである。それも、冬と夏に分けて、実際の外堀の水を土で埋めて堀をなくさせたのである。その後、攻め込んだのである。
社会が高度のネット社会になるということは、人と人との相互作用を介すことなく、目的を達することをいう。基本的に、人と人とは、一対一の対応が原則であった。電話であれば、話し手と受け手が、ひとつのラインでつながる。何かやってもらうのも、人を介す場合には、その人に、自分の思いを伝える必要があったし、そして、正確に分かり合える必要があった。今でも、社会や組織や会社は、そのコミュニュケーションでなりたっている。それと、同時に、PCと通信技術の発達により、世界は、ネットでつながってしまった。デジタル化されるものは、すべて、圧縮暗号化され、仮想の量子的空間に収納されてしまった。音楽も文学も絵画も映画も、情報は目に見えぬ電磁波の重なりとなり、世界の中を飛び回っている。ラジオやテレビであれば、その周波数に受信体をあわせて、増幅すれば、それが、聞こえるし見える。同じように、PCを開いて、相手のセキュリティをパスワードで開ければ、世界のどこでも入っていける。それが、高等技術でもなく、すこし、頭のするどい子供であれば、小学生でも、仮想空間でいたずらが出来てしまうほど、簡単になったのである。どうも、社会は恐ろしいパンドラの箱を開けてしまったらしい。ネット社会の構造は、単純で簡単である。それは、便利になったし、世界がひとつになるという点ではいいことである。しかし、ひとつ、そこに盲点があった。それは、人間の深層心理も重なるということである。ネット上で、人間の深層心理がうねりのように重なり、予想不能な反応として表層化するからである。人の心も裏と表がある。いい面もあれば、恐ろしい面もある。乱れず、穏やかな感情の波に乗っていれば、人を慈しめるし、乱れて、荒波の感情の波に乗れば、人を殺せるのである。平和時には、人を殺せないが、戦争時には、人を殺せるのである。
人の心は、不確定的な動きをする。ロボットのようには動かない。人の動きも確率的な動きなのである。だから、統計がなりたつ。マーケット調査はある程度あたるし、選挙の出口調査もそこそこ高い確率で結果が予想できるのである。テレビで、CMをみたとしよう、誰があんなものを買う人がいるのかと、自分が思っても、世の中には、そう思わない人も結構いるのである。N数、それを見ている人の数が少なければ、ばらばらである。しかし、それが多くなってくれば、ひとつの確率分布に近づくのである。正規分布になるのである。それが中心極限定理の基礎である。自分はそうは思わない。しかし、自分もひとつの全体の一個でしかない。自分の意思も全体の中に埋没するのである。どのくらい売れるかわからない、それは、その商品の価格と品質と需要で決まる。恐ろしいことだが、全体が多くなれば、そこに恐ろしいひとつの意思がでてくるのである。だから、今顕在化している事件や事由をみれば、それは膨大な数がそろった人間の意志として、出てきているのである。
世界の原油や穀物の価格が上がっている。いろんな投機グループや個人も含めてそれに便乗して利益をむさぼろうとしている。それをやっている人間は、無機質な人たちである。たぶん、ひとりひとりは善良な人たちであろう、アメリカ人であれば、毎週、教会にいき、神の教えを聞いている人だろう、しかし、ひとたび、コンピュータールームに入れば、その仮想の弱肉強食の幻想の中に身を置く。まさしく、そこは、戦場である。実際に人は殺さないが、投機の仮想の中では、殺し合いをやっている。原油が上がれば、穀物があがれば、どうなるか、世界の中で、困る人が多くいる。その結果、貧しい国々の人々は飢えてしんでいる。自分の選択で、人が死んでいるとは考えていない。キリストの愛の話を聞き、チャリティの精神を聞き、神の前に懺悔した人も、その無機質の戦場では、自分を殺している。ただ、目的はひとつ、マネーゲームを制することである。儲けることが、彼らの正義なのである。
自分を自分で理解することは難しい。個人でも家族でも企業でも地域でも国家でも、それ自身で自分が何であるのか分からない。他人から見て、初めてなるほどと分かるものである。鏡で自分の姿を写す。自分が映っているが、鏡の中の自分と己とは違う。左と右が逆転する。自分は右手を動かす。鏡の中の自分は、左手が動く。同じではない。自分の声を自分の耳で聞く。それと、自分の声を高性能のマイクで録音して、聞いてみる。他の人は、その人の声と、録音機のスピーカーから発するその人の声と、同じという。しかし、自分では同じとは普通は思えない。自分は自分を理解できないのが、やはり正しいのである。国家も同じである。それぞれが、自国のエゴを主張する。自国民の利益を最優先するからである。だから、CO2の削減の長期目標は、合意できても、その中間点の数値目標を中国やインドが同意するはずがない。もし、同意できたら、何かしらの抜け穴が存在している。
温室効果ガスの排出量は、決まっている。今のまま放出し続ければ、温暖化はすすむのは間違いない。余分なエネルギーが無駄に排出しつづけ、それが、宇宙に放出されなければ、地球内部にたまるのは、当然である。現実に、地球全体の平均気温は上昇している。もちろん、エネルギーを排出しているのは、人間、そのものでもある。人口が増加すれば、それだけ、エネルギーが多く出るのは当然である。日本は少子化で、人口が減少していくが、発展途上国は、依然増加するはずである。命あるものは、命あるものとして尊重していく必要がある。なら、何かで、共存共栄を考える必要がある。
未来のどこかで、すべては飽和する。どこかで、市場経済は、飽和して、終焉する。世の中は、エネルギーが高いところと低いところがあれば、必ず均質化する方向へ動く。宇宙は、そういうふうにエネルギーを下げるように、膨張している。いつか、この宇宙にも終わりがくる。それと同じように、格差が拡大していれば、そのもてる人は、自分の内部にエネルギーをためて、そして、自爆する。それが世の中の仕組みである。バブルは、必ず崩壊する。石油や穀物の先物相場は、どこかで、崩壊する。暴動が起きるはずである。秩序が乱れて、パニックになる。
日本が、CO2削減で、大きな声を出して主張できるのは、日本に、エコロジー技術があるからである。逆に言えば、無駄なエネルギーを使わず、有効利用できる国だからである。しかし、中国やインドその他の工業化した発展途上国には、それだけの余裕はない。内部に巨大な格差と貧困をもっているため、なんとしても、経済成長を遂げる必要がある。エコロジー対策に投資できる体力はない。日本がいくら技術支援をしても、それに目を向けられるだけの余裕はない。いまは、安くていいものを、出来るだけ多く作り、労働市場を上げなければならない。全部の国がそうなれば、それで、世界の成長は終わる。市場経済の命はそこまでである。飽和したからである。
人は、自分のことを最優先にする。自分の食べ物を人に与え、その結果、自分が餓死したら、人はなんというだろうか、それを美談だといえるだろうか。その人は、自分の信念を貫いたからそれでいいだろう、しかし、その家族はどうなるのだろうか、自分の食べ物を人に与える人はいないことはない、しかも、その結果自分が餓死するまで与えることをする人はもっといない。その人が死んだら、その人から食べ物をもらっていた人も直ぐに餓死する。それが現実である。