2008年4月アーカイブ

 また、ひとり感性豊かな人が亡くなられた。随筆家の岡部伊都子さんである。優しくて芯のある立派な文章を書かれる人だった。若い人は、知らないかもしれない。感性豊かで、しかも、人が見逃してしまう一瞬の美のゆらぎをしっかりと捉えられる人だった。こんなところに、すずらんが咲いている。白い小さな花が風にゆれる。その小さな花にも命が宿っている。そのひとつひとつにも、慈しみのまなざしを注がれていた。岡部さんが書かれる文章の行間には、そんなイメージが溢れていた。日本の伝統美、仏像、寺院、日々の随想、どれをとっても、心洗われる思いがした。

 

 しかたがない。静かに旅立たれたのだと感じる。たぶん、岡部さんは、小さく小さくなって、そして、消えていったのだろう。岡部さんの文章の余韻を思い出せば、そんな言葉がぴったりとあうようである。また、ひとり、多情多感な心で昭和の激動の嵐を感じ取った女性がなくなられた。もし、感性と記憶が、コピーできるならば、その心をそのまま残しておきたかった人の一人でもあった。

 

 岡部さんをすごい人だと感じたのは、テレビでのインタビューを見たときだった。その印象があまりにつよく、まだその感覚だけは忘れてはいない。どの番組でいつだったか、それは忘れてしまった。太平洋戦争に出兵する婚約者を見送るとき、婚約者の男性は、「この戦争はおかしい、私はこんな戦争で死にたくない」といったとき、岡部さんは、「私ならお国のために死ねます」といったそうである。その言葉が、ずっと引っかかっていたそうである。何故、私はあんなことをいったのか、愛する人になぜ、そんな心無いことをいったのか、それを、細身の体を震わし、涙ながらに述懐し、いまでも後悔していますと発言していたのである。それが、岡部さんの出発点だといっていた。沖縄に何回も足を運ぶのも、弱者に目を配るのも、間違っていた戦争で殺されなければならない人々への、生き残ったものからの償いだったと感じる。その映像がいまでも頭に残っている。たぶん、私が生きている間は、残っているはずである。

 

 時代は風化する。記憶も変遷する。そして、再び、岡部さんのような感性豊かな人が出てくるとは思えない。岡部さんは、「学歴はないけど病歴はある」というほど、病気と戦った人である。そして、あの太平洋戦争、日常の中にいつも死が背中合わせにある状態であった。そこでの婚約者との永久の別れ、愛と死と命と性とが、このような形で、再び重なるとは思えない。岡部さんの感性はその重なりの中で磨かれていったのである。

 

 すずらんのように、ひっそりと咲いているような存在だった。今の若者はすずらんが咲いていても、すずらんと分かるだろうか、分かる人はわかるだろう。その花を愛おしいと感じれる感性を持った人なら、岡部さんの随想をどこかで、読まれることを薦めたい。人生には浮き沈みがあり、いいときもあれば悪いときもある。春うららかな陽気の中でも、一片の雲が日差しをさえぎり、影を作るときもある。そんな時、読んでみたら、あっ、このような人がいたんだ、と思うはずである。それでいいんですよと、岡部さんは、優しい目をして、どこかで、微笑んでいるような気がする。

 ネットとは、実に恐ろしいものである。確かに、十分に独立した不特定多数が相互補完の上に、ネット社会は成り立っている。ひとつ何かを落とせば、つぎつぎと波紋が広がっていく。不特定多数が面白いと感じ、有効だと思った情報(個人的な思いも含め)をネット上に配信する。多くの人がWATCHしているところの場に、それが落ちれば、それを見ている人の脳が刺激される。それが連鎖反応を生むことになる。見られていないようで、誰かに見られているのである。あきらかに、時代は急激に変化している。ひとりひとりの不特定多数の力が、世論を形成するようになっている。だから、私もそれに参加しようと思う。

 

 ネットを見ていたら、二人の人が集中攻撃されている。一人は、青山学院大学の瀬尾准教授である。全国的な話題にまでなったのであるから、初期の頃は、相当数の人が瀬尾准教授のブログに集まったはずである。そして、激しい非難のコメントがついたはずである。それどころか、青山学院大学まで、抗議が寄せられ、とうとう学長名で謝罪までしたのである。挙句の果て、大学として、瀬尾准教授の処分まで検討しているのである。その発言の要旨をみたが、これは、確かにとんでもないことをいっているのである。これが、どこかのおばちゃんのたわごとのブログであれば、毒舌をいうおばちゃんね、ですむのである。しかし、「光市事件の死者は1.5人」「元少年が殺されれば遺族は幸せ」「差し戻した最高裁の判事の妻は、おそらく専業主婦で、TVばっかり見ていたため洗脳され、夫の仕事にも影響したのだろう」「元少年が殺されれば、報復が果せた遺族はさっぱり幸せな思いに浸るに違いない。自分の血を吸った蚊をパチンとたたき殺したときみたいにね」「永山事件の死者は4人。対してこの事件は1.5人だ」「大阪府知事なんかエロノックだって務まったくらいですから誰でもかまいません。ま、人間の廃物利用ってところでちょうどいいじゃないですか」「(拉致被害者の人は)私の目から見ると信じられないくらい幸福です。なのにその幸福に感謝もしないで、いつまでもいつまでも『めぐみっちゃん』とか不幸面してられるアンタが心底うらやましいよ、とTVを見るたびに思います」、これは、確かにいただけない。特に、拉致被害者の人に対しての文章に対しては、私でもムッとくる。青山学院大学国際政治経済学部の准教授が、たとえ、個人的なブログだろうが、これを公にしたら、問題がでるのは当然である。こうゆう考えを持った人が、教鞭をとり、学生を指導するのである。青山学院大学の尊厳が疑われるのである。また、常識的な言葉でいえば、この女性の人間としての品位をも疑いたくなる。

 

 当然に、瀬尾准教授は、釈明と謝罪をネット上でしている。このような発言を青山学院大学の准教授という肩書きをもつ人の立場から発信すれば、どのようなことが起きるか想像できたはずである。もし、分からなかったのなら、あまりに、ネットの怖さを知らなさ過ぎる。つい、軽い気持ちで、気を引くつもりで、ブログに書いたのであろう。それが、思わぬところから火がついて、自分の身に降りかかってきたのである。天につばを吐くと自分に帰ってくるのである。軽い気持ちで毒づいたのが、青山学院大学の准教授の立場まで危うくしたのである。それにしても、個人のブログとはいえ、発言の自由だとはいえ、これはひどすぎる。

 

 予想通り、衆議院山口2区で、民主党の平岡氏が自民党の山本氏に2万2000票差で破り、当選した。薩長時代からの保守の基盤が強い山口で、自民党が敗北したのである。民主党がもともと強い地盤で勝利したのではなく、もともと、岸元総理、安部前総理等のお膝元の山口でのことなのである。この投票コードは、単に山口だけではなく、今、衆議院選挙をやれば、ほぼ間違いなく、民主党が過半数を制することになるはずである。だから、自民党は、絶対に、どんな姑息な手段をとろうと、任期満了まで、衆議院を解散することはしないはずである。その間に、世論の目をそらし、挽回の機会を狙うはずである。

 

 側近の民意は、これであきらかに、明示されたのである。山口2区の補選、昨年の参議院選挙、民意は、自民党/公明党政権にNOといっているのである。その民意に逆らっても、4月30日に暫定税率を復活させる改正案を30日に再可決し、成立させる予定である。ゴールデンウイーク中に、ガソリン価格がリッター150円から160円になることは確実である。内閣支持率は、がたがたになるはずである。もはや、福田政権は、死に体となり、政府として機能しないはずである。

 

 もはや、参議院選挙で、自民党が敗北したときから、自民党の国会議員が国会議員でいられた地盤が崩れたのである。自民党参議院のボスの片山寅之助前参議院議員が、敗北したときから、分かっていたのである。今までは、公明党の支持基盤の補填を受けて、成り立っていたのである。その公明党の支持基盤を足しても、足りなくなったのである。もはや、自民党、それ自身が存続できない状況である。もちろん、自民党は、共産党や公明党のように、ひとつの理念や考え方でまとまっている党ではない、それぞれが、地域を代表するブローカーなのである。ある意味、何かしらの利権や利害関係で、自民党にいるだけなのである。だから、何かあれば平気で離党し、何かあれば平気で復党する。

 

 常識で考えれば、今の自民党の衆議院での2/3の力は、幻想なのである。民意は、ないのである。民意がNOといっているのに、それと逆のことを2/3の力でやろうとしている。江戸時代末期の倒幕前夜や太平洋戦争の末期、原爆が落とされた後の8月15日の玉音放送までの期間と同じである。これから、色々なところで激しいつばぜり合いが生じる。利権を維持しようと、断末魔の動きが、自民党内部で起きるはずである。パイは、すくなくなっているのである。その中で、あふれる議員が出てくるのである。その利権や商権があったから、政治家としていられたのである。口利きがあったから、地元の経済界や業者は、何かあるために、先生、先生とあがめたて、訳のわからない勉強会や講演会の名目で、せっせと、お金を指定されたところに、指定されたやり方で、合法的に入れていたのである。そう、金の切れ目が縁の切れ目になるはずである。もともと、利権や利害で結ばれた関係は、その利害や利権の配当がでなければ、その関係は切れてしまうからである。政治とはもともとそういうものだという人がいれば、まさしく、今回の結果は、政治の結果なのである。

 一昨日、書いたアスペルガー症候群(高機能自閉症)に関して、高機能自閉症をもつ母親さんから下記のようなコメントが入っていた。正直、そういう視点があるのだな、と感じました。「普通」を願う気持ち、普通を装い、普通に生きようと試みる。しかし、普通の世界と交われば、どこかで、普通ではないところが出てくる。確かに、本人の自尊心やプライド、自己を肯定する気持ちは、ズタズタになるはずです。

 

 コメントは下記のようなものでした。

「お邪魔します。高機能自閉症(小学一年生)の母です。「高機能自閉症」の検索できました。ブログ拝見しました。こんな風に捉えていただけるとありがたいです。今、このように「発達障害を持つ子の犯罪」がよく取り上げられていますが、私の思うに この子たちは 幼少期に診断がなく、犯罪を起こしてしまってから 診断がつき、明るみになったという事があると思います。つまり、その子の「発達の偏り」に親も気づかずに成長してしまった。。。その事が、犯罪を犯してしまう事の原因になったように感じます。認めたくはないですが、確かに発達障害をもつ子(人)の犯罪は珍しくはないように思います。(実際は、加害者という立場より、被害者という立場の方が多いといわれています。)すみません。続きです。周りが正しく理解せず、幼少期からの療育も受けずに成長する・・・本人の自尊心や自己肯定感はズタズタです。そうなると・・・。一見、普通に見える子(人)。見逃される事が多いです。また、親も自分の子に障害があるなんて認めない人もいます。検診に引っかかっても、それさえも見向きもせず。。。みなさん、「普通」である事に執着されます。こんな事件で、発達障害を耳にしてしまう人が増えてしまうのは残念です。現在は、かなり早期発見、早期療育と進んではきています。

もっと正しく認知される時がきてほしいと願っています。」

 

 「普通」とは、自分たちが勝手に作り上げた幻想でしかないのです。そして、人生は一回きりです。時間は、一方向にしか流れません。昨日は明日には絶対にならないのです。100人いれば、それぞれ100様です。全部、違うのです。色でもそうです。赤と見て赤と感じる。私と貴方が同じ赤だと感じても、どのような赤をみたか、比較できないのです。脳の中を細かく細分化していっても、結局、それを判断するのは、脳ですから、どこまでいっても、客観的な事実とは、それを見ている人にとってのものなのです。100人いたら、100人が判断した客観的な事実が100様あることなのです。唯一絶対の客観的な事実があったとしても、それは分かりえないことなのです。

 

 「普通」というのは、一人ひとりが探り合った結果に過ぎないのです。自分の行為、自分が考えていることが、すくなくとも自分の周りの人と同じかどうか探りあてた結果なのです。子供が大きくなるにつれて、その社会の尺度や基準というのが、見えてきます。それが、多くの人がある事象に対して感じた平均値なのです。だから、その基準も地域や時代や民族によっても変化するわけです。関東で当たり前のことが、関西ではおかしいということもあるのです。言葉のアクセントも変わります。もし、高機能自閉症の人が多くいる地域にいれば、それが当たり前であり、それが当然なので、逆にそうでない人は、高機能自閉でないことに対して悩むはずです。逆に高機能自閉症でないことで、その本人の自尊心やプライドは、ズタズタになります。

 アスペルガー症候群とは、聞きなれない言葉である。高機能自閉症の一種で、知的障害が伴わないものである。ある意味、独創的な発想で、独自の世界観を構築する可能性がある人でもある。症候群という言葉は、ある意味、差別である。本来は症候群気質と呼ぶべきである。これも人間が勝手にある基準をもうけて、そこで分類分けしたのである。その基準の左側であれば、正常者、右にあれば、アスペルガー症候群となるのである。もちろん、多くの人が、その境目のグレーゾーンの中に偏在している。今後、このアスペルガー症候群の人たちの問題が、ひとつの企業のいや社会のキーワードになるはずである。

 

 このアスペルガー症候群は、人と円滑したコミュニュケーションがとりにくいのが、問題なのである。もちろん、この問題の視点も、みんなで仲良くがんばってやりましょうという視点から見ての話なのである。今はやりの「KY」、相手の空気が読めないのもひとつの症状なのである。もちろん、その本人には、その意識やそれに対しての悪意はないのである。当然に、人と何かが違うことは、差別を受けやすくなるのである。いじめの対象になりやすいのも事実なのである。結論からいって、アスペルガー症候群とは、固体差なのである。これも、100人、人がいて、100個の区別する基準を設ければ、100個の基準に対して、100人のサンプル数に対しての、分布ができるのである。とくに、言語、コミュニュケーションでの基準、こだわりへの偏狭さの基準、五感の感受性のばらつきの基準等での分布からみると、アスペルガー症候群気質の人は、外れたところに偏在しやすい人たちであるということなのである。

 

 基本的に自閉なのである。人と積極的にコミュニュケーションを取るのが苦手なのである。逆に言えば、それのどこが悪いかなのである。そう、何も悪くはないし、それでいいのである。空気が読めないのは、自分の感覚が、他人の感覚と異なるからである。想像力がないから、空気がよめないのではなく、その人の感覚で物事を把握しようとしているからである。誰でも、自分の中の尺度で物事をはかっている。たまたま、その尺度で、多くの人も見ているから、それがいいと錯覚しているだけのことなのである。ABが対極にある。Aを正とみれば、Bは負なのである。しかし、Bを正と見れば、Aは負なのである。たまたま、Aを正と見る人が、多いから、Bは症候群と定義づけされてしまうのである。性同一性障害も、性同一性障害が正で、多くの人が性同一性障害であれば、普通の人が今度は性不同一性障害と呼ばれるだけなのである。

 

 世の中とは、そういうものなのである。ある基準に対して、多くあるところを平均として、そこからみて、どうなのかとしているのである。人間が集まるところの世界はとくにそういうものなのである。だから、本来は何もストレスを感じる必要がないのである。しかし、アスペルガー症候群の人もこの社会の中で生きていかなければならない。残念ながら、非アスペルガー症候群が多数の中で、少数のアスペルガー症候群が生きるのは、誤解をうみ、差別を受けやすいのは、しかたがないのである。当然に、回りから空気がよめない、うっとうしいと呼ばれる可能性が高いのである。ある感覚に対しては鈍感であり、ある感覚に対しては人よりも優れているのである。狭く、深く物事を感受できる力があるのは間違いないのである。

 4月22日の午後8時10分ごろ、日が落ちて、あたりは暗闇になっている。そのとき、新幹線のぞみ150号の3号車、非常用ドアコックを使いその扉を力いっぱいに開けた。時速230キロ前後のスピードで走っている。激しい風圧を受ける。手すりを力いっぱい持っていなければ、車内に吹き飛ばされる。一人の青年(27)が、ドアの向こう側に体を預けた。あっと、いうまに、風に青年は持っていかれた。ちょうど、のぞみが、天竜川を走っているところだった。青年は、福岡市に住む専門学校の生徒だった。年齢からみて、何かあったのだろうと思う。将来のことで悩んでいたということである。

 

 どんな事情があるかは分からないが、自殺することはないと感じる。世の中には、生きたくても、生きれない人もいる。同年齢の人で、病気で入院しているひともいる。人の身の上のことだし、すでに、あの世に旅立った人に対して、何も言うべき言葉はないが、ほんとうに、それ以外の選択肢がなかったのかな、一人で悩むのではなく、誰か相談に乗ってくれる人がいなかったのかな、そこまで、ひとりぼっちになるまえに、何か手立てはなかったのかな、と思うだけである。やはり、自殺する若者を見るにつれて、その時期を通り越した者からみれば、心が痛むのである。若い命が、無残に散っていくのは、どうしても、空しさを覚えるのである。生きていれば、きっと、生きていてよかったと思える日が来たはずである。しかし、そんな言葉もむなしく、若者は、将来を悲観し、今の苦しさにまけて、生きることを放棄するのである。この専門学生にも27年間の人生があったはずである。詳細は知る術もない。どんな人でも、それなりの人生の軌跡はある、その幕切れが、時速230キロ前後で走行する、のぞみの非常用コックを使い、ドアをこじ開け、風圧と音圧のかかる闇の中に、身を投げて果てるとは、あまりに壮絶すぎるのである。さぞかし、ご両親の落胆は、深くつらいものであると想像する。

 

 のぞみ150号は、新大阪発東京行きである。この青年がどこから乗車したか分からない。福岡在住であれば、この青年は、死に場所を探していたことになる。すくなくとも、この青年は、大阪か名古屋のホームに降り立って、のぞみ150号の入線をまったはずである。仮に名古屋から乗れば、約30分前後で、天竜川付近に到着する。この青年は、30分間、死を見つめていたはずであるし、自分の今までの27年を振り返ったはずなのである。この青年の30分が、この青年の総括だったのである。30分、その青年は、引き戻せる可能性があった。非常用ノックを引きて、ドアーをあけるまでの間、この青年は、生きるか死ぬかのギリギリの選択をしていたのである。そして、サイコロは死へとふられたのである。いや、自分で死へとふったのである。

 

 若い人は、いい。これから、どんな夢もかなう。一年で、UPもすればDOWNもする。一年という時間の中で、すべてをひっくり返すことも出来る。とにかく、若いということは、いいことである。そう、それが出来るのは、社会人になるまでである。それからは、坂道を転げるように、中年域に達するまで、一気に時間が経過する。そこにいくと、自分の終焉が見えてくる。荒唐無稽なものでなく、ある程度、現実的なあるべき終わりの姿を感じる。そこで、もう一歩踏み込んで、がんばれば、自分が夢みていたあるべきものが得られることになる。それが、何であるか、個人によって異なる。個人にとってそれでいいのなら、それがベストになる。

  

 社会にでれば、色々な価値観が存在する。学生時代のように、学校の偏差値だけで、優劣は決まらない。 社会に出ていく人の中で1割ぐらいの人だけが、その学生時代に学んだ専門の技術や知識で、飯が食べれるだけである。そう、毎年毎年、学校を卒業して、社会に出て行く人が結構いる。日本の企業の規模がそれほど拡張していかないのと、上層の人がリタイアしないために、研究や技術職の枠が限られてくる。そこで、ふるいにかけられる。企業や法人で、学生時代に習得した技術や知識で生計を立てられる人というのは、本当に限られている。その他の人は、どうなるか、すべて、内部と外部との対人関係の中で、仕事をして、生計を立てることになるのである。自分のやりたいことが、大企業の中で出来る人は、ほんのわずか、それと、自分のやりたいことを、優先してやりたければ、少人数の会社に行くか、それか、個人事業主としてやるか、仲間と一緒に企業を立ち上げるかなのである。世の中は、それほど甘くはない。しかし、うまくいく人とうまくいかない人の差を観察すれば、うまくいく人には、ある共通点があるのである。

 

 ここからが、大事なのである。それは、対人関係なのである。自分以外の外部の人間とどのように付き合うかなのである。そして、どれだけ、短い時間に多くの人と接触し付き合い、話ができるかなのである。それが交渉率になるのである。△交渉する人数/△時間なのである。一時間に10人と交渉できる人は、一時間に一人と交渉できる人と比べると、10倍交渉率が高いことになる。それが、対人関係を広くするバロメーターになる。その交渉率が高い人ほど、うまくいく確率が非常に高くなるのである。

 

 社会にでれば、営業である。社内の営業もあれば、外部との取引先の営業もある。世の中で、一番、難しい営業は、飛び込み営業なのである。そして、その商品も一般的なものであればなおさら困難さが伴うのである。知らない家を一軒一軒、チャイムを鳴らし、どうですかと、営業をする。これは、普通は出来ない。頭では簡単だが、実際には、精神的にめげてしまう。販売というのは、ある意味、確率の世界であり、この商品で、この価格で、この地域を回れば、だいたい、このくらいの確率で売れるというのは、マーケットリサーチで出てくるのである。

 

 人は、いつでも、「死」と背中合わせで暮らしている。交通事故、災害、通り魔、テロ、一瞬にして、何の準備もなく、死んでしまう。健康に留意していても、車で走っていて、対向車線から、タイヤが飛び込んで、死亡することもある。道を歩いていたら、ビルの屋上から人が落ちてきて、運悪く当たって死亡することもある。突然、大地震が起きて、家屋の下敷きになって死亡することもある。休みの日に、駅前に散歩に行き、突然、通り魔に刃物で突き刺され死亡することもある。地下鉄に乗っていたら、異臭をかぎ、そのまま意識不明で死亡することもある。電車に乗っていたら、脱線し、ビルの中に突っ込み、そのまま死亡することもある。もちろん、その状況に遭遇し死亡することは、確率の問題である。本人には何の落ち度も責任もない。あくまで、たまたま、死と直面したのである。これは、どうすることもできないのである。

 

 それは、確率なのである。もちろん、そうならなかった可能性もあるのである。その人を特定したのではなく、不特定の中の一人として死と重なったのである。同じ、死であっても、殺害事件とそれらの死との間に何の差異があるのだろうか。当然、そこに、強い殺意があるかないかに掛かっているのである。人の命を奪う、または、奪ってもいい、相手に死を与えることの意思が殺意なのである。殺人罪における死とは、客観的な事実、被害者の心肺停止状態だけでの「死」ではないはずである。加害者が、どういう状態で、被害者を殺したか、その一瞬の殺意の度合いが重要なのである。殺意にも、程度がある。その中に、加害者の殺意に対するエネルギーが、どれだけ、入っていたかが問題なのである。いわば、殺意の加速度がどうであるかなのである。その加速度が強ければ、極刑にならざるを得ない。どれだけ、短時間の間に、相手に対する殺意を強くみなぎらせたか、逆にいえば、被害者も、それでけ、強く、短時間の間に恐怖を味わったことになるからである。

 

 今回の差し戻し審理は、最高裁が平成18年6月に、「18歳になって間もないことは死刑を回避すべき決定的な事情とまではいえない」としめし、さらに「無期懲役の量刑は甚だしく不当で、破棄しなければ著しく正義に反する」などとして審理を高裁に差し戻したことから始まった。その際戻し審判判決が、22日、広島高裁で出たのである。楢崎康英裁判長である。

 

 一審、二審で、無期懲役の判断を下したのは、被告が事件当時、死刑を科すことのできる18歳になってから30日だったことが理由のひとつなのである。しかし、最高裁は、18歳になって間もないことは死刑を回避する決定的な事情とまではいえないとし、さらに、無期懲役の量刑は不当だといっているのである。最高裁は、高裁に対して、死刑を下すべきだと、いっているのである。そして、実際にそのとおりの判決になったのである。弁護側は、意地でも上告するだろうが、最高裁でも、同じ判決を下すことになるだろう。

 最近、テレビを見ていて、面白いギャクを連発しているおねいさんがいると思っていた。声がしっかりとしている。端正な振る舞い、それでいて、自分のエゴを突き破る勇気、そして、前向きに、笑いをもって、場を変えていこうとするその気迫、ただならぬ人だと直感した。その人の名前は、エドはるみさんだと、知った。何がすばらしいか、それは、人間として、いや、対人関係をメインとした仕事に対しての姿勢が、すばらしいのである。頭が下がる思いである。

 

 テレビには、向こう側とこちら側がある。こちら側で見る人は、グーグーグーと連発し、軽快な踊りで笑いを取る彼女をどこかで蔑んでみている。それはしかたがない。上司から怒られ、仕事場でもうまくいかない、そんな営業マンが、居酒屋で、ビールを飲みながら、会社や上司の悪口で憂さを晴らしている。居酒屋のテレビから、グーグーグーと面白いギャクを連発するのを見て、ゲラゲラ笑うのである。それは、それでいい。しかし、世の中は、結果なのである。彼女も、ブレイクするまでは、テレビのこちら側にいたのである。しかし、今は、テレビの向こう側にいるのである。そう、テレビのこちら側と向こう側の差が、憂さを晴らしている会社員が、伸びて、中間管理者を通り越して経営者になれるかなれないかの差でもあるのである。それは、一体何なのか、それは、自分をさらけ出す勇気なのである。

 

 エドはるみさんは、立派である。ここまで、心機一転で自分をさらけ出し、前に前に勇気をもって立ち向かう人を、私はあまり知らない。ネットで経歴を調べた。東京オリンピックのときに生まれている。明治大学を卒業し、演劇を目指していた。いろいろなことをしている。声や立ち振る舞いがしっかりとしているのは、下積みの演劇修習時代に習得した結果であろう。基本的に頭がいいから、PCのインストラクターとしてもそれなりに収益を得たはずである。エドはるみさんに対して、本当に頭がさがるのは、ここからなのである。彼女の言葉を借りれば、「ふつふつと湧き上がる笑いに対する情熱を抑えきれず」なのである。もともと、演劇を志願していたから、何かを感じやすく、それを体で表現したかったのだろう。突然、40歳を超えてから、その内なる衝動が、芽吹きだしたのである。色々なところに経歴がしるされている。そこから抜粋すれば、2005年にR-1グランプリに出場し、敗退する。その後、本格的に笑いを勉強するために、吉本興業の養成学校(東京NSC)に最年長として入学したのである。彼女は、年齢とキャリアを捨てて、一からやり直したのである。若手の中に混じっている。芸人の世界には年齢は関係がない。キャリアと年功なのである。まさしく、リストラされた40歳の会社員が、再就職をし、自分よりも10歳も20歳も年下の上司に向かって、さんづけで、呼ぶのと同じ経験をするのである。

 

 根が意地汚いから、出されたものは、ぱくぱくと食べる。仕事がら、接待も多く、栄養価の高いものやアルコールを過剰摂取する。もちろん、若くはないから、基礎代謝が落ちている。運動不足、過食、加齢、この三つがそろえば、体重が増えてくる。コレステロール、中性脂肪、尿酸、血圧、ほっといても、それがあがるのが当然である。40代後半から、肥満になってきた。私の場合、血圧が上がってきたのである。特に、下の血圧値が90を越えだしたのである。医者から血圧の薬を処方された。半年ばかりは、すこし、血圧も安定していたようであった。しかし、問題は、そこから、私の場合には、副作用が出だしたのである。激しい痒みが、胸から肩に起きたのである。医者にいって、3種類も薬を変えてもらった。しかし、一時は、収まるのだが、すぐに痒みが出だしたのである。そして、その副作用は日増しに強くなった。夜中に無意識に体をかきむしっているのである。朝起きたら、血だらけになっていたのである。これは、いかんと、思ったのである。残る手段は、ひとつしか残されていなかった。薬をやめて、体重を落とすことしかなかった。ぐうたらな私でも、さすがに、これは、やるしかなかった。自分の体は、自分で守るしかないと思ったのである。ダイエットするには、食事の量を落とすしかなかった。当時は、まだ40代だったので、根性で、制御した。最大72キロあったのを数ヶ月で63キロまで、落としたのである。170cmの身長であるから、丁度いい、体重である。健康診断を受けても、すべての値が正常値にもどっていた。血圧も問題はなくなっていた。

 

 しかし、人間というものは、自分に甘いもので、気を緩めると、甘い誘惑におちるものである。仕事の流れが変わってきて、再び、接待を受けやすい環境におかれたのである。アルコールは飲む、脂肪のあるものは食べる。さすがに、休みの日の数時間の散歩だけは続けていたので、急激に太ることはなかったが、それでも、だんだんと体重が増えていったのである。毎朝、血圧だけは測っていたので、下が90近く示すようになったのを見て、まずいことになったと思ったのである。体重も67キロ近くなっていた。再び、あの悪夢がよぎったのである。体重を落とすしかないと再びおもったのである。しかし、今回は、前回と違って、思わぬ産物がついてきたのである。体型が、30代前半、20代後半に、もどっていったのである。50代のおっさんが、20代後半から30代前半の体型にスリム化していったのである。どこかへ通ったわけではないのである。器具を買ったわけではないのである。予算は0である。自分の体がすこしづつ、もとにもどるのをみて、これがダイエットの本質だと、気づいたのである。体重も63キロ代にもどっている。

 

 それは、使わない、又は使われなくなった筋肉を動かすことなのである。もちろん、食事の量は落としていかなければならない。それは、基本の基本なのである。そして、一番重要なのは、気合を入れることなのである。それは、腹式呼吸で、わき腹の側筋を使うことなのである。それと、もうひとつ、声を出すこと、もっと、いいことは、高音を意識して発声することなのである。

 暫定税率が復活すれば、ガソリンは、一気にリッター30円近く、高騰する。交通機関のないところは、車を乗らなければ生活が出来ない状況である。ドアーツードアーの宅配サービスや郵政民営化等で、時間も競争のひとつになった。3日後につくのと、一日でつくのでは、一日でつくほうを選ぶ。ますます、車社会になる。昔は円高になれば、ガソリンの値段も下がった。暫定税率があろうと100円を切った時代でもあった。アメリカのサブプライムローンで、投機でお金をもうけようとしている人達が、石油や食料原料の先物へ資金をまわし、石油や穀物の価格が上昇した。それで、ガソリンの価格が上昇したのである。暫定税率前は、リッター150円前後あったものが、4月以降、廃止されたので、125円前後まで、下がった。大阪では、120円を切るガソリンスタンドもある。

 

 4月の2週目で、多くは、123円で売っていたが、137円で販売しているガソリンスタンドもあった。137円で売っているガソリンスタンドをしばらく見ていたが、一台の車も入ってこなかった。当然に、123円で売っているガソリンスタンドは、車で一杯であった。当たり前の話である。復活すれば、どういう動きになるかは、自明である。ガソリンの価格が高値で固定されたら、燃費のいい車に乗ろうとすることになる。燃費の悪い車から、燃費のいい、軽自動車や小型車にシフトするはずである。仮に100万の車であれば、一台あたり、原価がたとえ0としても、最大利益は100万しかないのである。300万の車では、300万の利益が取れるのである。生産管理やコスト管理からすれば、原価率は、ほぼ一定のはずである。仮に2割であれば、100万の車であれば、80万、300万の車であれば、240万、1000万の車であれば、800万の利益が、自動車会社に転がり込んでくるのである。

 

 これは、あきらかに、自動車会社を直撃するはずである。ガソリンは上がる。給料は上がらず、若者の娯楽の多様化現象がある。自動車会社の収益は、あきらかに落ちてくるはずである。では、ハイブリット化にすすむかといえば、すすまないのである。問題は、生産コストなのである。あの電池を作るのに、莫大なコストが掛かるのである。環境問題やCO2問題があり、単価が上がってくるのである。車は、確かに省エネである。自動車会社は、あくまで、車での話しかしない、しかし、車を構成する部品を作るエネルギーは、公表されていないのである。車を高くしたら売れない、だから、金をもっている人を対象にした高級車にハイブリットを投入するのである。エコロジーではない電池の製造コストでも、高利益の中で吸収できるからである。化粧品とおなじである。あれだけのCMをテレビで打てるというのは、それだけ、高付加価値だからである。つまり、儲かる商品だからである。

 確かに、世の中は不平等なことが起こる。生まれながらにして障害を持っている人、心ならず、病にかかり、その病を背負って生きていかなければならない人もいる。なぜ、あの人がという人が病に倒れることもある。健康に留意していたひとも、唐突に世を去る人もいる。世の中は、自分の力だけで、制御できないこともある。生れ落ちた状態、社会情勢、そのなかで、どうすることもできないことがある。しかし、全部が全部、だめというわけではない。100%、だめだということはないのである。生死を分けるのは、偶然かもしれない、しかし、だめだ、自分はこれで終わりだと、思う人と、なんとか、がんばってみようと思う人の差が、どこかで出るはずである。

 

 人生は、確かに不平等である。一回しかない命である。何かの理由で、視覚を失った人がいる。一生懸命に生きている。すれ違うたびに、「がんばるんだよ」と心の中で語りかける。迷っていたら、手を差し伸べて、誘導してあげる。人として、当たり前のことである。人として、障害を持った人とすれ違うと、心が痛むからである。どうしてあげることも出来ないからである。病院にいけば、難病で苦しんでいる子供がいる。友達と隔離され、あたりまえの学校生活からも置いてきぼりにされる。小児科の先生も看護婦さんもその家族もみんな暖かく子供を見守っている。しかし、病に侵された少年の心ははげしく寂しいのである。治る人もいれば、そのまま、なくなる人もいる。そう、個人としては、どうすることもできないのである。

 

 だから、健常者は、障害者や心ならず病に倒れた人のためにも、がんばらなければならないのである。それが、命を与えられて、五体満足で生きていられる人の責任でもあるのである。だから、気力を喪失し、自ら病に逃避することは、障害者や心ならず病に倒れた人に、失礼になるのである。

 

 生まれながらにして、どこか弱いところを持っている人がいる。それが、何かのきっかけで、崩れ、病気になる人がいる。それと、違って、本来、正常なのに、自分の不注意から乱れて病になったり、または、現実のつらさにまけて、病に逃避する人がいるのである。

 

 世の中には、それさえも許されなく、ただ、襲い掛かった運命に耐えて、しかも、それに克己して、人生を全うする人もいるのである。そう、大切なのは、気力なのである。それでも、与えられた情況の中で最善の努力をし、前に前に、上に上に行こうとする気持ちが大切なのである。だめだと、思ったら、それで終わりである。最後の最後まで、がんばってみるものである。諦めることはないのである。

 

 生きていられるのなら、生きたくても生きれなかった人のためにも、健常者は、障害者のためにも、がんばらなければいけないのである。そのがんばりの根源が気力なのである。

 阪神タイガースが、416日時点で早くも、7連勝で、貯金を10に伸ばした。一方、巨人は、開幕16試合で、10敗目をきし、84年以来24年ぶりの球団史上3度目の"スピード記録"を作った。残念ながら、これが、阪神タイガースと読売巨人軍の現時点での総合力の差である。阪神タイガースは、39歳の下柳投手が、2年半ぶりの完投勝利をし、一方の巨人は、連日、エース級の上原投手、若きエースの内海投手が、打ち込まれ、首位の阪神タイガースとの差は、7.5ゲームになった。タイガースファンは、当然だと思い、巨人ファンは、あまりにもふがいない成績に憤慨しているはずである。

 

 すべては、結果なのである。もちろん、ペナントは始まったばかりで、今期どうなるかは、分からないが、このままあわてず、選手が有頂天になって、ばらばらにならなければ、阪神タイガースは優勝する確率が高いはずである。一方の巨人は、投打のバランスが悪すぎるが、どこかで、波長が会う時点は、出てくる。そのとき、連勝すると思うが、それでも、再度、投打のバランスが崩れ始め、どこかで、連敗をし、優勝どころか、Aクラスも危ういかもしれない。

 

 情報化やスポーツ科学全盛の時代である。どこの球団でもベストな状況にもっていっている。球団によって、財務のばらつきがあっても、このご時勢である。程度の差はあっても、質的な差はあまりないはずである。150万のカローラと700万のレクサスも、100キロで10分間走行するだけであれば、その費用対効果の差は少ないはずである。それと同じである。もちろん、選手自体の潜在的なパワー(能力)の差も、さほどない。プロ野球を目指し、ドラフトで選ばれ、2軍から一軍の競争に、打ち勝ってくる選手たちである。各球団の選手の物理的な差はないはずである。もちろん、イチローのようなスパースターは別格だが、野球はスパースター一人だけでは勝てないし、それだけでは、高い勝率は残せないはずである。結局、今期の阪神タイガースと読売巨人軍の差は、監督、および、参謀(コーチ)の采配の差ということになるのである。

 

 阪神タイガースの監督は岡田監督、その参謀として木戸ヘッドコーチである。ともに、1985年阪神が日本一になったときに、活躍した人達である。投手のコーチには、そのときの最優秀セーブを獲得した中西コーチもいるのである。コーチ陣は、あきらかに、岡田監督好みの知力に長けた人達で構成しているのである。岡田監督は、楽天の野村監督のように、ロジックをベースにして、作戦を練っているのである。その脇に、自分を固めてくれる信頼のあるスタッフを置いている。守備には、和田コーチを置き、打撃には、広澤コーチを配備しているのである。それと、忘れてはいけないのは、岡田監督は、2軍(ファーム)の重要性を認識しているのである。現役を引退したあと、岡田監督は、現オリックスの2軍監督を務めていた実績がある。阪神タイガースが強いのは、その2軍(ファーム)の監督に、85年の朋友の平田監督を置いているのである。

 

 315日から、後期高齢者医療制度が開始し、保険料が年金から天引きされだした。そして、各地で混乱が起きた。そもそも、この天引きというやり方が、おかしいのである。天引きというのは、先取りである。絶対に取りはぐれがない制度なのである。サラリーマンが、給料から税金を引かれるのと同じである。この制度をつくった人は、実に頭がいいひとである。取るときはとり、還付は、申告である。つまり、人から、金をふんだくるときは、勝手にふんだくり、返すときは、申告してくださいなのである。もし、申告しなければ、もどってこないのである。取るときは、自動的に引き出され、もどすときは、ちゃんと申し出てくださいなのである。そして、一度、手に入れたお金は、自分たちの組織をまもるためのお金として確保する。全体の徴収金額から、自分たちが使いたいお金を差し引いた額をベースにして、配分としての予算を組むのである。

 

 今までは、豊かだったから、それでよかったのである。不公平感が一部であったとしても、全体の豊かさの中で、それが消し去られたのである。微少数者の悲哀は、闇の中に音もなく消されていたのである。道路特定財源から一般化に対しての抵抗、後期高齢者医療制度の推進、公務員改革への抵抗、この国の動きは、あきらかに、ある特定とした人々(階級)を守ることを意味している。階級という言葉は使いたくないが、再度、この階級という言葉が、どうやらキーワードになるようである。昔は、労働者と資本家との階級闘争という言葉が流行した。そのギャップは、ある意味、均質化されたのである。労働しない資本家はいないし、どんな労働者でも、大資本家になる機会が均質に与えられているからである。ベンチャー企業を起こした人は、もともと、労働者だったからである。もちろん、資本家も、倒産すれば、その有価証券は、単なる紙切れになるからである。労働者と資本家は流動化したのである。

 

 しかし、この国では、いや、この国だけではなく、いろんな国で、財務と権力を掌握している組織があるのである。それが役人というものである。後期高齢者医療制度で、誰が得をするか、それは、天引きされたお金がはいり、それを使えるところである。厚生労働省と財務省が喜ぶはずである。後期高齢者医療制度を誰がつくったか、それは、小泉元内閣総理大臣である。郵政民営化の影に隠れて、このような制度を仕掛けておいたのである。役人が役人であり続けるためには、仕事を与えることなのである。消えた年金でも、ちゃんとしていれば、今、している仕事は不必要なものなのである。無駄な仕事をしているのである。その無駄な仕事を、役人は無料奉仕でしているのではないのである。その無駄な仕事に関わる事務代、郵送代、管理代、人件費、すべてが、税金から支払われているのである。そのつけが、後期高齢者医療制度に跳ね返ってきているのである。

 

 豊かな国に生まれて、何不自由なしに生活し、順風満帆に生きてきた人が、社会という壁に激突する。その社会が市場原理の競争の中に置かれている。正しく、乱気流の中にいるのと同じである。今の団塊の世代の人は、社会にでるまで、競争の中に置かれ、そして、そのなかでも、日本という国の中で、連帯して、市場原理の世の中を生き抜いてきたのである。その団塊の世代の人の家庭の中で、豊かに育ってきた人達が、社会の中で、もがくことになるのである。世の中、それほど甘くはない。乱気流の中で、どう生きていくか、しっかりしないと、気流に飲み込まれて、墜落することになるのである。

 

 団塊の世代が残したもの、それは、獲物をとって、食べ残した残骸である。その獲物を食べていたのが、その子供なのである。それが、社会に入ってきているのである。世の中、順番である。陰があれば陽がある。陽の次は陰がくる。団塊の世代は、陰が来て陽になり、そして、定年後、陰となる。その子供は、逆で、陽が来て、陰となり、そして、陽となるだろう。今の若者が、定年を迎える頃、この国がどうなっているかわからないが、もし、この国があれば、陽になっているはずである。

 

 今の10代、20代から30代前半の若者は、これから大変になる。今まで、防波堤で守られていた内海で、舟遊びをしていたのと同じである。えさをつければ、魚がとれる。何かあれば、コンビニにいき、用を足すことができる。情報が欲しければ、携帯で検索すればいいのである。とんでもない世界なのである。その代償として、彼らは未来を失っているのである。それが、当たり前と心の中で感じているのである。長い人生をみれば、社会にでるまでの間、習得しておかなければならない訓練を受けずに、時間に流されているのである。そう、彼らが、そのモラトリアムを終了して、社会に突入する環境は、外海、それも、荒れ狂う世界なのである。外海も、内海と同じであればいい、しかし、時代が変わり、しけになっているのである。それも、日本企業戦士が連帯してがんばるのではなく、それぞれがばらばらで、弱肉強食の世界をいきぬかなければならないのである。今までは、内海で守られていた世界なのである。何かあれば、みんなで守ってくれたのである。なぜ、出来たか、たくわえがあったからである。近隣諸国の人が貧しかったから、その貧しさの上にあぐらをかいて、そこから得た果実を食べ、そして残ったものを蓄積していたからである。

 

 近隣諸国の人達は、豊かに過ごす日本人を憎んでいたはずである。戦後、アメリカ人が豊かに過ごすところを、貧しい日本人が憎しみの目で見ていたのと同じなのである。彼らは、ハングリーなのである。だから、急激に技術を習得し、急成長遂げるのである。その根底には、ハングリー精神があるのである。その間、日本は、太平の世を浮かれていたのである。豊かに過ごす日本人の観光客、特権的に兌換券を行使し、豊かに過ごした在中国の駐在員たち、私もその中の一人だったが、天安門事件前の中国は、あきらかに、貧しかったのである。若かった私でも、日本で支給される海外日当だけであっても、中国では、特権階級並みの待遇が得られたのである。

 「病は気から」といわれる。人間を支えているのは、気力だからである。気力が失われれば、自分を支えられなくなる。つまり、ばらばらになろうとする力が働くからである。水が水であるためには、水の中に、己を保持しようとする力が働く。それが張力とよばれるものである。内向な力である。しかし、それは、水を氷にする力ではない、液体として保持する力なのである。この地球上には、重力があり、気体を地球上に押しとどめようとする力が働く。そのために、つねに大気圧を人間は受けている。水も大気圧を受けている。その大気圧の力に対して、水はほぼ0℃から100℃までの間、液体のままでいられる。水の張力の最大値は、ほぼ、水を100℃にあげたときの熱量と同じなのである。なぜなら、それ以上加えれば、内向きに掛かる張力以上の熱量が外向きに作用するため、水分子はばらばらになり、気体となって、どこかへいってしまうからである。水が消えたのではなく、空気中に気体となって拡散してしまったのである。密閉系であれば、温度を冷やせば、張力が働き、水が出てくるのである。

 

 気力というのは、張力と同じ作用をするのである。人間は、正常であれば、つまり、制御がしっかりとしていれば、体温、血圧、心拍等、ある値を守ろうとする。それが、健康というものである。しかし、人間には脳があり、感情があるのである。それが、知力と気力と体力を生む源である。人間がおかれた状況に応じて、知力と体力と気力のバランスをとり、つねに最適な状況におこうとするのである。それが、命というものになる。人間はつねに危うい状態にいるのである。その最適値の範囲が限られているのである。体温も2℃違えば、命取りになり、血圧も倍になれば、血管が切れてしまうほどなのである。つまり、気力は、最適値を守ろうとしている力なのである。

 

 エネルギーの基本は、ほっとけば、拡散する方向へと動くのである。ばらばらな方向へと動くのである。高いところから低いところへといくのである。人間は、その意味からいえば、不安定な状態なのである。高い位置にいるのである。ほっとけば、ばらばらな方向へ、崩壊の方向へといくのである。人間が一番安定するところは、墓である。それは、死して骨になるのである。そして、骨も風化してどこかへ消えることである。水がどこかへいくのと同じなのである。生きることは、その流れと逆らって、時間を逆流しているのである。だから、宇宙の流れに逆らって、生きるから、時間が停止しているのである。自分から見れば、時間が流れているように感じる。だから、時間が人間の中にうまれるのである。

 

 すべては、ちょっとしたきっかけで、乱れが発生し、制御がおかしくなり、ばらばらになろうとするのである。それが、病である。病気が治るのは復元力があるからである。復元力が作用する範囲があるのである。水が0℃から100℃まで水でいられるのは、張力が内向きに引っ張るからである。その範囲内であれば、水でいられるのである。0℃以下、100℃以上では、水は液体ではいられないのである。それと同じである。

 

 人は、何故、自殺をするのか、それは簡単だからである。現実から逃避するには、その方が楽だからである。世の中は、楽な方向へと流れるからである。坂道を登るのはつらい。しかし、坂道を下るのは楽である。基本はそれと同じなのである。普通は、死にたくはないと思う。病気になり、死の淵をさまよう。誰でもが、生きたいと思う。しかし、体が消耗し、病魔による痛みが激しく、これ以上、耐えられなくなれば、人は生きることを停止する。激流に飲み込まれて、必死に岸に帰ろうとする。水の抵抗、その流れに持っていかれる。それ以上の力を振り絞らなくてはならない。数秒は耐えられる。しかし、いずれ力が尽きて、激流に押し流される。それといっしょなのである。そう、普通は、それでも生きたいと思うのが自然なのである。

 

 自殺する人は、追い詰められるのである。自分で自分を追い詰めてしまうのである。外的条件の力がかかり、追い詰められる。大体、経済的な状況である。借金、債務、その心理的な要素が強い。保険金殺人等はあるかもしれないが、気丈にその重圧を撥ね退けたら、大抵は何らかの道はあるはずである。自己破産や法律的な救済方法は、あるのである。銀行は不良債権でどれだけ債権放棄をしたのか、何百億円以上の損失を出しても、公的な資金援助があるため、なんともないのである。国でも兆の単位の借金があっても平気なのである。役所は、それだけの負債をおっても、誰も、責任をとらないのである。経済的な理由で自殺をすることは、意味がないのである。それでも生きて、すこしでも弁済していく気力が大切なのである。まず、公的なところに救済を申し出ることである。世の中は捨てたものではない。悪徳な弁護士もいれば、善良で正義感の強い弁護士もいるのである。相談すれば、何とかなるはずなのである。

 

 精神的に自分を自分で追い込むことがあるのである。特に若者の自殺は、精神的なものが多く起因するはずである。世の中、ある意味、滅茶苦茶なのである。すべてが、自分の理想の中の仮想空間ではないのである。相手も、自分と同じように、仮想空間をもっているのである。その探りあい、そのキャッチボールが生きることなのである。友情とは、ある意味、美しい誤解、憎しみとは、ある意味、醜い誤解なのである。そう、相手の気持ちなど、100%分るわけがない。自分でさえ、自分の気持ちなど100%分るものではないのである。人は孤独なのである。その孤独に耐えて、がんばることが生きることなのである。ある意味、生きることは、つらいことなのである。生きるためには、食事をとらなければならない。今は簡単に食べ物が入るから良いが、お米をとるのに、農家の人がどれだけ苦労しているか、普段はそれを忘れている。無人島に行き、そこで、食べ物をとるのにどれだけ大変か、経験した人でなければ、その大変さは分らない。勉強するのも、大変である。家族を養うため、社会にでて、どれだけ大変か、そう、それでもみんながんばっているのである。それは、何のためなのか、生きるためなのである。

 

 知力、体力、気力が、3つそろって、企業では上にいく。ただし、このときの条件は、下にいる社員が、おなじように、がんばろうとする気持ちがなければ、課長はまずつぶれる。つぶされるといったほうがいい。課長がつぶれれば、仕事は機能せず、その会社は倒産する。課長の下にいる社員がいい加減では、話にならないからである。約束をまもらない。自分勝手、何か言えば、すぐすねる。現実の世界から逃避するのである。何か言われても、馬耳東風、基本的に、みんなでなにかをやっていこうとする気持ちがなく、さりとて、自分で何かをやるという勇気も能力もない。ただ、それなりに生きている社員がいれば、それを管理する課長は、頭が痛いはずである。

 

 知力も体力も気力もない日本人が増えてきたのである。豊かになりすぎた日本で生まれた人は、がんばろうという気持ちが、起きないのである。己の中にある小さな正義感で、すべてを判断してしまうのである。当然に、今の弱肉競争の世界で、通用するわけがない。だから、病気や心の病に逃避するのである。心因性に起因するものは、自らの欲求に応じて病気になるのである。自分で自己催眠をかけ、病状を作り出してしまうのである。精神疾患は、心の病であるから、基本的に自己申告がメインとなる。気分がすぐれない、胃がもたれる、ふさぎこんでしまう、大体、マイナスのことを言えば、医者は、ストレス性精神疾患とかなんとかいう病名を勝手につけてくれるのである。医者も商売であるから、患者は、医者にとってお客様になる。だから、お金を払ってきてくれる患者(お客さん)に、ちゃんと病名をつけてくれるのである。だいたい、カウンセラーは、先入観をもつから、ちゃんと、なんらかの疾患の大義名分を、カウンセリングを受けた人に与えてくれるのである。

 

 大義名分をつけてもらえれば、楽なものである。お