サラリーマン人生においての役つくり、仕事つくりとは、

 世の中が、漆黒のひとつの闇であれば、その中にはなにもない。すべてが、闇の中に溶けていれば、何も生じない。コッブの中に、純水をいれる。不純物のないものとする。もちろん、その中には気体が溶けているが、それはないものとする。もし、世の中が、ひとつの純水であるならば、何も変化はない。しかし、現実には、色んな不純物がある。物が混じっている。そのたくさんある物のひとつひとつとその水とは交じり合っている。物の表面は水と接している。つまり、界面を持っていることになる。

 

 人も同じである。社会という空間の中に、たくさんの人がいる。ひとりひとりは、社会という空間に対して界面をもつことになる。もちろん、社会の中には、エネルギーが満ちている。無秩序なノイズもあるし、穏やかなゆらぎもある。また、人は弱い存在である。己の心をそのままの状態で、社会と接すれば、その界面は、社会から力を受ける。車のタイヤと同じである。世の中に、己ひとりだけが存在すれば、己ひとり、唯我独尊的にあるがままでいい。何もしなくていい。しかし、ひとり、ふたり、それぞれが、それぞれのエゴをもった存在として、社会の中にいれば、そこに、それぞれのエゴの対立が生じる。そこに力学関係が存在する。昔の民族間の対立、宗教観の対立、いざこざの根っこはここから生じている。そのために、人は社会と接する己の界面を強くするか、力を受けても、吸収するような弾力性を持つように努める。自己防御が働くからである。その界面の膜をもつこと、それが、社会的な役つくりになるのである。

 

 役者と基本的に同じである。おとなしくて、人のいい人が、映画で悪人を演じる場合、映画というひとつの仮想の社会の中で、役者は、役柄という仮面をつけることになる。それを演じなければならない。もし、それが出来なければ、その役から降ろされることになる。清純な女優が、濡れ役に抜擢されることもある。女優は、それを受けたら、その濡れ役を演じなければならない。それは、その映画の仮想の社会の中で、濡れ役の女優はひとつの個として扱われることになる。そこに、濡れ役の個と映画の世界の中での界面を持つことになるからである。現実の内面はそうではない。しかし、人に接する役としては、娼婦にならなければならない。それは普通できない。それが出来る女優だからそれなりの価値をもつ。

 

 基本的に、仕事づくりも同じことである。自分の素の性格をそのままだしてもいいのは、その素の性質が、そのまま価値を持つ場合である。その人のあるがままの個性が、ある価値をもち、しかも、それで評価されれば、何も役づくりをする必要もない。適材適所に人が配置されて、その人の素がそのまま表現できる場であり、しかもその素がそのまま評価につながれば、その人にとってこれ以上の幸せはないはずである。

 

 しかし、世の中、それほど、あまくないのが現実である。だれでもが、楽な生活をしたいと思うし、お金もちになりたいと思うし、楽しく愉快に生きれたらいいと思う。もちろん、人によって、大金持ちの家に生まれ、楽な生活を送る人もいるかもしれない。逆に、天涯の孤児として、貧困な境遇を強いられる人もいるかもしれない。もちろん、大金持ちの家に生まれても、どん底に落ちて寂しい末路を迎える人もいれば、貧困から立ち上がり、栄華を極める人もいる。しかし、平均的に今の実情をみれば、ほとんどの人がそこそこの大学を出て、そこそこの所に就職して、そこそこの人と結婚し、そこそこの家庭をつくり、そこそこのところまでいく。それが俗にサラリーマン人生である。

 

 もちろん、その平均したところから外れて生きる人もいる。サラリーマンではない人達である。うまくいけば、その平均より上に行き、わるくいけば、その平均より下に行く場合もある。いずれにしても、社会の中で、収入を得ようとすれば、多くの人の中にまじって、それぞれの人の界面と接触し、生きていかなければならない。そして、うまく相互作用をさせて、自分を評価してもらわなければならない。そのためには、結果をしめさなければならない。まさしく、役者の役作りと同じことをする必要がある。自分が置かれた立場、会社の中での自分の位置、どのような職種なのか、何をもって、自分は、評価されるのかである。自分のビジョンを持たず、上から言われたことを、そのまま下に伝達するだけであれば、それは課長や部長ではない。いずれ、その地位は失われる。ビジョンをもち、それを実現するために、努力し、結果を残せてはじめて、その地位が確保されるのである。

 

 役が作れるのは、芯がしっかりしているからである。積極的に他人とかかわり、自分の意見を言うことができ、しかも、自分が間違っていたら素直に反省し矯正できるから、他人から評価をうけるのである。どの職場になっても、それがあれば、その職種にあった役作りはできるはずである。営業であれば、営業ができ、管理にいけば、管理ができ、人事にいけば、人事ができる。そういう人であれば、当然にその会社の役員の仕事も出来ると上は考える。

 

 だれでもが、自分の素のまま、生きれたらいいと思う。それが出来るには、それなりの苦労が必要である。それは、組織の中の個の能力ではなく、個人単独の力量と能力が問われるからである。それは非サラリーマン的な生き方になる。それが出来る人はその道を歩んだらいい。それは大変な道である。脱サラをしてうまく行く人は、あまりいないのが現状である。なぜなら、組織の中の個の能力を己一人の単独の能力と錯覚するからである。サラリーマンなら、自分が置かれた立場での役つくりを考えるべきである。平均化された人の集合である。どれだけ、人と協調し、しかも、いかに己の個を目立たせて、しかも、仕事としての成果を導き出せるかである。組織の中の個の能力をどのように発揮させるかである。サラリーマン人生の役づくりと非サラリーマン人生の役つくりとは、少し違うのである。ノーリスク、ノーリターンとハイリスク、ハイリターンの差はあるし、世の中、ノーリスク、ハイリターンなど万にひとつぐらいしかないのが世の中である。

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このページは、中野満が2008年6月25日 13:21に書いたブログ記事です。

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