不安定な少年少女の心、17歳の少年が奈良で父親を斧で殺害
情報が開示されやすくなったためだろうか、それとも、潜在的にこのような事件の芽が世の中にはあり、それが、飽食家の内臓に多発するポリープのように、表面に出てくるようになったのであろうか、それにしても、父親を殺害した少年の心は、あまりにも、激しすぎる。そこまで、自分を追い込まなければならなかった少年の心は、いったいどこから来たのだろうか。きっと、孤独だったのである。表面上、付き合っていた友人はいただろうが、それも、はかない線で結ばれていた関係だったのであろう。彼の内面まで、土足であえて入り込み、その閉ざされた心の扉を押し上げ、その捻じ曲がった心を強引にでも、変えることが出来る人がいなかったのだろう。社会はそういうことが出来る人をもとめているはずである。そのときがきたように感じる。戦後の浮かれた教育と社会のひずみが現れだしたようである。ひっぱたいても、殴り倒してでも、矯正してやらなければ、閉ざされた少年や少女を社会の中で、生き返らせることは出来ない時代になったようである。
無職の17歳の少年は、自分の人生に何を見たのだろうか、殺された会社員の父(51歳)と次男(15歳)との三人家族だそうである。その状況の中で、自分の不満を父親にぶつけたのである。一時の感情の乱れに対して、自分を抑圧する力を失ったのである。秋葉原の犯人もそうである。殺人を犯す人は、みんなそうである。凶器を出して威嚇する段階、凶器を出して、接触させるだけの段階(きりつけること)、凶器で軽くさす段階(致命傷にはならない)、凶器を力いっぱい突き刺す段階、最終段階まで、今は見境もなく一気にいってしまうのである。そこまで、十秒である。爆発すれば、ためらわず、一気に加速して、力を入れて、殺してしまうのである。たった、数秒の分岐点なのである。それで、すべてが、おわってしまう。被害者も加害者も、それで終わってしまうのである。
時々、朝、幼稚園児が手をつないで歩く姿を見る。黄色い帽子をかぶり、幼稚園の制服を着て、水筒をもって、仲良く歩いている。その光景は、何十年前からほとんど変わらない。自分も園児のとき、そうであったし、自分の子供もおなじ格好をしていた。先生に引率されて、きょろきょろしながら歩いている。誰もが、似たような経験をしているはずである。そう、それから、小学校へ行き、中学校へいき、高校へいく。たった10年の変化に対して、人は大きく変わるのである。成人後の10年など、差はない。30歳と40歳の差は、個人差の範囲に含まれる。すべてが、自意識を持ち始め、自分と他人を区別しだしたときから、始まる。幼稚園児が、十数年後、自分の父親を殺すと考えていただろうか、それを予測することができたであろうか、行動を起こすのは、己の意思である。しかし、実際に己の意思など、どこにもない。あるようでいて、ない。そもそも、自分という自意識も突き詰めれば、どこにあるのかなど定かではない。それは、単に記憶があるから、そして、今を意識するから、そこに連続的な自分がいるように錯覚するだけである。
人は、共時共有制があるから、生きれるのである。共時とは、同じ時間を共有している感情である。そして共有とは、おなじ空間を共有している感情である。だから、中学校までは、なんとかその共時共有制をもとに生きれるのである。なにかあっても、近くにだれだれさんがいるのである。小学校からともに歩いてきただれだれさんがいるのである。そこに連帯が錯覚の上に成り立つのである。しかし、それが、錯覚と分かるのは、高校からである。進路がばらばらになるからである。それぞれが、一人の個体として、生きざるを得ないからである。不安定になるのは、共時共有制が崩れるからである。そして、自意識が強く出てくるからである。そこにコンプレックスが入り込んでくる。自分を閉ざし、結果的に自分を自分で苦しめることになるからである。やり場のない心の動きをどう発散していいか分からない。自分を孤独の中に閉ざした以上、そのうちからのエネルギーをどう処理していいか分からなくなる。
連帯も錯覚、しかし、錯覚だから錯覚のままそれを真実かのように見なければならないのである。真実は隠すことも必要なのである。夢があるから、未来に対して生きることができるのである。将来になんの希望もなく、このままの孤独で苦しい生活がつづくと感じれば、人は生きることを停止する。自殺する人は、将来に希望がもてないからである。そして、現実の疲れがピークになるからである。
死をおそれたら、何も出来ない。死んでもいいと思ったら、どんなことでもできるはずである。最後、だめだったら、死んだらいいと思って開き直れば、どんなことでもできるはずである。できないのではない、やらないからである。もはや、個人の尊厳とか、自由とかいっていられる時代ではない。逆に、激しい差別が生まれている。落ちこぼれがうまれるという。しかし、落ちこぼれているのではなく、おちこぼれを放置しているのである。なぜなら、面倒くさいからである。関ることが嫌だからである。それを、個人の尊厳、プライバシー、いろんな美辞麗句の官僚的な言葉を使い、逃げているだけである。面倒くさいことを、避けているだけである。少年少女の前にいるのは、教師と警察だけである。本来は親がしなければならない仕事だが、それを避けている。なら、教師と警官は、少年や少女の内面まで、ずかずかと入り込み、彼らの悩みに対峙すべきである。それだけの権限を彼らに与えるべきである。もちろん、ろくでもない破廉恥な教師や警官もいる。それはそれを監督している人がろくでもないからである。そういう人は、組織から追い出せばいいはずである。
もし、だれかが、この無職の17歳の少年の心の中に入り込み、その捻じ曲がった心を叩きのめしていたら、この少年も救われたはずである。そして、その父親も殺されなかったはずである。これからも、このような事件はつづくし、自殺者も止まらない。あつかましくても、嫌がっても、彼らの心の中に入り込む必要がある。どんな権限があってそこまでやるのかという人が出てくる。たぶん、いうはずである。実際にそういう人達が今のこの社会を作ったのであるから。
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