2008年5月アーカイブ

 人は、必ずミスをする。では、機械はミスをしないか、機械もミスをする。なぜなら、磨耗するからである。新品の車は快調に動く。しかし、走行距離が多くなれば、どこかに、ひずみをもち、調子がわるくなる。コンピューターもミスをする。そう、神さまもミスをするのである。ミスがないとは、1+1=2が100%成り立つことである。インプットとアウトプットが、必ず、何かの相関がなりたつことである。10に2を足せば、12になり、10に2を掛ければ20になる。当たり前だが、何かの拍子に、13になったり、30になったりする。人がやれば、計算ミスといい、パソコンが、それをしたら、人は、何かの条件が偶然に重なると、そういう計算ミスがおこる可能性があるというバグを考える。修正プログラムがでる。

 

 何故、人はミスをおかすのか、それこそ、人という個体差があるからである。田中さんと鈴木さんと佐藤さんがいたとする。田中さんが見る世界は、常に、田中さんの五感を通して得た情報を元にして、作られる。同じく、鈴木さんも佐藤さんもそうである。同じ人間でも、すこしづつ違う。臓器の大きさも能力も違う、人はそれを才能という。誰でもが、同じ訓練をしても、オリンピックで金メダルをとれる運動能力を発揮できるとは限らない。同じ事を教えても、ノーベル賞を取れるような発明や発見をできるとは限らない。それと、田中さんが感じる世界と鈴木さんが感じる世界と佐藤さんが感じる世界が、たとえ、同じインプットをしても、そのアウトプットの違いにより、異なる場合がある。厳密に言えば、十人十色である。全部違うはずである。だから、田中さんは、鈴木さんが見える世界、感じる世界がどんなものであるか分かるはずがない。人のことは、厳密に言えばわからない。

 

 田中さんは、鈴木さんという人を、田中さんが見えるように見ている。たとえ、鈴木さんがそれと違っても、田中さんにとって、鈴木さんとは、田中さんが見えたそのままの姿なのである。田中さんにとって、鈴木さんが、とても嫌な奴だったら、鈴木さんは、嫌なやつなのであり、逆に、佐藤さんにとって、鈴木さんが、とてもすばらしい人と写ったら、鈴木さんはとてもすばらしい人なのである。

 

 そう、鈴木さんが、俺はそんな男ではないといっても、田中さんが、そう思ったら、田中さんにとっては、そういう人なのである。鈴木さんにとっても、そういう人なのである。人によって、評価が分かれるのは、基本的に、すべてが主観によって判断されるからである。だから、100人いれば、100人全員がいいということは、まれである。50%以上の人がいい人だと感じれば、いい人だというのである。世の中は、まさか、あの人がというのは、その人の中味が、外部の人にはわからないからである。

 私の右手には、いつも般若心経が彫られている念誦がつけられている。私は、特定の宗教団体に属しているわけではないし、特定の宗教に帰依しているものではない。ごく、普通の人間である。ユダヤ人と付き合って、色々とユダヤ教の考え方も聞いたし、ユダヤ人の技術者を日本によんで、一緒に仕事をしたこともある。その人がユダヤ教に帰依していたので、ユダヤ教の戒律がどんなものであったか、目の当たりにしたことがある。もちろん、アメリカで、キリスト教に帰依している技術者ともいっしょに仕事をしたこともある。キリスト教が彼らの生活や人生観とどう関っているか、勉強することもできた。彼らが、日本に来たときは、京都や奈良に連れて行き、日本の文化を体感させたこともある。もちろん、個人的には、色々な宗派の寺院や神社にまわって、その教えの本質を感じたこともある。

 

 しかし、個人的には、いや、日本人として生まれた私には、どうしても、宗教には違和感があった。宗教とは、ひとつの文学だと感じた。だから、物理的な世の中の成り立ちを理解したほうが、大局がつかめると感じた。出発点は、やはり、ビックバーンにあった。時間を逆流していくと、低エネルギーから高エネルギーの場へとたどり着く。膨張の場から収縮の場へとつながる。なぜか、わからないが、エネルギー保存則がある。それは、この宇宙がひとつの閉じられた系であることを示唆する。そうすると、誰でもが、この宇宙の始まりを考える。なぜか、わからないが、突然、何かのきっかけで、ビックバーンがおき、ボーンとこの世がうまれたことになる。超高温、超高圧の場であったはずである。その力で、この宇宙がひろがり、その圧力の力で、どんどん膨張していき、温度が冷えていった。その一瞬は、すべてが、溶けていた、この宇宙にあるすべてが、ひとつの融合体であったはずである。そして、その過程の中で、なぜか知らないが、ちょっとしたきっかけで、地球がうまれ、またちょっとしたきっかけで、人類が誕生して、訳のわからないことを考えるようになった。どの国の神話でも、始めは、混沌から始まっている。混沌とは、高温、高圧場の状態、(高エネルギーの場)である。

 

 私が知っている限り、目に見える事象、頭で考えた事象、この世のもの、すべてが、空であると、一刀両断に打ち消したものは、般若心経しかない。ある意味、人類に対しての大胆不敵な挑戦でもある。そして、般若心経は、多くの日本人にお経として毎日読まれている。その音を聞くにつれ、いったい、何人の日本人が、その経文に書かれた意味を理解して、読んでいるのか、分からなくなる。そんなことは、関係ないといえば、それまでである。それも、空であるといえば、それで終わりだからである。

 どのような理由か、分からないが、若い人の自殺はやはり止まらない。テレビに出ている若い人が、自殺したと聞くと、つらくなる。死を乗り越えられないどんな苦しみが、あったのだろうか、よく分からない。川田さんが最後に感じた人生風景は、いったいなんだったのだろうか。自殺は練炭をつかったようである。練炭を車の後部座席において点火し、内部から目張りをし、たぶん、強い睡眠薬とアルコールをつかって、意識を朦朧とさせたはずである。人に見つからなければ、九分九厘、一酸化酸素中毒で、死んでしまう。

 

 川田さんは、ある意味、成功した人である。TBSのアナウンサーも、普通では入れない。学歴や家柄、個人の性格、容姿、すべてを、チェックされる。キー局の女子のアナウンサーである。テレビのブラウン管で、その姿が映し出される。言葉遣い、立ち振る舞い、声の質の中に、個人の性格まで重なって、伝播される。だから、放送局は、慎重に、人を選んでいる。それを、通過してきた人である。しかも、フリーになっても、仕事があるひとである。放送局の看板を外しても、彼女に仕事がくるのであるから、テレビの内側にいる人たちからの信頼は、あったはずである。それでも、自殺する。どんな理由かはわからないが、彼女の使われていない未来までも、消去してしまった。ご冥福を祈るしか方法がない。

 

 これは、ある程度の連鎖を生むことになる。テレビに出ている著明人が、自殺をすれば、彼女に親近感をもっていて、死にたいと思っている人は、安心するはずである。仮想の道ずれが成立するからである。死への恐怖が薄れるからである。自殺を抑止する方法は、あの世への恐怖を意識させることでもある。自殺を考えている人は、この世で、これ以上、生きたくないと考えている人である。生きたくないとは、これ以上、感情を動かして、悩みたくないと感じている人だからである。感情をとめて、記憶を消し去るのは、自分をなくすことである。肉体と精神が、表裏一体と感じているから、感情を消すことと肉体を消すことが同じと錯覚している。自殺を止めるには、その肉体と精神が、一枚岩のようにくっついたところに、楔を打ち込んで、離してあげる必要がある。それは、その人個人と接触して、その内面に入りこむ必要がある。だから、カウンセリングは、有効である。しかし、自らカウンセリングに来て、救いを求めてくる人は、大丈夫である。誰かに、自殺を止めてもらいたいと心のどこかでそう思っているからである。

 

 自殺を決行するひとは、短絡的に実行する。なぜか、そのほうが、らくだからである。人は、何かをするときに、特別な意図や意思が働かない限り、その人にとって楽な方法をとる。自殺を決行するひとは、やはり、そうするのである。普通の人は、自殺しない。楽ではないからである。あの世の恐怖を取り除いて、死の準備をしなければならない。相当な試練や困難が待ち受けている。自らの意思で自らの力で、自らの命を絶つことは、難しいことなのである。だから、昔の武士が、腹をきって自害するには、それなりの自己の鍛錬が必要だった。だから、切腹が美化されたのは、切腹できるほど、自己の精神が研ぎ澄まされたことへの評価として、美化されたはずである。切腹を美化したのではなく、そこまで強く鍛錬したその精神力を褒め称えたのである。私はそう考える。

 物事には、ふたつの考え方がある。ひとつは、事象をひとつひとつ積み上げていって、その中から何かしらの結論を見つけ出す方法と、もうひとつは、何かしらの結論を先に想定し(感じて)、それに向かって、事象を構築していく方法である。普通のひとは、前者の方法を黙々とおこなう。どこへいくのか、分からない。しまいには、一体自分は何をやっているのかわからなくなる。多額な金額を投資して、企業は新しいものを開発しようとしている。大体、うまくいかない。そう、新しいものは、組織の中からは、出てこない。ひとりかふたりの天才型の人が、ぱっと、ひらめいて、それを見つけてしまう。世の中は、そういうものである。人は、地に足をつけてみんなとともに生きている。地の考え方で生きている。そこからでは、新しい発想はでてこない、もっと、自由性のある天からの啓示を受けなければ、創造性のある開発は出来ない。それができるひとは、少ない。なぜか、地の論理に縛られているからである。

 

 私には、将棋の才能がないが、将棋のプロは、ある程度、局面が動けばどのような形で最終的な詰み形になるか想定する。この局面からいって、どういうふうになっていくか、ひらめくのだそうである。そのイメージができたら、そこから、逆に手順をおっていく。その形にもっていくには、どうさしたらいいか、感じるのである。たぶん、考えるのではない、きっと、感じるのである。素人は、そんなふうには、指さない。目先の変化しかみない。この駒を動かせば、相手がこうさす、そして、数手数十手ぐらいで、頭がおかしくなる。だから、今のコンピューターの将棋ソフトには、かなわない。なぜなら、コンピューターは、記憶して、手を読んでいくからである。ひとつひとつ積み上げていっても、今のPCは、演算処理速度と記憶能力が、凡人以上にあるからである。考えること(ロジックをもとにして計算する能力)に関しては、人間は、コンピューターに勝てないからである。しかし、人間には感じる能力がある。コンピューターには、感じる能力がない。量子的な確率の世界で事象を演算する量子コンピューターができたとしても、感じる能力は、人間には及ばないはずである。

 

 天と地、それは、陰陽にもつながり、易の八卦の組み合わせにもなる。確かに、森羅万象はその組み合わせかもしれない。天とは、エネルギーの高い状態であり、方向性が決まっていない状態である。相転移の考え方でいえば、気体の状態である。気体は、目に見えない。水であれば、水素と酸素がばらばらに、この空気の中に、とけて、あっちにいったり、こっちにいったりしている状態である。だれも、こうだとはいえない。しかし、この空気のなかにあることは100%である。温度が冷えてくれば、水が出てくる。水が、空気の中からでてくる。雲である。細かい水の粒子の集合体である。それが、凝集して、重たくなって、雨となる。気温が下がれば、雪となる。雪の結晶をみることができる。そう、その結晶こそ、方向性なのである。磁石もそうだし、液晶もおなじ、その方向性をもつことで、ひとつの機能をもつのである。ただし、方向性をもつことは、限定されること、その機能に特定されることになる。だから、地なのである。

 子供のとき、東宝映画で、ゴジラの怪獣映画を見た。そのとき、大体、それとくっついて、加山雄三さんの若大将シリーズや、亡くなられたクレージィキャッツの植木等さん主演の無責任男シリーズが上映されていた。子供のとき、こんな面白い世界があるのか、植木等さんという人は、すごい人だと思った。強いインパクトが、私の中に残っている。だから、植木等さんの、"サラリーマンとは気楽な家業ときたもんだ"のフレーズが、時々、思い出される。映画の中の植木等さんは、確かに気楽で、すいすいすいと出世してしまう。失敗もするが、落ち込まず、まあ、いいか、つぎ、がんばっていこうと、気分を入れ替えていくのである。代替、無責任シリーズは、どのような場面であっても、トップまでのぼりつめ、その映画の中でのもっとも美しい人を射止めてしまうものである。痛快な映画だった。

 

 無責任シリーズの時代背景は、まさしく、高度成長なのである。東京オリンピック前後の話なのである。戦争で、すべてを失った日本が復興していく過程での話しである。もともと、日本には、戦艦大和、ゼロ戦などを作れる技術はあった。戦時中、日本でも、原子爆弾をつくる計画はあったし、実際に、研究されていた。ただ、物資がなかったために、核分裂を利用した兵器の実用化までいけなかった。だから、広島、長崎に原爆が落とされたとき、その状況からみて、すぐにそれが、原爆だとわかった。もう、勝てないと悟ったのである。

 

 だから、復興して、体力がついてくれば、日本の工業力が出てくるのは当然である。もともと能力があった国が、戦争で、全滅し、それが、元にもどっただけである。そして、世界が、自由になり、市場がふえれば、そこに需要がでてくるのも当たり前、だから、日本には、仕事が溢れていた。やる気さえ、あれば、何でもできた。町工場をつくっても、仕事がきたらから、ある意味、普通にやれば、町工場が中小企業になれたし、才覚があれば、町工場でも、上場会社になれた時代なのである。すべてが右肩あがり、銀行もちゃんと融資してくれたし、どの企業も当たり前に経営をし、日本の右肩上がりの成長と同期していれば、銀行がバックアップしてくれたのである。

 

 そして、年功序列、終身雇用制度、ある程度の会社であれば、定年まで、そして、その後の年金まで、きちんと面倒をみてくれたのである。だから、植木等さんが歌ったように、サラリーマンは気楽な家業ときたもんだ、が通用したのである。物をつくれば、売れる時代であったから、企業は人手が足りなくてしかたがなかった。民間のサラリーマンの方が、公務員よりも豊かな生活ができたのも事実である。

 

 しかし、今は、公務員とは気楽な家業ときたもんだ、とまだ歌える時代である。時代は、右肩上がりの幻想がはじけ、日本は、世界の中での競争原理のまっただなかに置かれてしまった。それと、情報化時代とネット時代、日本やアメリカが作り上げたデジタル技術が、情報の拡散を許してしまった。今までわからなかったものが、どこでもだれでも簡単に分かるようになった。

 

 橋下大阪府知事が、財政再建に向けて、職員の月給を16ー4%、退職金を10ー5%削減する案を職員組合の2団体に提示した。一人当たりの平均削減率は15%となり、国家公務員を100とした場合の基本給水準を表すラスピレス指数が89となり、都道府県で最低のレベルとなる。また、一般職の退職金カットに踏み込むのは、初めてである。

 

 間違いなく、組合側は猛反発するのは、必死である。もちろん、期間は限定され、今年の8月から2010年の年度末までである。つまり、2008年で、五ヶ月、2009年で、12ヶ月、2010年で12ヶ月、2011年で、3ヶ月、合計、32ヶ月間のカットである。08年度で、352億の削減であれば、8月から08年度末まで、8ヶ月、つまり、月、44億平均、大阪府の財政がすこしは良くなる。すべては税金である。それでも、32ヶ月分であれば、1408億円の削減でしかない。大阪府の借金は、5兆円である。焼け石に水でしかないが、それでも、しないよりはしたほうがよい。民間であれば、当に倒産であり、それだけの給料などもらえるわけがない。

 

 誰でも、給料が減らされると聞いて、はいそうですか、というわけにはいかない。色々な御託を並べて、反対するはずである。職員も、月々、定額の給料が入ることを計算にいれて、ローンや支出の計画を立てている。猛反発するのは、当然である。しかし、基本的に、彼らの収入源は、税金である。これから、間違いなく、全体的な税収入は減る。今は、府債発行で、その不足分を補っている。これにも限界がある。消費税を上げたり、増税すれば、世論の反発を招くことは必死である。消費は冷え、経済は不況へと向かい、結局、総額の税収入が減ることになる。

 

 いくら、猛反発しようが、これは、避けることができない選択肢である。人を削減することは、住民へのサービス低下につながるのであれば、人はそのままにして、一人当たりの支出を抑えるのは、小学校の生徒でも分かることである。もし、それが、不服なら、辞めたらいいのである。しかし、世の中、公務員ほど楽な仕事はない。利益を追求することがないため、与えられた仕事をこなせばいいだけである。そこに、相対的な仕事の質の優位性が評価されないため、やればいいのであって、すばらしくやる必要はないのである。絵を描くことが仕事であれば、小学生の絵でも、二科展入賞の絵でも、同じなのである。絵を描くこと、それ自身で給料をもらっているため、小学生程度の絵でも、入賞するほど芸術性の高い絵でも、絵を描くという仕事の内容は同じなのである。そこに仕事の質に対しての優位性の評価がないため、基本的に給料は同じになるからである。

 

 オーナー企業とは、発行株式の51%以上の株を所有している個人が、会社の経営の実権を握っている会社である。実権とは、会社の代表取締役を担っていることである。仮に、会社の代表取締役でないとしても、51%以上の株を所有している人の意向には、逆らえないことになる。ワンマン会社といっても過言ではない。いくら、組織があっても、その組織には、権力構造は発生しない。仮に、その発行株主の51%以上を所有している男性と男女の関係にある女性が、その会社にいれば、部長だろうが、取締役だろうが、専務だろうが、その女性に実質的に盾つくことはできない。なぜなら、そのオーナーと夜の密会で、人事の話をされれば、それで終わりだからである。まったく、江戸時代の大奥と同じである。将軍のお手つきとなれば、一気に、女帝となるからである。そのオーナーが、その女性に骨抜きされてしまえば、その女性は、社内から、副社長とうわさされることとなる。どこにでもある話である。

 

 オーナー企業は、将軍とおなじ、オーナー企業のトップの意向ですべてが決定される。いくら、組織があり、その中で、がんばっても、絶対にトップにはなれない。番頭でおわりである。オーナー企業が、オーナー企業として成長できるのは、ひとえに、そのトップの人間性だけである。その人間性に問題があれば、業績をのばしても、いつか必ず斜陽するし、二代目が、先代と同様の人間性を示さなければ、これまた、二代目で、会社がつぶれることになる。企業が大きくなれば、発行株式の51%以上の株を所有できなくなるし、委任状をもらっても、過半数は得られなくなる。相対的な筆頭個人株主と51%以上の株を所有している株主では、その権力は月とすっぽんの違いがある。

 

 パブリック会社とは、上場している会社とは限らない、個人の発行株が、全体の1/3未満であれば、その個人の株主は、株主の権限しか付加されない。1/3以上1/2未満であれば、特別議決を必要とする会社の決定事項に対して、反対する権利を有するため、それなりの力を有することができる。だから、株数をかき集めても、その議決権の総数が全体の1/3未満であれば、何もできないのと同じである。パブリック会社とは、ひとつ、ひとつの株主が、分散され、それぞれが、独立した意思をもっている企業をいうのである。もちろん、上場している会社であれば、株主構成は、株式市場で変動する。企業買収(TOB)は、分散されている、独立した意思をもっている個々の株主に対して、所有している株を売ってくださいと公募することである。そして、それが、51%以上取得できれば、その会社を子会社化できることになる。それが、個人であれば、その個人の会社になる。オーナー企業になることである。

 

 世の中、何でも、コスト削減の時代である。確かに、物を作るのは、結構しんどい話である。携帯電話を作るのも、パソコンを作るのも、車を作るのも、コピー機をつくるのも、テレビを作るのも、誰でも出来るものではない。身の回りにある、便利なもの、我々は、あたりまえのように使っているが、それを生み出すためには、それ相当の多くの先人たちの努力があって出来たものである。それが、文明とよばれているものである。

 

 そう、文明が発達し、人が、豊かになり、市場経済という実態のないわけの分からない場で、賭博とおなじように、"きったはった"の世界で、お金の出し入れをしている。それが、売買である。"売った、買った"の世界である。それが、需要のバランスで決まる。経済というのは、実に単純なモデルなのである。そして、その根底にあるのが、人間という集団の意思である。ある条件の下、多くの人がいれば、その多くの人たちの意思の傾向がその場に現れる。人間の根底は、エゴである。自分の欲望に対して、短絡的な傾向を示すのである。そのある条件が分かれば、その多くの人の集団の傾向が予測できる。それが、需要となる。だから、金を持っている人は、その需要となる品物を安く仕入れて抑えてしまう。そして、その条件が当たっていれば、しめしめ、儲けたことになる。水戸黄門にでてくる悪徳米問屋の話しである。それは、まったく、株式市場と同じなのである。株式も市場経済の代表格なので、おなじ性質をもつのは当然である。

 

 世の中には、確かに二つのタイプの人がいる。ひとつは、垂直的に考える人たちである。物事の本質を見極め、その原理を見つけ、新しいものを作り出そうとする人たちである。生産財を担当する人たちである。米や野菜をつくるのも同じである。物を作り出すためには、どうしたら、いいか、いいものを作り出すには、どうしたら、いいか、どうしたらいい商品を生み出せるか、それを研究、開発し、製造する人たちである。機械を作るのもそうだし、その機械を用いて、何かを生み出すのもそうだし、大地を利用して、食べ物をつくるのもそうである。つまり、何かを作り出すことが、好きな人達なのである。生み出すものが、物であることもあるし、ものでないこともある。それが、音楽や映像や詩や絵画でもありうる。垂直的な相対評価の中で、価値が生まれるのである。だれでも、絵はかける。だれでも詩は書ける。しかし、どれだけ垂直的に掘り下げしかも、スキールを磨き、いいものを作り上げたかで、その芸術性の価値が相対的に決まる。

 

 世の中には、それとことなり、水平的に考える人もいる。垂直的に考えた人のものをより多くの人に広めることを考える人たちである。いいものがあっても、それは普及しない。直物があっても、植物は、移動できない。花は美しく咲く、その美しい花を、世界に広げようとしても、その花は、自らの力ではどうすることもできない。だから、みつばちがいるのである。蝶がいるのである。鳥がいるのである。だから、花は美しく咲くのである。そこに蜜があることを昆虫や鳥に知らしめるのである。それで、花粉を広げるのである。相互補完が成り立っているからである。

 ネットで、大阪JR福島駅から天満駅まで120円、530キロの記事を見た。大都市近郊区間のみを利用する場合の特例があって、その範囲で、一筆がきで電車を利用するなら、乗車駅と降車駅の間の最短距離が、そのときの運賃となる制度である。昔から、その特例はあった。そう、私の子供のときから、それはあった。大阪環状線の福島から天満駅まで、確かに、120円である。近郊区間の範囲で、一筆がきであれば、確かに、和歌山から奈良、木津から草津、米原、近江塩津、それから、湖西線経由で京都にもどり、それから大阪に帰るものである。鉄道ファンなら、取り立てて、特記すべき記事ではない。昔から、電車に乗ることが好きな人なら、珍しいことではない。そう、私も小学生高学年から中学校の一年くらいまでの間、時刻表をくくりながら東京近郊区間をどうすれば、最長の一筆書きができるか、研究したものだった。そして、しばしば、それを実践したものだった。当時の近郊区間がどうであったか、忘れたが、相模線で茅ヶ崎までいき、そして東京へ、それから千葉を回って、高崎経由、八高線で中央線にもどってきた。そんな記憶がある。当時は、自動改札などなかったから、キセル乗車とみなされることを警戒した。だから、一筆書きが、出来るように、理論をたてなければならなかった。逆に言えば、それが面白かった。

 

 もちろん、もう、40年近く前の話である。新幹線も新大阪までしか延びていなかった時代である。151系、181系のこだま型が全盛時、あのブルーラインの581系、583系の電車寝台が、鉄道が好きな少年の憧れだった。中学生のとき、どうしても、乗りたくて、九州の親戚の家に遊びに行くのに、東京から新幹線で新大阪までいき、そして、581系のみどりに乗ったことを今でも鮮明に覚えている。当時、カラーテレビを持っている家も少なかった。車なども少なかった。昭和の40年代初期の時代である。漫画も少年マガジンや少年サンディーである。今と違って、パソコンもなく、携帯もなく、個人で楽しめるのは、ラジオぐらいであった。そう、中学時代だったとおもう、文化放送の深夜のパーソナリティが、作家の落合恵子さんや今テレビで活躍しているみのもんたさんであった。

 

 時代の速度が、これほどではなかった。それでも、竹村健一さんが、モーレツとかいう言葉を連発し、時代のさきがけとして、マルチタスク人間として脚光を浴びていた。まだ、パソコンなどもなく、8ビットのベーシックをやるのでも、すごい奴と思われていた。もちろん、少年には、科学に対する憧れがあった。今のように、英語と接する機会もなかった。中学校一年から、ABCを習う時代であった。知的好奇心のある少年は、PCのフォートラン言語を何とか分かろうと努力していた。それがかっこよく写っていた。それが、まだ見ぬ、自分たちの将来の夢とつながっていた。分からないことばかりであった。思春期の中に突入した頃である。今のように、推理小説の犯人がすぐに分かるような状況ではなく、どうしても、ひとつひとつのページを追っていかなければ、犯人にたどり着けない時代だったのである。そんな中で、私も大きくなり、社会人となり、家庭をもち、ここまで生きてきた。10年、20年、25年、あっという間だった。まだ、私は若い方である。取引先の大手の会社の役員の方々、研究開発の役員の方々は、私よりもずっと年配の人たちである。色々とご指導を受けている。それも、あっと、いう間である。光陰矢のごとしである。

 私は、福田首相のメルマガを購読している。もちろん、ネットであるから、登録すれば、誰にでも送られてくる。送られてきたら、ざっと目を通すだけである。私は、基本的に福田首相は、いい人だと感じる。ただし、いい人が、いい内閣総理大臣とは限らない。そう、日本という国があまりに肥大化し、動脈硬化を起こしている。内閣総理大臣が、こうしたいと利他の精神で、いっても、笛吹けど踊らずが現状である。内閣総理大臣にまで、なれた人である。歴代の総理経験者でも、棚から牡丹餅みたいな人もいたかもしれないが、やはり、それなりの人だと思う。内閣総理大臣は、能力があっても、人望があっても、どこかで、総理大臣になれる運がないとなれないのである。

 

 どのようなものでも、始まりがあれば必ず終わりがある。徳川家康が作った江戸幕府も、15代将軍慶喜で大政奉還し、徳川政権に幕を閉じた。薩長で作った明治政府も、太平洋戦争の敗戦で、天皇を中心とした軍閥政治に幕を閉じた。そして、戦後自民党と全国にめぐらした官僚機構政治が、今まさに、断末魔状態にある。参議院で、自民党は退廃した。今の状態は、小泉政権時代のドサクサ紛れで得た議席数を頼りにして、延命しているにすぎない。今の自民党、公明党連立内閣は何もできない内閣なのである。何一つ決められない内閣である。衆議院を解散することができない、腑抜けの内閣である。今、選挙をやれば、過半数さえも、危うい状態であり、連立を組む公明党も負ける選挙に体をはって、支持母体の創価学会を動かすことができないからである。

 

 いつまで、その幻想にしがみついているのであろうか、とっくの間に、祭りはおわっているのである。その余韻だけにしがみついて、まだ祭りが続いているような錯覚にしがみついているのが、現状である。今、解散したら、負けると分かっているなら、今までの政策が間違っているということなのである。今の自民党/公明党連立内閣は、間違っていることを間違っていると認めることができず、ただ、慣性の流れにのって、惰性で政治をしているだけである。自分が正しいと胸をはっていえるなら、自分たちこそが、憂国の獅子であると言えるなら、どうどうと、世論に訴えて、衆議院を解散して、民意が自分たちにあるかどうか聞くべきである。

 

 私は、個人的には、福田首相の性分は好きである。お惚けだが、根の優しさが見え隠れする。人間的には、いいおじいちゃんだと、感じる。たぶん、福田首相個人としては、一般財源化をしなければ、だめだ、公務員改革も断行しなければ、この国の未来はないと思っているはずである。そう、残念ながら、笛噴けど踊らず、福田首相は、すでに、裸の王様状態になっている。安部前首相のときも、結局、同じことが起きたはずである。自民党も公明党もみんな、このままではどうにもならないと分かっている。しかし、見えない官僚組織の自己防衛が、強いのである。官僚というのは、官僚に官僚をとったら、何も残らない人たちである。その身分があるから、官僚でいられるのである。もちろん、官僚や役人、一人ひとりが悪いのではない。ただ、それが、あつまり、ひとつの組織やシステムを形成すると、今の日本の現状に合わない属性がでてくるのである。ひとり、ひとりは、善良でいい人かもしれない、しかし、それが、組織として、役人という一塊になると、恐ろしいほどの、エゴが生まれるのである。まさしく、無謀な第二次大戦に突入したのとおなじである。軍部(官僚組織そのものである)が、満州事変から、太平洋戦争に突入したのも、ひとつの、軍部というエゴが出てきて、いちど、流れがついたら、引き戻せなくなるのと同じである。軍部の上層部や外務省も、アメリカと戦って、勝てるとは思っていなかった。ただ、何かの力で、交戦した以上は、最後まで戦って散華しようと思ったのである。たいていの人は、やるだけやって、優位なところで講和に持ち込むことを考えていた。ただ、優位なところがどこか分からず、いつのまにか、撤退、撤退となり、気がついたら、原爆が落とされて、無条件降伏していたのである。

 色々なニュース解説をテレビでみた。中国の四川省にあのようなプレートがあるとは、想像していなかった。考えてみれば、四川省の盆地の高度が500m前後、そして、ユーラシア大陸の山脈が一気に西側にそびえている。5000m級以上の山々が聳え立つ。チベットのラサもその山脈の中にある。一揆に10倍の高さがある。富士山よりも高いのである。考えてみれば、それだけの山がそこにあることは、プレートによって押し上げたことになる。当然に、どこかで、プレートは、反発して元にもどる。それが地震である。

 

 四川省、中国の西のはずれである。それより西側は、チベット自治区であり、今回のオリンピックでの騒動の発端になったチベットに対する抑圧があったところである。四川省、それは、パンダの故郷と辛い四川料理もさることながら、日本人なら、直ぐに三国志を思い浮かべるはずである。そう、四川省の省都は、成都、それは劉備と諸葛孔明の蜀の町なのである。三国志、それは、西暦200年ごろの時代であるから、1800年の昔の世界である。その地方が壊滅的な被害を受けている。五行陰陽説が生きている地域でもある。チベット族が多くいるところである。あきらかに、北京や天津、上海とは、民族や歴史や言語が異なる。たぶん、水面下では、天変地異と、チベット族やチベット仏教を弾圧したたたり、天からの示唆であると、うわさされている。昔であれば、これこそが、天からの啓示であると、有力な指導者が立ち上がり、ひとつの政権や国が倒されたことである。

 

 テレビで流れていたが、すでに、今回の被害の原因を、中国共産党の一党独裁体制にあると指摘した中国人がいた。地方の官僚の賄賂等により、耐震の弱い建物が作られた結果であると発言していた。昔では考えられない発言である。日本の自民党と同じように、中国でも、口利きや利権等が、日常的に行われている。もともと、中華の思想とは、個人主義、血縁主義の考えである。だから、よほど、個人の内面がしっかりとした人でなければ、中国共産党のエリート官僚たちでも、そこに金と色を詰まれたら、なんでもOKしてしまう。ある意味、日本の官僚制度は、中国の制度のコピーである。日本の官僚制度がこれであるから、中国も同じである。ここまで、経済がオープンになっているから、共産党がどうのこうの関係がない、日本と同じように、律令官僚制度、それ自身が腐敗してきたのである。金と色(女)での賄賂で、正義がゆがめられている状態である。

 

 ここが、中国の最大の矛盾点なのである。嘗て、仕事の関係で、私は中国の色々なところにいった。当時は、開放されていないところがあり、特別な証明書がなければ、外国人がいけないところがあった。そんなところまでも行かされたことがある。そのとき、これだけ、考え方の違う民族をひとつに束ねるには、相当な権力がいる、一党独裁の政治体制と、そこに強力な軍事力をもって、力で抑えなければ、中国は内部崩壊すると感じたものである。だから、ある意味、毛沢東が文化大革命を起こしたのも、中国ならしかたがないかと、思ったものである。ただ、あれはあきらかにやりすぎた、そのために、中国は10年、取り残されたのも事実である。そしてその精神的な後遺症で苦しんでいる中国人がいるのも事実である。

 道路特定財源が、閣議決定で、一般財源化に組み入れられる。今まで、国土交通省が握っていた金づるを財務省が奪い返した格好である。一般財源化になっても、この国の役人パラダイスは、変わらない。旧大蔵省の権限が肥大化するだけである。それにしても、この国は、いまだに律令国家体制から脱していない。平城京、平安京の昔から、受け継がれた体制は、びくともしない。この国のエリートは、たしかに、財務を掌握する旧大蔵省(財務省)である。その事務方のトップは、事務次官、たぶん、これはお飾り的な存在であり、実質的には、主計局長、次には国税庁長官なのである。財務省の事務次官の前職が、大体、主計局長や国税庁長官なのである。そう、この国を、実際に仕切っているのは、総理大臣でもなく、主権者の国民でもなく、財務省主計局長なのである。国会議員の先生も、この主計局長には、頭が上がらない。膨大な一般会計での国家予算の割り振りを決めるのが、財務省主計局なのである。予算配分の決定権をもつだけに、すべての役所(税金で運営されているすべてのもの)の総本山である。もちろん、その財務省の支出等を監査するのは、会計検査院であるが、その予算も主計局が握っている限り、なかなか文句を言えるものではない。そう、この主計局長の権限は膨大である。ある意味、専制君主以上の力がある。そう、日本で一番頭のいい人はだれかと、言えば、間違いなく、財務省主計局長なのである。単に頭脳だけではなく、このポストを勝ち取るには、相当の権謀術数を省内に張り巡らさなければならないはずである。ものすごい、政治的な、血筋的なコネがなければ、得られるものではない。

 

 総理大臣、知事等、選挙で選ばれる人は、マスコミにでる。しかし、実質的に官僚の中のトップは、主計局長である。マスコミで紹介はされていない。その後、大抵は財務省の事務次官になり、名前が公になる。退官後も、どこかの大きな組織の総裁に就任している。もちろん、財務省主計局長も国家公務員であり、公僕であることにはかわりがない。

 

 この国の政治体制が変わろうとも、自民党から民主党になろうとも、はたまた、共産党が政権をとろうとも、この国を動かすためには、官僚組織が絶対に必要である。何故、必要なのか、それは、個人個人がいつの世でも、利己だからである。それをまとめるには、権力が必要だからである。その権力を末端にまで、浸透させるために、組織が必要なのである。その組織が、官僚組織として残っている。その組織の末端が、年貢を人々から徴収したのである。官僚組織は、ねずみ講組織と基本的には変わらない。だから、一度、大地にしっかりと張った組織を根絶することは不可能である。仮に、憲法を改正し、日本のトップを総理大臣から、大統領制に変えたとしても、1000年以上も継続している律令体制を変えることはできない。公務員改革は、出来ても、官僚組織を変えることはできないし、その組織の中に棲息し、その根に寄生して税金という栄養分をとり、ぶよぶよ肥大化する官僚を退治することは不可能である。

 

 ひとつの場があり、そこに参加する人の数が増えれば、ひとつの商売が生まれる。直接参加する人(ボクシング関係者)もいれば、間接参加する人(ファン、興行でお金を払う人)もいる。とにかく、人の数が増えれば、そこで金が動く。ボクシングの亀田兄弟の件が連日、報道されている。協栄ジムから離脱した亀田興毅選手と大毅選手である。ボクシングという場の中で、翻弄される二人である。彼らが、生きるためには、いまは、ボクシングという場を離れたら、終わりである。亀田プロモーションを父史郎氏が作り、息子をそこに所属させ、何とかボクシングという場で、生計を立てようとしている。いづれ、引退したときは、亀田プロモーションから、芸能活動をさせようと目論んでいると分かる。そのためには、興毅選手には、二階級制覇、大毅選手にも、世界チャンピオンになってもらわないと、亀田プロモーションは困るはずである。そうしなければ、二人に価値がでないからである。そして、史郎氏は、なんとしても、今は話題を集めなければならない。そのために、色々な発言をしている。そう、息子に価値がでるまで、世間の注目を集めさせることもひとつの商品作りだからである。

 

 亀田史郎氏が、何をいようと、何をしようと、商業活動の場では結果がすべてである。亀田親子がどんな人なのか、実際は知らない。もちろん、ボクシングの興行には興味がないから、ボクシングという場に直接、間接参加する人や集団と関わりがない。だから、亀田親子が、リングを離れた後、どのような言動をとっているのか、どのような生活をおくっているのか、分からない。ある程度は、社会人として常識ある態度と言動をしているはずである。そのある程度の具合によって、将来の亀田プロモーションの姿がきまると感じる。

 

 人は、長いものに巻かれる。だから、亀田選手が強いうちは、彼らの周りに人と金が動くはずである。だから、今回の協栄ジムとの契約解除でも、ボクシング界から追放されたのではない。最終的にどう落ち着くか分からないが、間違いなく、何らかの形で、亀田兄弟は、リングの上に上がるからである。亀田兄弟が上がれば、ボクシングという商業活動の場に、金が回ることになり、そこの場に参加している人にそのおこぼれが入るからである。いわば、ボクシングの場もひとつの株式の場とおなじ投機の場なのである。商品として価値があるうちは、無駄に捨てたりはしない。いまでも、多額な金を亀田親子に投資しているところもある。今捨てれば、元が回収できなくなる。だから、そんな馬鹿な真似はしない。

 

 スポーツで生計を立てている人は、その場を大切にする。野球をやっている人は、その野球という場がなくなれば、終わりである。一番おそれるのは、永久追放である。それができるのは、日本で野球の興行を仕切る組織があるからである。プロ野球のコミッションがある。そこから永久追放されれば、日本でプロ野球として生きていけない。それと同じことが、相撲でもサッカーでも、ボクシング業界でもある。亀田兄弟は、追放されていない。もちろん、追放などされない。なぜなら、亀田兄弟には、価値があるからである。興行を打つ場合の話題性があるからである。金が取れる商品だからである。

 京都府の舞鶴の小杉美穂さん(15歳)の殺人でも、愛知県の豊田市の清水愛美さん(15歳)の殺人でも、共通項は、携帯電話向けでもPC向けでも自説のホームページを持っていたことである。プログにしても、HPにしても、ネット上では、不特定多数へとつながっている。アドレスが分かれば、だれでもが入っていける。そう、誰でもが、書き込んだ人の世界を覗きこむことができるのである。書く本人には、その意識はない。見られても、彼女たちが嘗て接触したことのある人たちのレベルを想定している。世の中、そんな人たちだけではない。いい人もいれば悪い人もいる。警察官でも教師でも、世間一般が善良だと思っている階層の人たちでも、殺人や強姦や買春を行うのである。その場に遭遇して、初めてその恐ろしさを経験するのである。小杉美穂さんも、清水愛美さんも、その一瞬まで、まさかと思っていたはずである。そう、そのまさかと思った瞬間に殺されたのである。犯人が捕まっていないから、犯人と彼女たちの間の関係がどのようなものであるか分からない。しかし、その人の恐ろしさを知っても、死んでしまったらおしまいである。そう、世の中で一番恐ろしいのは、実は、人の心なのである。

 

 すべての人が、善意に満ちて、利他を考えている人ばかりではない。すべての人が、慈悲にとみ、困っている人をたすける人とは限らない。世の中、やはり確率で、ものすごくいい人がいる分、ものすごく悪い人がいるのである。そう、たいていの人は、法律があろうとなかろうと、人の物を勝手にとったりはしないし、理由もなしに、人を傷つけたりはしない。しかし、ある人たちは、法律があっても、勝手に人のものをとったり、理由もなしに、人を傷つけたりするのである。傷つけるだけならいい、殺すことだってある。それを15歳の少女に理解しろというのは、無理な話である。ある程度の年齢がいき、社会や人というものを感じとれる年齢にならなければ、その危険性さえも、想定できない。

 

 人はわがままである。ブログやHPに、少女たちは、自分の心に浮かんだ情念や感覚を感性のまま書き記す。そのわがままさや幼稚さがそのまま言葉にでる。本来、日記とは、非公開である。自分の内部の感情を脈絡もなくつづるものである。そして、それが、だんだんと形となり、ロジックとなり文章となっていく。その内面につづられたものと、現実の世界とが、だんだんと重なっていく。少女はそうして大人になっていく。

 

 少女たちのブログやHPを陰湿な心をもった人が、見ていたら、どうなるかである。心の中を盗撮されているのと同じである。ある意味、心の恥部を見透かされているのとおなじである。その意識がまるでない。対人関係を遮断した男、高カロリーの物を摂取し、それが運動という形で代謝されなければ、そのエネルギーは、必ず、心の陰湿さへと向かう。限りなく、妄想へ、幻想へ、男であれば、それが性のエネルギーへと向かうのは必定である。エネルギーは保存される。余分な高カロリーで得たエネルギーは、どこかで消費されなければならない。それでも消費されなかったエネルギーがメタボとなって体につくのである。それがエネルギーの保存則である。

 

 世の中は不条理で満たされている。それは、ある程度どうすることもできない。京都の舞鶴で、名古屋の岡崎で、女子高生が殺害された。その個人のブログまで、解読し、色々と推理することはできる。しかし、殺された人は、帰ってこない。世の中には、結果に対して、それを生む原因がある。事件ではそれが動機となる。だから、丹念に、被害者との対人関係を追っていけば、どこかで、犯人との接点がある。未解決の事件でも、捜査線上に出てきた容疑者は、それなりに怪しい人物なのである。ただ、今の司法制度では、裁判で、有罪と確定されないと、その人を最終的には裁けないのである。一審、二審で、死刑判決が出ても、最高裁で無罪がでれば、罪は犯していない、仮に犯しても、罪には問えないということになる。闇サイトで、殺人を依頼されることもある。一番恐ろしいケースである。動機を持つ人と殺人の実行者との間が、希薄なケースである。殺人実行者の氏名も顔も見たことがない、ネットという不特定多数の場にもぐりこまれてしまったら、犯人を特定することは非常に難しい。しかし、それでも人は殺されているのである。

 

 誘拐された子供もいる。行方不明な人もいる。犯人も検挙されない多くの未解決事件がある。もちろん、殺人事件、ひき逃げ事件等の未解決な事件もある。警察は諦めずに、継続捜査をしている。しかし、連日、日替わり定食のように、事故や事件が連発していれば、古い未解決な事件は、忘れられてしまう。しかし、殺された遺族や行方不明扱いにされた家族は、そのことを忘れることができない。現代は、情報化時代である。ある程度、開かれた社会である。だから、事件が顕在化する。しかし、戦時中、戦後直後の混乱期には、今以上にとんでもないことが、起きていたのである。

 

 その時代には、今以上に普通でない人に対してのいじめ、戦争中の国家統制に反逆する人、軍事政権を否定するものへのいじめがあったのである。そして、闇の中での殺人や強姦が平然と行われ、その犠牲者の家族は、じっとそれに耐えていたのである。いつの世でも、人間のもっている利己のために、その強い利己の犠牲になった人はいるのである。それに勝つのはたった一つしかなかった。それ以上の力をつけること、それが権力になったのである。だから、権力者の家族が普通でなくても、それはそれで容認されていた。ある場合では、その人が横恋慕して、誰かの妻を強姦しても、文句が言えなかった時代があったのである。

 

 人間は平等であるという。しかし、現実には平等ではない。生まれながらの差別が現存する。自我が形成され、自分を意識したとき、そこが、日本であり、ある程度の階級に属しているのと、自分を意識したとき、後進国の低所得者の階級に属しているのでは、やはり違うのである。日本の中での区別ではなく、世界の中での区別を見るべきなのである。そこに平等はない。しかし、建て前は、平等なのである。この不条理はどうすることもできないのである。

 

 京都の舞鶴市で、5月8日小杉美穂さんの遺体が見つかった。頭を鈍器なような物で、何回も殴られたことによる失血死だった。顔面にも激しい殴打の跡があり、首には直物のつるのようなものが、何重にも巻かれていた。もちろん、着衣はなかった。犯人は、あきらかに、美穂さんに対していたずら目的で近づいた。騒がれたために、衝動的に殺した。そんな感じがする。

 

 美穂さんは被害者、犯人が加害者、どのような接点があったのか分からない。犯人が捕まっていない以上、それは分からない。顔見知りなのか、それとも、偶発的に出会った人なのか、分からない。しかし、美穂さんが、同意していなかったのは確かである。激しい防御創が腕の外側にあったからである。美穂さんは、突然襲われたのである。顔見知りならば、男が突然、美穂さんを性の対象とみて襲ったことになる。遺体が見つかったのは、人気の少ない朝来川沿いの雑木林である。遺留品が、現場近くで発見されている。

 

 もちろん、犯人は捕まっていない。何もわからない。しかし、遺体現場をテレビでみたが、あたりは、何もない殺風景なところである。常識的に考えて、美穂さんが、ひとりでブラブラとその近辺をうろつく必要性がない。もし、そこで、何かあれば、美穂さんは、叫ぶはずである。何もないところである。美穂さんが、大きな声で悲鳴をあげれば、回りの民家に届くはずである。その情報はない。となれば、誰かといっしょに、その現場付近まで来たことになる。もちろん、殺害現場がその近辺であることが前提になる。

 

 美穂さんは、お母さんと二人くらしである。中学校も家庭の事情で転向、編入を重ねている。体調不良や情緒不安定で、授業は欠席がちだったそうである。卒業式も出席しなかった。将来は作家になりたいと夢を語っていた少女である。

 

 美穂さんのお母さん(春美さん)の手記を読んだ。犯人に対する憤りと娘を失った悲しみと何もしてあげられなかった自責の念が、丹念につづられていた。美穂さんは、そのお母さんのDNAを受けている。ガラスのような脆い感受性をもっていたと感じる。だから、体調不良や情緒が不安定になる。「死にたい」と以前に回りに話していた以上、相当、内面深く自分を見つめていたはずである。非常に繊細で敏感な感性をもっていたはずである。

 

 この情報だけでも、ある程度の推理はなりたつ。美穂さんは、寂しかったのである。いたたたまれなくなるほど、自分の存在が哀しく感じられたのである。15歳、普通でも多情多感な年頃である。それ以上だったのであろう。そして、ガラスのように脆く傷つきやすい内面をもった少女は、どこかに救いを求めたはずなのである。誰か、たすけてと、どこかで、ずっと救いを求めていた。そう、そのとき、残酷にも、犯人と遭遇したのである。

 今の12歳は、昔の12歳と違う。自我が形成されて、(過去の記憶として残る年齢)時期が下がっている。自分を自分として外部と区別できる年齢が、確かに下がってきている。それだけ、外部からの情報が強くなっている証拠でもある。30年前、40年前の12歳であれば、まだ、子供であった。それでも、中学校の2年生ぐらいから、だんだんと思春期に入ってきたものだ。それを考えると、今の12歳は、昔の14歳ぐらいであろう。小学校6年や中学校1年の男子が公園でたむろしていて、その話を何気なく聞いていたら、かばんの中にコンドームがはいっていると自慢していた。ネットを開けば、昔、想像もできないような無修正の画像があるし、無修正のアダルトビデオなど、簡単にアクセスできてしまう。カード決算の料金を払わなくても、サンプルビデオとして、簡単に保存できてしまう。どの時代でも、ませた子供はいて、それを自慢したりする。今の小学生は、昔なら成人でしか見れなかった情報がすべて見れる時代に生きているのである。

 

 我々、大人は、ネットのアダルトが現実ではなく、仮想だと分かる。素人と書いてあっても、人を引き寄せる言葉だとわかる。犯罪すれすれの盗撮等と書いてあっても、それはほとんどが、やらせであり、もし、やらせでなくても、事後で本人の同意を得ているはずである。あくまで、商売のツールとして、やっているのである。残念ながら、人間の性や生殖に関しては、本音と建て前を大人は使い分けている。その性の闇に関して、大人は薄暗いところをもっている。しかし、12歳の少年には、それが分からない。建て前と本音を使い分けられるほど、精神が充実などしていない。学校では、教師がもっともらしいことをいう。道徳や倫理を言わなければならない。社会生活を営む上での建て前をいい、人間の外層、対人関係での自分と他者との界面を強くすることを教えなければならない。しかし、ネットでは、人間の性が歪曲化され映像化されている。それを、教師も親もだれもが、隠れて見ている。子供はそれをどこかで気づくときがくる。

 

 板橋区で、今年、卒業式で「大嫌いな学校」と発言し、その後、自殺した少年(12歳)は、そんな建て前と本音を使い分ける世界に絶望したのではないかと思う。この少年は、常に自殺をほのめかしていた。「もう、駄目だとおもったら、自殺する。」将来なにをしているかとの卒業文集での質問項目には、死んでいる(地獄)と書いている。この少年は、非常に強い感受性をもっていた。自殺や地獄という言葉を、普通は容易に使うことはできない。それなりの、TPOがあるからである。

 

 そう、この少年は、学校が大嫌いだった。本音と建て前を使い分け、もっともらしくいう大人の世界が嫌いだった。それに、迎合し、それを受け入れ、背伸びをする友達も大嫌いだった。つまり、この世が嫌いだった。生きていることが、嫌だったことになる。この少年の心と直接対話するには、それなりの覚悟がいたはずであった。今の学校の先生に、その覚悟を求めても無理な話である。大学を卒業し、教職の免状をとり、研修を通して、学校の教壇にたつ。与えられたマニュアルを読み、児童心理もそれなりに読み、それなりのプロ意識をもつ。もっともらしいことをいう。確かに、体系化された文部科学省の教科書指導要領に準じて、時間を埋めていけばいいのである。職業教師であるからしかたがない。

 月の光、街灯がきれたところの闇に、月の光が映える。昔から、望月の光には、神秘な力が宿るといわれている。満月のとき、太陽と月は地球を挟んで、反対側に位置する。月の引力を多く受ける。日没すれば月の入りがあり、日の入りがあれば、月が沈む。その月の光、もちろん、その光の光源は、太陽である。それが反射して、綺麗な満月となる。美しい光景である。そう、月光という名をいえば、クラッシクに興味のある人なら、すぐに、ベートーベンを思い出す。あの有名なビアノソナタ第14番嬰ハ短調、月光である。あの三連音符から始まる不思議な旋律に、ピアノを習った人なら、いつか弾いてみたいと思ったはずである。第一楽章なら、それほど難しいものではない。三連音符のゆらぎが、月の光と重なるように感じる。

 

 月光といえば、奈良、薬師寺の薬師如来尊像に脇侍像である、月光菩薩像である。げっこうではなく、がっこうと呼ぶのだが、漢字では、月光である。薬師如来尊像の向かって右に、日光菩薩、左に月光菩薩である。日の光と月の光に照らされた、薬師如来尊像、いついっても、あの優しい微笑みで迎えてくれる、日本の故郷みたいな仏像である。月光、日光の両菩薩像がなければ、一つの国宝の仏像という印象しかない。月光、日光菩薩像がすばらしいから、薬師如来尊像が、あれほど、美しく、うきだつ事ができるのである。

 

 月光といえば、他に色々なことを、思い出すだろう、しかし、それ以外に、私にとって思い出すのは、やはり、初の電車寝台特急、581系の月光なのである。昭和42年(1967年)の10月ダイヤ改正で、昼間は新大阪ー大分間のみどり、