2008年3月アーカイブ

 日本には、昔、サムライがいた。明治になり、文明開化で西洋化するまで、日本には、サムライがいたのである。サムライというよりも、剣で自分を磨くことを心がけていた人がいたといったほうが適切かもしれない。単に、人殺しのツールとして携帯したのではなく、単に、武士という階級に生まれたから、刀をささなければならないということでもなく、剣を通して、生死や命や人の生き方を見つめていた人達が、この国には多くいたのである。

 

 剣の先にあるのは、死である。剣の刃先で、人の首を落としたのである。おぞましいことだが、戦争中は、剣で、敵を倒したこともあるのである。つい、63年前までは、それはある程度容認されていたのである。剣におぞましさがつくのは、そこに、血の色がつき、その先に、生死観が付きまとうからである。手術のメスも、ある意味、剣である。剣よりも刃先が尖鋭で、すっと、メスを軽く押し当てて皮膚をきれば、ぱっくりと皮膚は避けるのである。メスにおぞましさはない。それは、人を殺すためのものでなく、人の命を助けるために使われるものだからである。

 

 武士は、剣をもった。それを人殺しのツールとしては使わせなかった。そこに、法度(法律)を課し、秩序を守ったのである。剣はひとつの生死感や人生感の象徴となったのである。自分の心に課したひとつの十字架となったのである。だから、強いサムライは、最後まで剣は抜かなかった。抜けば、命がひとつ失われるからである。仮想の世界ではなく、現実の場で、ひとつの命が消滅するからである。だから、サムライは、ひとり剣を磨き、月の光の中に反射する刃先に己の人生のあり方を問いかけたのである。そこに、己はいない、月の光の中に溶け込む己の魂があったはずである。剣が支配していた世界、華道、茶道、武道、弓道、道という芸は、空と結びつき、その場の森閑とした時空間に己の魂をそれぞれの達人は溶け込ませていたのである。考えることはなく、ただ、呼吸を整え、流れいく、時空間の一瞬一瞬に、己を解放していったのである。だから、日本の芸は、すべてに、この世の時空間のありさまが投射されているのである。己の欲をすて、己の生死もすて、あるがままの一瞬の状態をその芸に集約させたのである。

 

 戦後、日本が世界に勝てたのは、その魂の継承があったからである。己の欲望だけで動いたのではなく、あるがままの状態を直視した結果、そのとき、何をすればいいか、何がその状況では必要かが、みえたはずなのである。明鏡止水の理のように、視線を空気と水の界面に合わすのではなく、水のゆらぎに心を合わしていけば、水の奥にあるものが、見えたはずなのである。人から言われるのではなく、自分で企画し、自分で交渉し、自分で絵柄を引けたのである。総合商社も製造メイカーも、戦後の貧しさから国民をすくうために、自分を空として、がんばったのである。そこに、己の栄達もあったろう、しかし、うまくいった人は、けっして、自分の栄達やエゴを満たすためにやったのではないのである。みえたからやったのである。詰め将棋で、つんだ絵姿が見えたから、動いただけである。そして、それを支持して、支えてくれた人達が銀行にも商社にも政治家にも官僚にもいたのである。日本は、それで大きくなったのである。

 水と油は、基本的に混ざり合わない。分子間の結合状態の違いとそれぞれの結ばれかたが違うため、凹凸の形があわないのである。そのために、混ざり合うためには、両方の性質を兼ね備える両親媒性的なものが必要になる。それが、界面活性剤と呼ばれるものである。化粧品や食品や医薬品の脂溶性(油)を水の中に取り込むためには、天然のものでも合成のものでも、界面活性剤が使われる。界面活性剤がフリーと呼ばれているものは、油の粒子を微細にして、それが、ぶつかって、凝集しないような、手立てがされているのである。ある程度、キーになる物質の特性が分かれば、"なるほどね"と中学生でも分かるものなのである。基本は、単純なのである。複雑にみえるのは、物事を複雑にみようとする人間の性質から来るのである。

 

 人は、どこからか生まれてきた。精子と卵子が結合し、ひとつの命が生まれる。その精子と卵子は、人の体内から生じるものである。それも、基本的にどうしてなのか、わからないのである。ひとついえるのは、この宇宙、我々の外部にあるもの、それを森羅万象といえば、その森羅万象から出てきたのである。この宇宙が、ビックバーンで、どこからかぽつんと出てきたと同じようなものである。そして、人間を形成している力が維持できなくなれば、人間の体は、ばらばらになり、いずれ、この森羅万象の中に、溶けることになるのである。そう、なくなるのではないのである。溶け込むことになるのである。化粧品でも医薬品でも、可溶化という言葉がある。溶けないものでも、溶かすことができるのである。水の中に、液体の油を溶かし込むには、液体の油を油として構成している力(内向きに引っ張り合う力=張力)以上の力を掛けて、超微細にばらばらにして、そこに、微細になった油どおしの接触を防ぐようにすれば、油は水の中に溶けたままでいられるのである。エネルギーを低い状態に保てばいいのである。人間の命もビッグバーン宇宙も、基本的にそれと同じ構造であるように感じる。

 

 基本は、エネルギーが高いか低いかなのである。そして、人はエネルギーの低い状態から、微細な細胞が集まって、力をもち、外部からのエネルギーを獲得し成長する。エネルギーが高い状態を人は求めるのである。それが生きることなのである。そのエネルギーのピーク値が20代であり、そのあと、徐々に減衰し、いずれ、もとの状態に変えるのである。無から有がうまれるのではなく、無の中に有が溶けていたのである。その溶けていたものが何かのきっかけで集まり、ぽっかり出てきたのである。ビックバーンで生じたこの宇宙もたぶん、同じであろう。そして、心もまた同じようなものである。自我というもの、自意識も、自分の中にある心のもと、たぶん、光量子であろう、それが、多量に集中した結果、ひとつの考えをもつ。強くなりすぎれば、自分という強いエゴをもつ。それが、さらに巨大に集中すれば、乱れ、発狂し、暴走する。

 

 桜が咲く季節になった。大阪も、三部咲きの状態である。場所や個体差によって、ばらつきがある。まだ、数輪の花をつけていて、あとはつぼみの桜の木もところどころある。見ごろは、44日前後になるだろう。4日、5日の夜は、花見で一杯で、桜の名所や桜が咲く公園は、人で混雑するであろう。

 

 それにしても、咲いてみれば、いたるところ、桜だらけだとわかる。ソメイヨシノを筆頭に、しだれさくら、陽光さくら、かんひさくら、おかめさくら、おおしまさくら、ソメイヨシノが散った後にさく、さとさくら(八重桜)等、目白押しである。もちろん、うめやあんずも桃も桜と前後して奇麗な花を咲かせる。3月後半から4月の中旬まで、約一ヶ月の間にバラ科の花が咲く。日本で一番美しい季節でもある。ソメイヨシノを見ていると、日本人の先人が、この樹木をどれほど愛したかが分るのである。ソメイヨシノは、おおしまさくらとえどひがしを交配させて作った園芸品種である。自生していたのではなく、江戸時代に人間が作り上げた桜なのである。これほど、たくさん直裁されているさくらも珍しい。それだけ、ソメイヨシノは日本人の祖先(先人)が、こよなく愛しつづけてきた桜なのである。

 

 ソメイヨシノの花の命は、あっけない。咲くうちから散っていく。だから、満開という状態はない、満開のように見えても、先に咲いた花はすでになく、まだ、つぼみの桜の花もある。ちょうど、正規分布に近い状態である。あっけなく、咲き、あっけなく散る。ソメイヨシノが美しく見えるのは、花が葉よしも先に開くからである。枯れた枝につぼみがやどり、一斉に花が咲く、そして、散りかけたころ、葉がでてくる。

 

 桜が咲くころ、先人は、一体何を思っていたのだろうか、平和に仲良く暮らせるようにと願ったはずである。しかし、逆に日本は豊かになりすぎた。桜のように、散華していった若き特攻隊員の希望した国も一時の幻のように消えて行った。戦後、豊かになりすぎ、心が慢心になり、利己主義に走ってしまった。若者は安易に生きることを選択し、自ら苦労をもとめ、汗をかくことを嫌った。そのために、優柔不断の逃避型の人が増えた。与えられたことはこなす、しかし、自ら創造し、チャレンジして、困難を乗り越えるようなことは嫌うようになった。大きな政府で、護送船団方式や年功序列制度のなかでは、そのような人も社会が救えた。しかし、市場経済になり、弱肉強食の世界である。そして、ハングリー精神で果敢に挑戦しようとする中国やインドの若者が出てきたのである。そんな人たちにサムライの精神を失った日本の大人が勝てるわけがない。

 

 新学習指導要領に「わが国と郷土を愛する」ことが盛り込まれ、君が代についても、「歌えるよう指導する」と明記されたのである。愛国心、それは、ひとつの言葉としては、美しい。新学習指導要領で、「わが国と郷土を愛する」と特定されているため、それは、まさしく、日本を愛する心となる。日本を愛する心を育成するためには、日本人が本当に愛せるような国を作ることがまず必要であり、その国を愛せるような日本人を生み出せる環境を作ることが、まず大切である。

 

 くだらないものを、強制的に愛せよと指導しても、まさしくそれが本当にくだらないものであれば、形だけの修飾にすぎなくなる。昔、一億総玉砕、と叫んでいたが、だれも、本気で一億総玉砕など考えていなかった。だから、1945815日、その強制が解けて、アメリカが入ってきたら、それ以前は、鬼畜米英だったのが、それ以後、親米と一変したのである。

 

 愛国心、それは、美しい言葉であり、当然なことである。しかし、それは、愛するに値する国であれば、おのずと愛するのである。愛せよといっても、愛する価値のないもの、愛したくないものであれば、そこに愛など生まれるわけがないのである。愛する気持ちもないのに、愛するフリをされるほど、辛いものはないのである。

 

 文部科学省の役人も、一人の人間、文部科学大臣も一人の人間、福田総理も一人の人間、アメリカの大統領も一人の人間、アフリカの砂漠で働いている人も一人の人間、橋の近くで生きているホームレスもひとりの人間、それぞれが、命を受けて、生きているのである。人が生きる上で、生きているという点では、同じなのである。何もなければ、みんなが平等であり、そこに階級や差別も何もないのである。本来は、人が人を支配する根拠などなにもないのである。そこにルールを作ったのは、人間なのである。もちろん、人間がいなくなれば、何も残らなくなる。繰り返す。人が人を強制し支配する根拠は、本来は何もないのである。文部科学省の役人も、ただの一人の人間、その視点に立てば、その人が何かを選びたいと思ったら、最終的にはその人の考え方が現れるのである。そこに何の本質的な根拠もないのである。その人がそう思っているだけなのである。

 

 それと同じように、愛国心や君が代を学習指導にいれて、洗脳させても、一人ひとりがそう思わなければ、意味がないのである。文部科学省の役人は、この国のひとりひとりがこの国のありかを自発的に愛せるようなものであると、感じているのだろうか。異性を愛するのとおなじなのである。戦後、この国のありかを決めたのは、結局、官僚なのである。政治家は、権力闘争に明け暮れているだけである。今の状態をつくったのは、官僚機構、そのものなのである。教育のあり方を決めたのも、官僚であり、年金のありかを決めたのも官僚なのである。細部にわたる網の目を作り上げたのは、官僚なのである。

 痛ましい事件が起きた。18歳の少年が、25日の深夜JR岡山駅で、岡山県職員、仮谷国明さんを電車が入る直前にホーム下に突き落とした。仮谷さんは、電車に巻き込まれ数時間後に死亡した。少年は、「人を殺せば刑務所にいける。誰でもよかった。」と供述しているのである。殺された仮谷さんには、小学校1年と幼稚園の姉妹のお子さんがいるのである。当然に、この少年には、自分が突き落とした人に、家族がいて、その家族がどんな思いをするかなどと、想像することができない。ホームの一番前の人の背中を無言で押せば、押された人の命がどうなるのか、その一押しで、仮谷さんに関わっている人達の今後の人生がどう変化するのか、それさえも、理解していないのである。当然に遺族は、はらわたの煮え返る思いを抱き、少年を恨むことでしか、この現実を直視できないはずである。特に、幼い姉妹にとって、愛する父親を殺された思いは、永遠に残るはずである。遺族に重い十字架を背負わせたのである。悔しいはずである。「誰でもよかった」その言葉は、あまりに残酷すぎるからである。永遠に、何故、それがおとうさんだったの、おとうさんでなければならなかったの、その苦しい自責の問いかけが姉妹には残るからである。

 

 加害者の父親は、勇敢にもマスコミの前にでて、ひたすら頭を下げ続けた。さらに、「他人に迷惑を掛けるなら、自分を傷つけてくれれば、」といい、自分の息子の行動は、許せないといい、謝罪続けたのである。他人を殺すくらいなら、自分の命を絶てと間接的にいったのである。そうなれば、自分ひとりが、息子の死に耐えればいい、加害者の父は、殺した仮谷さんの遺族の悲しみまで、贖罪として受け持たなくてはならなくなったのである。

 

 もはや、自閉する孤独の少年には、行き場所がないのである。人を傷つけて、刑務所にはいり、現実から逃避するか、それか、自ら命をたって、この現実から逃げるかしか、のこされた道が、なくなったようである。茨城の荒川沖の無差別殺人も今回のホーム突き落としも、予知できないのである。あっと思った瞬間に、地獄に叩き落され、意識がなくなるのである。その人に憎しみや怒りがあるのではないのである。だれでもいいのである。神様がサイコロ遊びをして、決めるようなものである。はっきりいって、防ぎようがないはずである。明日はわが身、町を歩いていたら、突然に殺されるのである。うかうかと、町も歩けない状態である。また、ホームにいて、電車が入りかけたら、回りにだれかいないか見なければならない。新幹線のように、転落防御壁をつくり、電車がきたら、あくようなものを作る必要があるかもしれない。

 

 これから、このような事件が続く。孤独で、人と連帯・共鳴ができず、自分の自我の中に引きこもる少年が増えるはずである。ブラックホールなのである。心と体は、生殖を営み、社会に適応するように、自然と熟成される。そのためにエネルギーがたまるのである。これは、生き物の自然の生態であるから、どうすることも出来ない。そのエネルギーが発散できなければ、内向きの強い力となるのは、当たり前なのである。そのエネルギーがつよく、心に作用すれば、自殺するし、そのエネルギーが一瞬、外に開けば、噴火と同じように、激しい他者否定となるのは、わかりきったことなのである。爆発暴走を抑えるために、どこかでガス抜きが必要になるのである。

 

 もはや、福田政権は、末期症状にある。何も、決められず、何も、この国の方向性も示すことができず、水泡に帰す寸前の状態である。逆に、これは一本道なのである。ある意味、必然なのである。この国が、市場経済の中で、外圧に押しつぶされてしまったのである。ちょうど、NHK大河ドラマの篤姫の時代背景となる黒船来襲が、バブル崩壊時にやってきたのである。まったく、時代背景は異なるが、本質は、まったく同じなのである。

 

 黒船来襲までは、日本は、江戸幕府のもと、それなりに動いていた。鎖国がしかれ、士農工商の身分制も、維持されてきたが、江戸の貨幣経済の下、身分制度はそれなりに変化していたのである。農民が武士になることもできれば、武士が浪人となり、商人や農民になることもできたのである。それなりの秩序があり、農民も、生きるために、一揆を企てることも可能であったのである。それが、黒船来襲から、大政奉還になり、明治維新となり、文明開化を迎えたのである。秩序が変革するときは、混乱が起きるのはやむを得ないのである。幕末の騒乱は、近代の日本の歴史の中で最大の乱れであったはずである。

 

 自民党政権とは、大きな政府だったのである。小泉政権前までは、日本に秩序があり、経済はそれなりに回っていたのである。税金をつかっての公共事業であり、医療制度であり、銀行にしても護送船団方式で、中央政府(官僚)の許認可のもと、市場は守られていたのである。まさしく、江戸時代の鎖国と同じだったのである。薬価が定まっていたため、医薬品会社は、国から守られていた。そのために、医薬品会社は、何かあるたびに、機械を町工場へ発注し、機械を購入していた。その分のお金は、薬価で回収していた。その薬価は、国が製薬会社に還元していたのである。税金を集め、それを企業に還元し、その企業がその地域にお金を落としていたのである。道路や土木もまったく同じである。それで、日本は均質化していたのである。あのとき、日本はほとんどの人が中流階級意識をもっていたのである。そして、それが崩れ去ったのである。

 

 そのひずみの原因を生んだのが、官僚や政治家のエゴや自己保身なのである。賄賂、横領、天下り、利権、自分たちの利権を最優先に考えたのである。公平や正義を忘れ、自分たちの組織をまもろうとしたのである。そして、それを打破しようとしたのが、小泉政権の構造改革なのである。これで、日本のバランスの取れていたシステムが崩れたのである。それで、完全に日本の息の根が止まったのである。日本の秩序が壊れ、ハゲタカファンドを呼び込み、日本の人と金が海外に流れたのである。それにより、成金主義が跋扈しだしや商業倫理がなくなり、共存共栄から弱肉強食へと移行したのである。それでも、庶民は、変わりつつある体制で生き延びるたびに、知恵を出して、がんばっていたのである。

 金川容疑者の顔写真をニュースやネットでみた。髪を短く切り、トレーナージャケットを着こなしている。端正な男である。確かに、人は見た目では分からない。彼の心に、無差別殺人を起こせるものが、潜んでいるとは、一目見てそうは思えない。それにしても、金川容疑者は、とんでもないことを供述しているのである。19日に三浦芳一さん(72歳)を殺害した日、当初は、妹を殺そうと思っていた。妹がいなかったので、それをやめ、母校の小学校の方へマウンテンバイクに乗っていった。学校で誰かを殺そうと思っていたのである。当日が卒業式だったので、殺害できないと考え、それも取りやめた。そこから約200m先の三浦さんの家を通りかかったとき、そこの物置に三浦さんがいたので、「たまたま見つけ、背後から襲った」といっているのである。「三浦さんとは面識がない。誰でもよかった」と金川容疑者はそう供述しているのである。

 

 それが、319日に起きたことである。金川容疑者は、19日の行動を具体的に供述しているのである。たまたま、偶発的に、三浦さんを殺害したのではない。それには、複線があったのである。そうなると、319日という日にも、何か意味があるかもしれない。彼だけにとって、319日というのは、彼の今を決定付けた日なのかもしれない。それに、キーワードは、「妹」と母校の小学校である。そして、「殺害」なのである。彼だけのどろどろとした心に、3つのキーワードが燃えていたのである。「319日」、「妹」、「母校の小学校」、「殺害」、それと、殺された三浦芳一さんとは、何の関係もない。彼の供述どおり、たまたまなのである。そういう金川容疑者と三浦さんが、ほんとうに、偶然にも遭遇し、不幸にも殺されてしまったのである。

 

 そして、23日、この日にも、何か意味があるのかもしれない。「捕まえてごらん」という警察に挑戦しているように見える態度、それに無差別殺傷、まるで、最後のゲームを楽しんでいるかのように感じる。そして、無人の交番に行き、自首した。逃亡しようと思えば、出来たのである。彼はそれをしなかった。どうも、23日に、彼はゲームを終わらせたかったように感じる。この日で、自分を終わらせたかったとしか、考えられない。2008323日に、ゲームの最終段階に行き、そこで、締めくくりたかった。彼だけの心の中に323日という日が、何かのインパクトのある日として、植えつけられていたのかもしれない。

 

 金川容疑者は、殺人罪として起訴され、裁判を受けるだろう。検察は、死刑を求刑するだろうし、弁護側は、心の闇や仮想空間という幻覚症状を、根拠として、心神耗弱をもとめ、減刑を求めるはずである。検察も弁護側も、精神鑑定を要求するはずである。専門家が、彼の心の闇をどう分析していくのか、その中で、上記にあげた4つのキーワード「319日」、「妹」、「母校の小学校」、「殺害」がどう関連づけられるか、知りたいところである。

 23日、午前11時ごろ、茨城県土浦市の常磐線荒川沖駅で、両手に刃物をもった金川容疑者が、通行人の男女8人を次々と刺したのである。そのうちの一人が死亡、二人は重体なのである。この犯人は、19日に土浦市の三浦芳一さん(72)を刺殺し、全国に指名手配中の犯人だったのである。あまつさえ、警察に「早く捕まえてごらん」と電話をかけているのである。そして、県警総動員で、金川容疑者をマークしており、当日も荒川沖駅に、8人の捜査員を配備していたのである。さらに、8人を無差別に殺傷した犯人を警察は自力で逮捕できなかったのである。金川容疑者は、悠々自適に犯行を重ね、その後、駅西口から300メートル離れた無人の交番にいき、土浦署に「私が犯人です」と連絡したのである。警官が駆けつけた時は、凶器は投げ出しており、無抵抗状態だったのである。

 

 県警の大失態というのは、犯人を捕まえられなかったことなのである。8人も私服の警察官を配備し、厳戒態勢を強いていたにも関わらず、誰も犯人の犯行を止められなかったのである。もし、この犯人が、逃亡し、第三の犯行に及んでいたら、県警本部長の責任問題まで及んでいたはずである。繰り返す。金川容疑者が、阿鼻叫喚となった現場から逃走し、警察の裏をかいて、また西口にもどり、300m先の無人の交番まで行ったのである。そこで、土浦署に電話をかけたのである。それを許したのが、県警の最大の失態であり、汚点なのである。確かに、通り魔的な犯行であり、最初の犯行は、不可抗力もあるだろう。県警は、電車が到着し、その人の流れに気を囚われすぎて、見過ごしてしまったと言い訳をしている。それも、ある意味、避けられないかもしれない。しかし、金川容疑者が、最初の犯行を行った瞬間に、事態は一変したはずなのである。金川容疑者も通行人の人もすべてがパニック状態になったはずである。意味不明な言葉、救命をもとめる叫び、恐れの叫び、その一瞬から数分間、あたりは、怒号うずまく修羅場となったはずである。ひとりの捜査官は、犯人に刺されているのである。後の7人は一体何をやっていたのか、現場に急行し、犯人をコンコースの中で、確保すべきなのである。すべては、一瞬であり、後手・後手に回ったというしかないのである。それを許したため、犯人は、東口に駆け抜けて、そこでも人を刺しているのである。死亡した山上高広さん(27)は、ショッビングセンター近くで刺されたのである。

 

 犯行前日の22日の午後には、荒川沖周辺から携帯談話で、「早く捕まえてごらん」と大胆にも警察に電話をし、また、JR取手周辺からも無言電話をしているのである。県警は170人体制をしき、警戒をして、荒川沖にも私服警官を8人配置していたのである。まったく、県警の捜査体制が、金川容疑者の行動をつかめなかったのである。ゲームマニアでありやネット社会で生きてきて、ある意味心が病んでいる犯人に県警は対応できなかったのである。旧態依然の捜査体制をとり、官僚組織の指揮系統をはり、縄張りと県警のプライドだけで、網を張っていたはずなのである。

 この国のシステムが、やっと、大きく変わろうとする。たぶん、これが、世の中の流れであろう。日本は、閉鎖された世界の島国であった。今、NHK大河ドラマで放映している篤姫の時代であった。黒船が来襲し、そこから、歴史は一変した。世界との関係をもったのである。今から約150年前のことである。そこから、倒幕が始まり、明治維新となり、富国強兵となった。それが、1945815日で、幕となった。そして、戦後復興、高度成長、バブル期、バブル崩壊、IT革命、ITバブル崩壊、そして、エコロジーと進んできた。政治も紆余曲折があった。選挙制度も大幅に変わってきた。しかし、昔から、少しも変化がないシステムが日本にはあったのである。戦国時代を除き、奈良に都が出来たときから、今まで、ずっと温存し、脈々と受け継がれた彼らにとっては都合のいいシステムがあったのである。それが、律令体制なのである。今の言葉で言えば、官僚政治なのである。税(金)と許認可の権限をもつところの支配体制なのである。

 

 体制が変わっても、そのシステムは、同じなのである。貴族による官僚体制、武士による官僚体制、軍人や軍閥による官僚体制、そして、役人による官僚体制、そのメカニズムは同じなのである。大衆から、税(金)を強制的にとり、その金を分配する権限を利用して、その体制を維持してきたのである。もし、我々が税金を払わなかったら、一体どうなるか、役人がやってきて、金をはらえといってくる。払わなかったら、強制執行がかかり、ふんだくられるのである。それでも抵抗したら、捕まるのである。税金がなくなれば、役人が生きていけなくなるからである。役人の収入は、税金だからである。

 

 政治家も、選挙で選ばれる。選挙で落ちればその身分は失われる。民間の会社勤めでも、身分の保証はない。会社がつぶれればそれまでであるし、解雇事由にあたれば、くびである。役員も、株主総会で、承認されなければ、くびである。個人事業主も、商売がなければ、路頭に迷うだけである。そう、この国では、何もしなくても、安泰なのは、役人だけなのである。民間は、働くこと、利益を上げることに貢献しなくては、お金はもらえない。その収入を確保する経済活動をしなければ、生きていけないのである。しかし、役人は、それがない。民間の人が一生懸命働いて、稼いだ金の一部を税金として徴収し、悪い言葉で言えば、ピンはねし、それで、生きているのである。身分保障されているのは、役人だけなのである。これほど、楽して生きれる仕事はないのである。そして、一度、役人になれば、それを外部から解雇させられるシステムは、簡単にはないのである。役人を監督し、それを是正し、懲罰をかけるところもまた役人なのである。すべてが、同じ穴のムジナ構造の中で、ごまかしているのである。

 

 あの、天性の笑顔、どこに、あの精神力があるというのだろうか、浅田真央ちゃんの演技をみていると、日本人女性のスポーツ界における精神力の強さを感じるようである。マラソンの高橋尚子選手、野口みずき選手、スキーモーグルの上村愛子選手、それに、フィギュアースケートの浅田真央ちゃん、体力的には、欧米の人に落ちる。しかし、世界に通用する若い日本人女性の特徴は、強靭な精神力にあるのである。別な言葉で言えば、不動心なのである。

 

 浅田真央ちゃんには、一切の迷いが見えないのである。心の不安がどこかで、体にでるものである。それが、見ている人にはわかるのである。フィギュアースケートの評価点は、演技の難易度をこなすことだけではなく、演技をおこなう時間における、体の流線の美しさにもあるのである。芸術性である。難易度の高い演技をして成功した、たんに、それだけではなく、その成功した演技と次の演技とが、連続的にながれなければ、そこに美しさがでないのである。浅田真央ちゃんは、流れているのである。そこに、一切のよどみがなく、音楽のリズムと体の動きとが見事にあっているのである。前日のショートプログラムも、自信をもって、演技をしていた。そこに、技の美しさもさることながら、技と技との間での、間の美しさが群を抜いていた。フリーでは、最初のトリプルアクセル3回転半では転倒してしまったが、その後の演技をあわてず、こなしたため、見事優勝したのである。これは、練習の成果である。我々の前には、にこやかにわらうかわいい真央ちゃんしか、見せないが、フリーの演技をみて、失敗しても、あわてず、心を入れ替えて、演技をつくれるには、人しれず相当練習し鍛錬したのだと、感じたのである。あっぱれである。

 

 精神力とは、そのような失敗の場で本領発揮されるのである。誰でも、ちょっとしたきっかけで、バランスを崩すこともある。すべてが、100戦100勝、100%完璧などありえないのである。うまくいくときもあれば、そうでないときもあるのである。普通は、冒頭で、転倒すれば、あわてて、体と心がずれてしまうのである。フリーの演技開始時に、真央ちゃんもすこし欲をだしたのである。心のどこかで、綺麗に完璧に演技し、金メダルを取ろうとちらりと感じたかもしれない。それが、どこか心の片隅に残っていたのかもしれない。それは、人間として当たり前なのである。緊張もあったろう、それが、うまくいったときは、前日のショートのように、完璧にこなせるはずである。しかし、それが、フリーの場合どこかにのこっていて、回転の途中で、微妙にバランスがくずれたのである。心に欲をどこかで出したからだと、感じるのである。もちろん、それが、人間としては当たり前である。その心が抑えられれば、出てこないし、出てきたら、どこかでバランスが崩れるのである。それが、結果として、減点対象になるかならないかになるのである。

 

 急激な円高になった。原因は、アメリカのサブプライムローンに対する市場の不安感から生じた。ちょっとしたきっかけで、全体が反応した。金融や株式という仮想空間でのゲームの参加者が増えれば、カオス的な動きは、突発的に発生する。しかし、それは、どこかで、収束するものである。なぜなら、ゲームの参加者は、コンピューターを駆使し、同じ考え方で、勝負をしているからである。ゲームの参加者のN数が増えてくれば、全体的には、ほぼ常識という平均値に収束するからである。トレンドの方向に動くのは、ゲーム参加者が同じ考えでいくからである。全体がだめだと考えれば、下降するし、全体がいいと期待できれば、上昇する。複雑にみえることでも、参加者が人間であり、最近は、コンピューターであるため、より一層、その傾向がみえるはずである。そう、コンピュータープログラムの博打に対する考え方が同じだからである。

 

 常識的に考えれば、わかるのである。ゲーム参加者は、誰でも損したくはない。損したくなければ、しなければいいのだが、この市場経済のメカニズムが確立された以上、そこから逃避して経済活動し生きることがもはや不可能になってしまったからである。だから、それで、金融や株式という幻想の市場で、利益をあげようとしなければならない。ばくちと一緒である。さいころ賭博の半(サイコロの目の奇数)か丁(サイコロの目の偶数)の考え方に近いのである。半と丁は、必ず相関する。半がでれば、丁はない。そこに、必ず、損益の裏返しがある。半に全額を掛ければ、1/2の確率である。半と丁に半分半分掛ければ、損益は発生しない。手数料は取られるかもしれないが、その利益が証券会社や銀行の収益になる。それが彼らの仕事でもある。後は、その半と丁にどれだけの比率でかけるかなのである。サイコロでは、平均化されるが、もし、半が出やすい条件と何かの条件との相関が分かれば、そこにまた危険を分散させればいいのである。ありえない話だが、サイコロを振る人がすごい能力があり、ある程度のサイコロの目を振り分けれる人だと仮定する。つまりN数が多くなったら、普通は半と丁は50%づつになるのだが、この人は、55%、半を出せる人だとする。もし、この人は、雨がふったら、半を出したいとおもっていたら、半が出やすい確率と天気の雨とが相関することになるのである。

 

 それが分かっている人がいれば、雨が降って、この人がサイコロをふるなら、半に55%、丁に45%の比率でお金をかけるほうが確実なのである。確かに大きな比率ではもうからない。しかし、手持ちのお金が巨大であれば、確実に手に入るお金の額も大きくなるのである。

 

 円高になった。一時、株安になる。それは、円高と輸出関連の会社の業績とが相関するからである。人がそうおもうからである。円高に拍車が掛かったのは、株をうって、円を買ったからである。よく考えればわかることである。全体の量(パイ)は、変わらない。まったく、天気と同じなのである。地球にかかる気圧は一定である。しかし、地球の自転公転により、太陽からの光で地表や海面での温度変化(差)が生まれるために、気圧の高低差がいたるところで発生するのである。それと同じである。高いところから低いところにものは移動する。しかし、慣性で行き過ぎても、時間がたてば、落ち着くところに落ち着くのである。その移動の変化が変動する景気の波となるのである。

 検察は、死刑を求刑していたが、結局は、無期懲役の判決だった。死刑と無期懲役の差は、最終的には、裁判長の判断でしかない。藤井裁判長は、結論から「介護や母子家庭の不安など、精神の安定を欠く状況での衝動的、突発的な犯行」と2件の児童の殺害の計画性に関しては、それを否定したのである。そこが、死刑と無期懲役の境になった。少なくとも、わが子の彩香ちゃんと豪憲君の殺害における殺意と責任能力は、認め、「わが子、友人の男児を相次いで殺害した凶悪な事案」と事件の概要に対して、そう認定したのである。

 

 「複数を殺害すれば死刑」それが、一般的な事例であった。しかし、それも、裁判長の判断で、左右される。一般的に、動機、犯行の状態、計画性の有無、被害者の数、遺族の被害感情、社会相当性、社会の正義感等、色々な要素がある。それを踏まえて、死刑以外の選択肢がなければ、死刑が妥当ということになるのである。最終的には、被告と裁判長との心の対話にならざるを得ないのである。そこに、人が人を裁くことのあいまいさが残るのである。「被告の心の動き」が、無期と死刑を分ける分岐点だったのである。どちらかが、控訴するかは分からない。しかし、検察側は、死刑を求刑したにもかかわらず、それを認めなかったのであるから、検察側から控訴することになるだろう。

 

 死刑、人を殺したのであるから、それを死で持って償えというのは、等価交換原理からしてみれば、当然である。そこに、残虐性や計画性やその犯行の状況をかんがみ、それしか選択肢がなければ、裁判長は死刑を下す。当然の帰結なのである。ある意味、主観を入れる要素は、本来はないのである。もし、別な裁判長であれば、今回の事案に対して、計画性までも認め、死刑の判決を下す可能性もあったのである。一審では無罪が、二審で、一転有罪、その逆もあるのである。それを司法の独立性という言葉で、許容してもいいのだろうか、被告の命も、裁判長のさじ加減で、変えられていいのだろうか、それは、犯行を犯した人の運命は、裁判長の判断で変わることを意味する。三審制をとっているので、最終的には、最高裁判所がどう判断するかに掛かっている。死刑と無期懲役の境である。それなりの重要な事案なのである。今回も、結局、最高裁判所まで、最終結論は持ち越されるはずである。心に引っかかるところである。

 

 結局、人が人を裁くことの限界がある。冤罪もあれば、不当な判決もある。もちろん、妥当な判決もある。社会が求めているのは、犯人に厳罰を処することではない。犯人を作り出さない社会を求めることである。そして、不幸にして、犯行が起きた場合、犯行前、犯人と被害者がどういう状態でいたかが、重要なポイントになるはずである。被害者が犯人にどうしても殺されなければならない立場であれば、だれも、その犯人に対して、死刑を求めない。死刑を求めるのは、被害者が犯人に殺されなければならない立場でないと判断したとき、死刑を減刑する要素が一切認められないとおもわれたとき、そこに死刑の妥当性が認められるはずである。

 佐賀県武雄市の病院で、昨年の11月、入院患者の宮元洋さん(34歳当時)が暴力団関係者と間違われて射殺された事件で、殺人罪等で起訴された暴力団組員の今田被告の初公判前に、誤射で殺された宮元さんの奥さんの篤きさんが手記を公開したのである。

 

 私は、それをネットで検索し、読んでみた。被害者の哀しみが、文章に現れていた。これ以上、何もいうことはない。私も人の親である。そして、親に育てられた子でもある。あふれる涙を止めることが出来なかった。

 

 間違われて射殺された宮元さんには、何の落ち度もないのである。そもそも、犯人とは関係がないのである。残された遺族の気持ちを想像するだけで、やりきれなくなる。これ以上、ここで書くことはない。

 

 奥さんの手記はとてもいい文章である。これがすべてである。お幸せになってもらいたいと影ながらおもうだけである。

 

「 あれから4カ月が経ちました。あの日の朝、病院で無念の死をとげた洋君は、司法解剖などに時間がかかり全部を終えて、家に帰って来たのは夜も遅くでした。それから通夜を迎え、弔問客がお帰りになった後、私たち家族は洋君に取りすがって過ごしました。まんじりともしない時間でした。そのうち10歳になる長男が洋君の掛け布団の中に入り、直接洋君の身体にすがり付きますと9歳の弟も同様に掛け布団の中に入り、洋君の頬を撫で手を繋ぎすすり泣きました。そのまま私たちは朝になり葬儀会場へ行く時間を迎えました。

 

想えば、あの夜が、私達親子4人で水入らずで過ごした最後の夜だったのです。今はすがろうにも遺体もありません。

 あるがままの状態をあるがままに受け入れられない。それが、中国なのでしょう。昔から、中国は三国志の世界である。それが、今でも生きている。我々は、戦後の感覚しかない。中国と接触をもったのは、鄧小平氏の開放政策以後である。どんどん、市場開放し、あたかも、我々と同じ感覚の国家だと感じている。しかし、今でも、中国共産党の一党独裁が続いている。もちろん、国家の体制を脅かすものは、いかなることがあっても、許すことができない。逆に、そうしなければ、それぞれの深い民族意識から、ひとつにまとめることが出来ない。もともと、違う民族が、力によって、結合しているだけの国家に過ぎないのである。それが、国家権力であり、その背後には、武力、つまり国家の軍隊が控えているのである。日本も、60年代、70年代、学生運動が激しかった。それは、あくまで、イデオロギーの差であった。その温度差は、経済や情報の均質化によって、薄められた。だから、日本では、その激しい対立は、消えたのである。日本全土が豊かになったからである。

 

 中国で最初にその矛盾が出てきたのは、1989年6月4日に起きた天安門事件である。学生による民主化運動である。地方から出てきた学生が、戦車の前に立ち、その前進を阻止しようとしている姿が全世界に放映された。この事件により、学生に同情的だった時の趙紫陽中国共産党総書記は、失脚したのである。北京オリンピックを前にして、中国は、国際社会の一躍を担うといって、背伸びをしている。我々は、中国を今でも勘違いしている。中国は、開かれた国家であると錯覚しているのである。日本と中国との関係は、経済的に利用し利用しあっている関係に過ぎないのである。利害関係で、成り立っているのである。それは、中国を漢民族の国家としてみているのである。

 

 中国人は、いい人達である。私も、天安門事件前には、結構、中国へは行った。色々なところに行った。仕事のために、中国語もある程度はなせるようになった。民族の違いがあっても、みんな親切だった。井戸の水を飲むとき、井戸を掘った人のことを忘れない。「不要忘却掘井的人」まさしく、中国の人、個人はみんなそういった人達だったのである。しかし、それが、国家権力の前になると、口を閉ざすのである。中国は、いまでも、あめと鞭の政策なのである。経済は許し、政治は許さない。ある程度の経済的な自由は許しても、政治的な権力は、絶対に認めない。中国共産党の階級の秩序が最優先されるからである。

 連日、ブルートレイン急行寝台銀河の記事がマスコミをにぎやかにする。東京ー大阪間をゆっくりと走る急行寝台である。最後に、この寝台にのったのが、去年の11月だった。大奮発をして、憧れのA寝台の下段に乗った。のぞみのグリーン車よりも高い割には、その乗り心地は、悪かった。車体の老朽化が激しかった。あれだけ、あこがれていた24系のA寝台である。もう、そこには、子供の頃に夢みた空間はなかった。私も明らかに歳をとり、その旅情を感受する力が失われていた。私ももう若くはないと感じた。迎えの日が、どこかで見えたような気がした。

 

 3月15日のダイヤ改正で、銀河、なは、あかつきが、消え去る。ブルートレインで、残るのは、東海道、山陽道を走るのははやぶさ/富士だけになってしまった。ブルートレインは、主に寝台客車として、青にクリームのラインが入ったものである。寝台をメインにして作られたものであった。 私が子供の頃は、20系寝台特急のオンパレードだった。東京駅14番線、15番線ホームには、夕方から列車番号1のさくらを筆頭にして、一二時間の間に、みずほ、はやぶさ、富士、あさかぜ、瀬戸、出雲が、颯爽と並んでいた。同じブルーに塗られたEF65またはEF58の電気機関車が、先頭で、車両を引っ張っていた。

 

 初めて、20系の寝台特急(3段)に乗ったときは、うきうきしたものだった。寝台特急、20系、14系、24系の最大の特徴は、窓際にある通路に設置された収納式の補助椅子なのである。寝台の中に入るまえ、または、早朝時、ベッドから抜け出て、その補助椅子に座り、流れいく車窓の風景をみるのが、大好きだった。いまだに覚えている。興奮して寝れるわけがない。その空間にいることそれだけが、嬉しかった。旅の醍醐味である。ライトが消されて、車内が薄暗くなっても、多くの人は寝ない。中学生だった私は、補助椅子にすわり、ひたすら、外の風景を見ていた。それは、思春期における大人の世界への憧れと不安を車窓の風景と重ね合わせていたのだろう。旅の感傷であった。時が深まっていく。ブルートレインは、ひたすら走る。15両連結している車両は、カーブを走れば、先頭の機関車が見える。暗がりにともる車窓のあかり、それをじっと見ていた。そして、ところどころに民家が見える。その窓あかりを見つめる。あ、こんなところにも、人がいて、生活しているんだ、同じように生きているんだ、そんなことを強く感じたのである。昨日のように覚えている。

 三橋裕輔さんを殺害し、遺体をばらばらに切断し捨てたことで、殺人罪に問われたその妻三橋歌織被告での公判で、弁護側、検事側での精神鑑定の結果が3月12日東京地裁で報告された。双方とも、心神喪失か心神耗弱状態であったと述べたのである。裁判所が、責任能力を問える状態ではないと判断すれば、一審では無罪になる可能性が出てきたのである。確かに、罪を問えるのは、構成要件を満たし、その違法性があり、しかも、責任能力があることなのである。殺人という刑法の条文はみたし、その殺人という違法性は結果からみて明らかである。問題は責任能力なのである。刑法の39条には、しっかりと、心神喪失者の行為は罰しない、二項には心神耗弱者の行為は、その刑を減軽すると書いてあるのである。たしかに、麻薬患者やアルコール酩酊者が殺人を犯しても、その殺人を犯す行為の前の行為に自らの意思が働く場合には、結果責任に対して責任を問えるのである。原因において自由な行為が認められるからである。もし、強制的に、自分の意思に関わらず、麻薬を打たれ、その結果、何かの事件を行っても、そこに、責任能力は認められない。その麻薬を打った人こそ、その犯罪の共同正犯として、処罰されるはずである。どのような、理屈が成り立つかわからないが、法律とは、ある意味、常識が勝つ世界で、悪いことをやった奴は、それなりの報いを受けなさいということなのである。

 

 三橋歌織被告の場合、殺人を犯し、遺体をばらばらに切断し、遺棄した行為時点で、心神喪失か心神耗弱状態だったかが、今後の争点なのである。常識で考えて、罪を問える状態かどうかなのである。当然に、結果だけをみたら、旦那を殺し、その遺体をばらばらにし、遺棄したのであるから、相当きつい処罰を受けるのがあたりまえだろうということなのである。後は、その結果に対して、どういう原因でそうなったのか、どういう状態に三橋歌織被告は犯行時いたのかなのである。それによって、人の主観は変わってくるのである。責任能力の軽減が発生するのである。その責任能力もなかったと判断されれば、無罪になるのである。

 

 三橋歌織被告は、公判で始めて幻覚体験があると話しているのである。弁護人にも警察にも一切そのことを言っていないのである。裁判長がなぜ、そのことを言わなかったのですかと問いかけると、「警察に話したら『罪の意識があるからそう見えただけ』と言われ、うそや錯覚だと怒られるだけだった。変なやつと思われたくなくて、弁護人にも話さなかった」と述べているのである。精神鑑定では、歌織被告の精神状態がどんなものかをまず分析しなければならない。過去の生い立ち、その中で、どんなことを感じたか、それも鑑定では重要な資料になるのである。幻覚症状があったということは、そういう心神耗弱状態にもなりうる可能性を示唆する情報なのである。

 

 内閣府の外郭団体、経済企画協会が民間エコノミストの経済予測を集計した3月の「ESPフォーキャスト調査」(回答者32人)を発表した。「今後1年以内に日本が景気後退に陥る確率」を聞いたら、平均は42.2%と、なったそうである。この結果の裏をみれば、今後一年以内に日本が景気後退に陥らない確率は57.8%あるということである。ある意味、健全な状態にあるということである。もし、98%以上、景気が後退するという平均確率がでれば、もはや、国はパニックになっている。多くの企業が倒産し、金融不安になり、政局も不安定になり、治安も悪くなるはずである。国家としての機能も麻痺するはずである。正しく、戦争末期状態、ほんの63年前に起きた状況に近いはずである。逆に98%以上、景気が後退しないとなれば、これはある意味、バブル狂気に近い状態のはずである。人は札束を追い、ギャンブルに東奔西走し、地上げ屋と結託し、ここ掘れわんわんを繰り返すはずである。両極端になっても、人や国家は乱れ、崩壊するはずである。ある意味、景気が後退する確率とならない確率が4対6であれば、よくもなく、わるくもない。ある意味健全な状態のはずである。

 

 そもそも、景気や経済活動は、国家の枠を外れている。個人であろうと、企業であろうと、それは、需要と供給のバランスの上になりたっている。絶対的な指標もなく、あくまで、相対的な関係できまるのである。何かがほしいと誰かが思う。その何かを誰かが持っている。どうしてもそれがほしいと思う。そこに交換がなりたつのである。それが1000円で双方が妥協し同意すれば、それで商売はきまるのである。オークションと同じなのである。それが、大きくより複雑になったのが、今の経済活動なのである。本来は、そこに何の意味もないのである。需要と供給の関係しかないのである。需要とは、何かといえば、人間の欲望や欲求なのである。人より美しく見せたいという欲求があるから、それを満たすような供給がでてくるのである。化粧品、エステ、ファッション等の供給である。それに付随するように、広告宣伝等の需要が、化粧品会社やエステやファッション・アパレル業界からでてくるのである。もちろん、社会が複雑になれば、それを分析解析するような需要がうまれ、その結果エコノミストという職種がうまれ、彼らはその需要に対して供給するのである。あたりまえのはなしなのである。子供のままごとの延長線なのである。複雑にみせたほうが体裁がいいという需要があるから、それをより複雑に見せる仕掛け人が出てくるのである。それがその需要をみたす供給である。

 

 経済とは、あるがままの有形無形のものの交換ゲームなのである。ある会社は業績がいい、ある会社は業績がわるい。それは、需要に対しての効率がいい供給を満たしているからである。業績がわるいのは、需要に対しての効率が悪い供給をしているからである。もっとも、需要がないのに、供給があっても、意味がない。需要を高める洗脳が必要になるのである。ゲームは簡単なのである。需要は、人間の欲望や欲求やそこから派生する必然性から生まれる。そこに対しての効率のいい供給を作ればいいのである。

 学生時代は、よくパチンコにいったものである。その当時は、フィーバー台の出始めである。主流は、はねものと呼ばれるものであった。Vゾーンに入れば、十回連続で開き、その間にVゾーンに入れば、はねが連続して、最大十数回開くという、当時としては、画期的なものだった。タバコ代を稼ぐ目的で、実に、足しげく通ったものである。パチンコ台とにらめっこしているわけだから、そのうち、色々と考えるのである。学生であったから、当然、金があるわけではない。その場が、ある意味、真剣勝負だった。色々と研究をした。玉の濡れ具合、台の傾き、そして、釘のうち具合等、何故入らないのか、どうしたら入るのかと考えたものである。もちろん、玉の落下具合も、玉の濡れ具合、台の傾き、微妙な釘のひねり具合でも、入り方は面白いように変化した。そして、打ち止め台、遊び台、回収台、その差も分かってきたのである。ある意味、台を見極め、そして、出た玉とこの台が打ち止め台か遊び台を感受し、どこで、切り上げたらいいか、その決断力を試すいい修行の場所だったのである。

 

 10時開店と同時にパチンコに行くわけではない。時間が空いたときにいくのである。これ以上、絶対に使わないと心に決めていた。その額は、軍資金(パチンコで交換したお金)からあてられた。一目見て、これはひどい台だと思う台には、座らない。確率としては、遊び台か打ち止め台なのである。しかし、ほとんどは、遊び台なのである。たいていは、ある程度は遊ばしてくれるのである。500発ぐらいはでる。問題は、そこからなのである。打ち止め台であれば、すこし、減って、再び入りだすのである。しかし、そんな台は、めったにない。それは分かっている。ここからが、自分との戦いなのである。引くべきか、つっこむべきか、玉は打たれている。頭の中は、コンピューターのように激しく計算している。過去の経験、玉の濡れ具合、台への玉の補給具合、釘のひねりと傾きぐあい、客としては、どれだけ多くの玉を獲得することができるか、パチンコ屋側は、出た玉をどれだけ回収するか、その激しいつばぜり合いがあるのである。遊び台であれば、ひと箱が限界に近いのである。継続すれば、ゼロになることはわかっている。それで、止められれば、勝てる。それで、決断してやめて帰ったときもあるし、意地汚くつっこんで、パーになったときもある。フィーバー台が主流になり、よりギャンブル性がでてくるまでの、古きよきパチンコの時代の思い出なのである。そこは、ある意味、自分の欲望に対しての修練の場だったのである。

 

 パチンコ業界は、不振だそうである。ある意味、当然である。私は、ここ10年、一回もいかない。なぜなら、負けるからである。負けるのを分かっていく馬鹿はいない。ギャンブル性を強めたからであり、デジタル化を一層進めたからである。今のパチンコ台は、ハイテク技術の結晶といってもいいぐらいに高度化されている。バブル期に、人の欲望をそそったのである。そこで、パチンコも一変したのである。人の刺激を乱す方向へと舵をきったのである。パチンコ屋は、あらそうように、刺激性やギャンブル性を競い合ったのである。莫大な金を投資し、虚飾を張り合って、集客を求めたのである。人の欲望を刺激したのであるから、それは、来場する。一攫千金を夢みた麻薬患者化した国民だったからである。株も土地も、永遠に上がり続けると錯覚し、日本が一番と驕れていた時代なのである。バブルが崩壊しても、その余波がパチンコ業界にはあったのである。