2008年2月アーカイブ

 ロス疑惑に関してみのさんの朝ズバ!を連日見ている。そこに、レポーターの村上允俊さんが出演されていた。番組では、1980年代のロス疑惑の過去のVTRを流している。そこに、50才後半の村上允俊さんとなくなられた一美さんのご両親の姿が写っている。映像に過去の時間が今、再現されているのである。私の脳裏にも、その映像が、どこか残っていた。遠い記憶のかなたから、その映像が私の中にも蘇った。そして、50才後半の村上さんと79歳になられた村上さんの映像がひとつに重なったのである。私は、最初、村上允俊さんを見たとき、えっと思った。テレビのテロップに、名前と年齢が映し出された。79歳、そのしっかりとした立ち振る舞い、容姿、声のはり、記憶の確かさ、言葉使い、何をみても、79歳とは、思えなかったのである。

 

 昨日、今日と、ロスの疑惑の現場の駐車場に村上允俊さんは、しっかりとした足取りでたっていた。一美さんのご両親と昔一緒にこの現場を訪れたことを話されていた。今は、その一美さんの父親はこの世にはいない。一美さんがなくなられた後、数年後追いかけるように、なくなった。そのとき、一美さんの父親は一美さんが殺害された場所で起き上がれぬぐらいに泣き崩れたと、村上允俊さんは、今、それを語っていた。それを語るとき、79歳の村上さんの目頭が熱かったのが、テレビの画面から見て取れた。27年間の月日は、残酷である。そして、レポーターした時期は1985年である。あれから23年間の月日が流れているのである。村上允俊さんも、23年前は、56歳、その当時でも、若くバイタリティがあって、実年齢よりも若く見えたのである。

 

 今の若者が、生まれる前の話なのである。中学3年か高校1年だった15歳の少年だったとしても、今は38歳のいい壮年のはずである。ロス疑惑の再浮上によって、誰もが、23年から27年の時間の流れを回顧するきっかけになったのである。確かに人の一生は不思議である。三浦和義さんは、日本でとりあえず法律的には無罪になったのである。殴打事件に関しては、刑に服して法律的には清算されているのである。社会的にみて、表立って、後ろ指を差される必要はないのである。三浦和義さんは60歳、23年前は、37歳、一番人生として、伸びて充実する時期なのである。そして、ロスで、60歳になって、再度、過去の因果を穿り返されようとしている。

何の因果か分からない。一度、終焉したものを、掘り返そうとしている。日本であったら、死者の魂を呼び戻すことはしない。御霊を鎮める方向へ動くはずである。

 

 どんな力が働いたのであろうか、それは偶然なのだろうか、この世の隠された因果を証明することができない。癒されない、一美さんと一美さんの父親の御霊が、中空で、正義をうったえ、その波動が、ロサンゼルス市警の未解決事件犯のリックジャクソン捜査官にのりうつり、彼を動かしたというのだろうか、何かの強い隠れた力が働かない限り、アメリカ人はこうも積極的に、日本人の一人の女性の銃撃事件を掘り返したりはしないはずである。それも、27年まえに起きた事件である。風化し、時間の中に埋没して、忘れられる運命だったものを、再度、我々の意識の上においたのである。リックジャクソン捜査官もそうだし、銃撃事件を目撃したアメリカ人も、「一美さんには、真実を知る権利がある」と同じ事をいっているのである。死者に対しても、どこかで、それが生きていることを前提としていなければ、真実を知る権利とはいえないのである。日本人は、亡くなった一美さんに対して、真実を知る権利があるとは決していわない。死者に対しては、安らかに御霊を沈め、健やかにお休みくださいとしかいわないのである。

 確かに、頑張れば、夢がかなうとは限らない。しかし、頑張らなければ、夢はかなわない。それは、確かである。努力しないで、成功した事例は、よほどのことがないかぎりない。この山田太一さんの言葉は、確かに、誤解を生み、それを自分自身の口実にすり替えてしまう可能性があるのである。「やっても、無理だ、それは幻想だ。だから、やめよう」と。基本的に面倒なことは、人はやりたがらないし、努力して、何かを作り上げることも、当然にしたくないのは、自然界の慣性の法則に適しているのである。意思がなければ、人間は、最低の基本的な生存を維持することしかしない。それが本能とよばれるものである。おなかがすいた。だから、ごはんを食べる。眠たい、だから、眠る。生殖の本能がでる。だから、異性をもとめる。それは、基本的にねこちゃんとわんちゃんと同じなのである。そこに意思が入ってくるのである。もちろん、したくなければ、しなければいい。そうなれば、置いてきぼりにされるだけである。だから、生きるために、何かをするのである。

 

 頑張れば夢がかなうと当然のように思うのは幻想である。そう思い、夢がかなわなかった人を見下すことは、成功者の傲慢である。これであれば、誰もが納得するはずである。夢がかなうためには、ただ、頑張ればいいというものでもないのである。運、努力、マーケット、いろんな要素が絡んでくる。需要のないものを、仮にやっても、誰も評価してくれない。自己満足で、それでいいと諦められる人なら、それでいいのである。見込みのないものを、諦めずおこなうのも、確かに意味がない。終戦末期の日本軍部のようである。沖縄をとられ、広島、長崎に原爆を落とされても、国体の維持が担保されない限り、ポツダム宣言を受け入れるわけにはいかないと、軍部は、それでも一億総玉砕の旗の下、戦争を続行しようするものである。

 

 しかし、もう一歩頑張れば、夢がかなう場合もあるのである。諦めずに、やり続けることで、道が開ける場合もあるのである。それが、一握りのエリートだけの特権かというと、そうではないのである。うまくいく人とうまくいかない人には、やはり、何かの違いがあるのである。頑張れば、夢がかなうのは、そういったうまくいく人だからなのである。うまくいかない人が、頑張っても夢がかなわないのは、うまくいかない人だからである。

 

 うまくいかない人のタイプの人に、可能性のよき断念をいうことはいいことなのである。断念すれば、あらたな道が開ける可能性があるからである。いずれにしても、人には寿命がある。見果てぬ夢も、時間とともに、すぼむからである。どこかで、人は、可能性のよき断念を必ず行うからである。

 

 久しぶりに、テレビからいい言葉が聞こえてきた。それは、ロサンゼルス市警の未解決事件犯のリックジャクソン捜査官が25日に会見で述べた言葉だった。JUSTICE,正義という言葉だった。リックジャクソンさんの言葉を意訳すると、「一美さんや一美さんの遺族の人には、正義を受ける資格(権利)がある。我々は法律的に正義を実現することが可能であれば、それを遂行する立場にあり義務がある」なんて、崇高な理念をもった人なんだろうと、その熱い思いに、心が打たれてしまった。彼らが考える正義とは、一旦破壊されたものをあるべき状態にもどすこと、何かを交換したときに、それが、同じ状態(等価)になるようにするということらしい。それが、正義の理念だそうである。これが、西洋哲学から来る正義の本質ということらしい。私が今まで使ってきた日本語の正義とは、すこしニュアンスがことなるようだが、しかし、じっくりと考えてみれば、本質は同じことかもしれない。

 

 そう、彼らは、正義で動いたのである。視点は、一美さんや一美さんの遺族にあるのである。その無念さや悲しみは、何かをしてやらなければ、永遠に癒されていないと感じているのである。それが、正義に反すると考えているのである。殺されたこと、命を奪われたこと、それを本来は、もどしてあげたい、しかし、失った命は復元しない、だから、その無念を晴らしてあげたい、正義の等価原理からすれば、一美さんの命を奪った犯人も同じ立場に立たなければならない。それが、目には目をという考えになるのかもしれない。人の命を奪った人に、時効は存在しない。他国で正義が実現されなければ、それが法律的に可能であれば、自国で正義を実現するように努力する。もし、しなければ、それは、正義に反するからなのである。明解な論理である。なぜなら、人は神のしたでは、平等であるべきだと考えるからである。そう、アメリカ人は考えるのである。日本人には、その感覚が乏しい、しかし、正義の定義が分かれば、何故逮捕したかが分かるのである。

 

 たしかに、彼らからすれば、一美さんや一美さんの遺族の人には正義が実現されていないのである。日本で起これば彼らも捜査権はない。しかし、属地主義と属人主義の差から、彼らにも捜査する資格があり、逮捕する権利はあるのである。いまだに、一美さんの失ったものは、失ったままであり、復元されていないのである。復元し、等価にする機会があれば、それをやるのが、彼らの義務だと、正義を実現するのが、任務だと、考えたのである。最後まで諦めず正義を実現するまで最善の努力をする。

 

 この年になるまで、私は、彼らが考える正義の本質を理解していなかった。アメリカにも何度かいったことがあるし、アメリカに友人もいる。JUSTICEを正義とは理解していたが、その本質までは理解していなかった。日本人が考える正義という概念をベースにして、英語を理解していた。日本の正義とは、正しいこと、では、その正しい義とはなんなのか、これは、感覚的なもので、あいまいになるのである。戦争中であれば、お国のために命を投げ出すことが、正しいことであり、それが正義となった。今の日本人に、正義とはなんなのか、と問えば、ほとんどが、私とおなじように感覚的な言葉になるか、ある宗教や考え方を信じていれば、その教えを実践することが正義ということになる。

 源氏物語の系譜から見て、日本にはどちらかというと、女性的な文化が根強く生きている。紫式部は、光源氏やその不義の子、薫を主人公にして、それにまつわる女性の生き方を論じている。そして、女の情念の強さによって、業というものを表現している。愛と嫉妬に狂い、生霊となる六条御息所、色んな場面で、人間の裏に潜む業を霊という形で表現している。紫式部は鋭い感受性をもって、人間の裏を見ていたのである。したがって、源氏物語は、日本の文学として、最高の価値を有しているもののひとつである。その精神性は、一級品の価値はある。明らかに、中村中さんは、その裏にある日本文化の情念の世界を受けているのである。一言で言えば、声の美しさでもあるのである。源氏物語でも、笛の響きが主題と絡まっている。源氏物語の言葉の中に響く音楽性は、中村中さんが奏でる声の調べと同類なのである。

 

 ボイストレーニングをして、私にも、その歌声の根源がどこからくるのかが分かるのである。それは、中村中さんが、自分をひとつの吹奏楽器としているのである。まさしく、森閑とした月夜に鳴り渡るひとつの笛の響きなのである。中村中さんの色々な曲をじっくりと聴いてみると、どこで呼吸し、どこにその息をあてているのか分かるのである。その音の高低差が複式呼吸から出る息の量と声帯の息がどこで響いているかによって、決まるのである。それを狂いなく制御しているのである。高音は、周波数が高い、つまり、どれだけ、息が咽喉腔の中で屈折し響いたかなのである。舌根を下げ、硬口蓋から軟口蓋へ掛けて、どこで息を屈折させるかが、分かるのである。鼻腔と咽喉腔の響かす割合も制御しているのである。それを安定的に、ぶれずに、うたえるのである。そして、そのきちっとした音程の制御、見事である。中村中さんは、性同一性障害といっても、体は男性なのである。のど仏は見えるし、声帯は男のものなのである。それでもって、あの高音域を見事に制御できるのは、それを訓練したからなのである。そこに、隠れた努力があるのである。でなければ、あれだけの美しい歌声は、虚空には響かないのである。ある意味、天才かもしれない。

 

 音楽は、まさしく数学である。そして、時間軸に対する調和をもったエネルギーの変化でもある。美しく響くのは、重なる和音の調和なのである。声も波動である。人間の歌声も波動の重なりなのである。ただし、それだけでは、情念は伝わらない。人に感動は、伝播しないのである。どこかに、中村中さんの無意識に感受する流れがあるのである。人はそれを感じない。なぜなら、自分という自我がそれを邪魔するからである。中村中さんには、それがない。ある意味、自分を空(空っぽ)にすることが出来るのである。自分の我という壁を外すと、色々な人の情念が波として感じるのである。喜怒哀楽、人の哀しさ、人の寂しさ、人の優しさ、それが、情として、流れ落ちてくるのである。それが、満ち溢れているのが、源氏物語でもあるのである。中村中さんは、それを感じたのである。女の情念が、性となって、中村中さんの無意識の中へ溶けていったのである。女よりも女らしく、女の中に潜む情を、表現できるようになったのである。口紅をぬり、濡れた目で、じっと見つめる。その見つめる奥に、女の情念が燃えているのである。無意識に、まるで、どこからか聞こえる情の流れに中村中さんが反応するように、自然と女を演じれるのである。それは、歌舞伎や浄瑠璃のおんながたの系譜にもつながるのである。それが出来るから美しいのである。それを歌で表現できるのである。

 

 日刊紙の一面に、"三浦和義"という漢字を見たとき、あれと感じた。もう、忘れていたはずのあの事件を思い出したからだ。今の若い人は分らないかもしれない、生まれる前の事件だからである。そして、これこそ、非常に微妙で複雑で、なんとも得体の知れないものだったのである。そして、新聞やネットは、今回のサイパンでの逮捕を事実として伝え、銃撃された一美さんの遺族へのインタビューを行った。当然に、マスコミがこの事件に対して、どうするか、特に、あれだけ、疑惑の銃弾で、世論を沸騰させた週間文春や、ときどき、サンデージャポンでコメントする三浦和義氏(アメリカの視点では容疑者)を使っていたTBSが、この事実をどう報道するのか、注目するのである。アメリカからは、今回の逮捕に関して、FBI(アメリカ連邦捜査局)が、日本の警察庁に新しい証拠を発見したと連絡したのである。それに基づいて、三浦和義氏は逮捕されたのである。

 

 もう、27年の月日がたっているのである。今40歳の人でも当時13歳、50歳の人でも、当時23歳、当時これほど、話題になった事件はないのである。連日、ワイドショーのキャスターが三浦和義氏を追いまわし取材を続けていた。特に、ミッキー安川さんは、独特の口調で、三浦氏を追い回していたのが、印象的だったのである。いまでも、ミッキー安川さんの独特の声は記憶にあるのである。もちろん、私もテレビも見ていたし、週刊誌も読んでいた。そして、心証的には、これはやったはずだと思ったのである。事実を振り返り、その後の彼の対応をみれば、まちがいなく、三浦氏はうまくやったと思ったのである。そう、私は、三浦氏とは、直接的な利害関係はない、だから、昔、TBSのサンデージャポンで、事件のコメンテイターとして、発言しているのを見ていたが、こうして時代は風化していくものだ、犯人役として、世間から激しく罵倒されていたが、一転して、そういう立場になるのかなと感慨をもったものである。

 

 確かに、論理上、おかしいのである。その一美さん銃撃殺害事件の起きる前、1981年8月31日、ロスのホテルで、(三浦氏がホテルに不在中)一美さんが一人でいるとき、日本人女性が部屋にやってきて、一美さんの頭部を鈍器でたたいて、怪我を負わせたのである。もちろん、頭部を殴打したのであるから、殺人未遂である。これは、その共犯者(実行犯)が、告白したので、1985年11月に三浦和義氏は逮捕され、懲役に服したのである。今回の事案は、その事件の後におこったのである。1981年11月18日である。その殴打事件から約三ヵ月後である。ロサンゼルスの郊外の駐車場で、二人組の誰かにライフル銃で、三浦氏と一美さんが撃たれたのである。一美さんは頭部に、三浦氏は足に弾が当たったのである。一美さんは意識不明の重体になって、アメリカのヘリで日本に搬送されたが、残念ながら数ヵ月後意識がもどることなく日本で死亡したのである。そして、三浦さんは、保険金1億5500万円をもらったのである。

 

 引きこもりとなる原因が、就職・就労での挫折が最多で、30?34歳の年齢層が一番多いことが、東京都の実態調査で明らかになった。私は、俗にいうベンチャーの社長である。もう、11年、なんとか、倒産せず、生きていられる以上、もうベンチャーではなく、中小企業、零細企業の社長ということにもなるかもしれない。まあ、なんとか、ここまで生きている。もちろん、親から受け継いだものでもなく、誰かの技術を借用しているのではなく、まったく裸一貫で、自分の経験と努力で、超微粒子化の装置原理を開発し、国際特許まで、取得した。大学や公的の研究機関が作り上げたものではないので、浸透するのに、時間がかかったが、すこしづつマーケットの実績がついてきて、私が作り上げた技術を応援してくれる人の数が増えてきた。結果がでてきて、いいものであれば、いずれ、世の中の注目を浴びてくるのは、どんなものでも、世の常である。後は、時間軸との関係である。がんばれば、誰でもなんとかなるのである。

 

 そんな関係で、私は、色々な人を見てきた。うまくいく人、うまくいかない人、出世する人、出世しない人、役員になる人、ならない人、特に、私は、大手企業の有能な技術研究員と接触する機会が多い、企業から研究開発を任されて、どこでも、うまくいかなかったものを、私のところに相談し、テストにくることが多いからである。知名度がなく、しかも、あまり営業もしないため、私の技術は駆け込み寺的要素が多い、私のところにたどり着いたものは、従来の技術ではできないから、きたのであって、他のものでできれば、私のところには、まずこない。私は、うまくいく人とうまくいかない人との差が見えた。私も情の人間である。相手が真剣に、誠意をもってぶつかってくれば、それについついのってしまう。企業の経営者としては、あまりよくないないのだが、深くつっこみすぎ、お金を持ち出したケースも多々あった。しかし、それによって、自分の経験がふえ、ある意味、人生のいい勉強になった。結果的にそれが、自分にとってのいい財産になった。

 

 社会人が、一人前になって、自信をもって、動き出せるのが、35歳からである。それまでが、習得期間なのである。だから、30-34歳が、人生の篩にかけられることがおおいのである。そこで、どうなるかで、35歳以降、つまり、その後の人生がある意味決定付けられるのである。つまり、後半の人生を分けるのが、30-34歳の間なのである。そこで、何をしたか、何を学んだが、30歳までの経験や知識は、すべて、ある意味リセットされるのである。今の社会は、役所以外、結果を残せない人は、社会人としてカットされてしまう。市場経済であり、年功序列終身雇用制度がくずれている今、学歴や年齢だけでは、上にいけないのである。中学校や高校卒業の人も、結果を残せる場があれば、十分に上に立てる時代なのである。少子高齢化であり、学歴だけでは、まったく意味がないのである。大切なのは、どの分野でも結果なのである。

 

 実に、ネット社会とは、面白いものである。ブログを続けてみて、実によかったと思う。なぜか、最近、訪問者数が多くなった。コメントもあまりなかったので、そんなものかなと思っていた。意外と、毎日これだけの分量の文章を書くのは、大変なのである。毎日かくのはやめようかと、いつも思っている。ただし、これもSEO対策の一環だと、言われ、社長、書き続けてくださいよといわれ、書き続けている。アクセス解析等が、あるため、傾向はつかんでいる。どんな文章に反応があり、どんな内容が無視されるのか、それを踏まえて実験してみると結果は見事に当たることがおおい。公序良俗に反したコメントやくだらないもの以外は、どんなことがかかれてあっても、そのままにしておいた。自分が間違った事実を指摘されたときは、訂正しておいた。どうでもいいものはそのままにしておいた。もちろん、ネット社会である。匿名のコメントである。そのコメントを書く人たちの心の中を想像したりもする。生ログと時間をみれば、だいたいIDはこちらでもつかめる。人は十人十色、いいという人もいれば、ろくでもないという人がいる。積極的な人もいれば、積極的でない人もいる。しかし、自分で意見があるなら、自分でブログを作り、堂々と実名をつけて、発表するのがやはりいいと思う。どんなことでも、前に出ることはいいことである。まず、何かやったら、10人中、4人は否定的な意見をいうものである。そのうち、賛同する人は3人であろう、あとの3人で、どうなるかなのである。

 

 実社会であれば、人間と人間との交渉である。ネット社会であれば、ひとつひとつの属性が消される。匿名という隠れ蓑がある。書き込むよりも書き込まれる立場のほうが、それだけ価値があるということである。そう、面白くなければ、無視されるだけである。面白ければ、何かのコメントが入る。プラス側でもマイナス側でも強く感情が入るコメントがあることは、それだけ、つよく反応したということである。ある意味、うれしい限りでもある。

 

 実社会は、匿名でのコメントのようにはいかない。社会では、実績がものをいう。それと残念ながら、肩書きがやはりものをいうのである。組織の中で、その組織のやり方や上司や経営者のやり方や生き方または性格を公然と否定したら、その会社をやめろということになる。匿名のコメントのようなことを、実名で言ったら、まず、おしまいである。だから、匿名だから、いえるのである。しかし、現実的にみれば、その人は卑怯ということになる。実際に、現実として、公然と言えず、裏で何かをいうひとと同じになるのである。会社で、上司の前では、ぺこぺこしていながら、上司のいない前では、公然と批判する。酒が入ると、その上司の悪口を言う人がいる。だいたい、そういう人は、出世はしないし、例外はあるが、あまり仕事はできない人が多いのである。俗に、定年を迎えたとき、役員になれるか、それとも退職されていくかの差は、こういうところに出てくるのである。

 

 もはや、一切の弁解も許されない。飛行機でいえば、パイロット、船で言えば、船長、そこで、発生する責任を負わなければならないのが、パイロットや船長なのである。もちろん、企業が何かの不始末をした場合に、社長は引責責任を受けるのが世のしきたりである。今回のような、人身を巻き込んだ重大な事件の場合、イージス艦の艦長、自らが謝罪し、その非を認めることが、道理である。もちろん、その管轄するトップの石破防衛大臣も、腹立たしいと思うが、辞任し、その責任をとるのが、常道となる。それが人の道である。

 

 清徳丸と一緒に、漁にでた幸運丸、金平丸、康栄丸の船長は、身勝手な海上自衛隊の説明に憤怒している。仲間を殺され、あやふく、自分も同じ目にあうところだったからである。幸運丸の堀川船長は、いうのである。「自分はレーダーで午前3時半くらいにイージス艦を確認した。イージス艦のレーダーは漁船のより性能がいい。レーダーをきちんと見ていれば(清徳丸との衝突の)少なくとも20?30分前には確認できたはず」、そう、イージス艦側は、分かっていたのである。横須賀へ帰港するために、イージス艦は直進する。その右側から自分の航路を横切るように漁場へ向かう数団の漁船がいる。高性能のレーダーがあり、GPSがあれば、高機能のPCを搭載しているイージス艦なら、彼らの動きは簡単に予測できたのである。動く潜水艦やミサイルや魚雷に対して、その動きを予想して、命中させる装備があるのである。漁船は、法令を遵守してうごくのである。海の男は、緊急避難がなければ、海のルールに従うのである。だから、明らかに、イージス艦は、予測できたのである。的確に、このままの状態ですすめば、ある高い確率でその内の一艘は、衝突する。船の蛇行具合、波の状態、時間軸で変化する外的な要素もすべて高精度のPCで計算し、ある衝突確率を瞬時に導き出しているのである。知らなかった、とは言わせないのである。

 

 そう、分かっていたのである。自分たちはお上の護衛艦である。巨大な最強の護衛艦なのである。戦艦大和や武蔵とおなじように、世界で一番の船なのである。たしかに、そのとおりなのである。その鼻先を横切るものがある。「帰港の邪魔だ。俺たちの直進を邪魔する奴は、一体誰だ、避けて通るのが下々の務めだ、なんで、イージス艦が、舵を切る必要があるのか、避けるのは、おまえらだ、衝突したくなければ、死にたくなければ、怪我したくなければ、俺の行く道をさえぎるな、なんで、警笛を鳴らす必要があるのだ、あいつらも、レーダーを搭載して、俺たちの動きを見ているはずだ。俺たちは、天下の日本の海上自衛隊だ、そのなかで、もっとも最先端の装備をもった世界一のイージス艦だ、ひかえろ、じゃまだ、うろうろせず、俺たちの後方へ回って、漁場にいけ」

 

 

 もはや、何をいうことは出来ない。イージス艦が、民間の親子船(清徳丸)をぶっ壊し、二人の親子(吉清治夫さん(58)と吉清哲大さん(23))を冷たい冬の海に放り投げた。もはや、海上自衛隊のいうことは、嘘の塊、保身だけを考えた内容といって間違いない。だれも、海上自衛隊が発表する情報などに、本気で耳を傾けることはしない。自分にとって都合の悪いことは隠し、自分に有利になるものしかださないはずである。昔の旧日本海軍の誇りも勇気も実直さも、忘れ果てた情けない姿なのである。12分まえに、目視で、清徳丸の灯火を発見したにも関わらず、イージス艦の進行方向からみて、右側から接近する清徳丸をかわすことさえしなかった。回避義務は、イージス艦側にあったのだ。そして、全速後進という回避措置をとったのが、事故の一分前だったのである。目視監視員が二度目に清徳丸の緑色の灯火を発見してから、一分も経過したあとなのである。

 

 この情報が分かれば、吉清親子は、無残にも殺されたといっていいのである。未必の故意を適応されても、海上自衛隊は、たぶん抗弁ができないはずである。これは、過失ではなく、あるいみ、殺人なのである。もちろん、誰だって、衝突させる気などはない。故意にやったとは思えない。しかし、ぶつかれば、船の大小関係からみれば、どうなるか分かっている。ぶつかった角度からみて、ほぼ、90度近く、要するに、清徳丸の側面に、重たいイージス艦がぶつかり、その勢いで、清徳丸が真っ二つに割れてしまったのである。そう、清徳丸は、100mまえで、右に舵をきったのである。護衛艦は、直進したのである。あたごは、時速18.5キロ、後進措置をとったのは、その一分前、ぶつかる地点の300m前で後進を掛けたのである。清徳丸の長さは12m、真ん中であったのなら、あと6mかわせば、なんとかなったのである。あたごは、165m、避けるためには、清徳丸が、抜けきるか、角度でかわしきるか、イージス艦の速度を減衰させるかしかなかったのである。

 

 これは、哀しすぎる。清徳丸の推定速度は、約28キロ/時の速度だとすれば、あたったのが、真ん中だとすれば、全長12mだから、あと6mかわせば、当たらなかったのである。時速28キロ、分速、466m/分、秒速7.7m/秒、そう、6/7.7=0.77秒、親子船が、遅かったのである。0.77秒早ければ、すり抜けられたのである。そして、ばかな自衛官は、12分まえにその存在をしり、しかも2分まえに重大な危険が予見できたにも関わらず、1分間は何もせず、衝突一分まえに、ただ、後進措置をとったのである。もちろん、後進に対する力が働き、前向きの慣性ととめるのに、300?400mは掛かるのである。もちろん、舵を切れば、それだけ、前に推進する力が分散され、前に行く速度はより減衰されたはずである。そうしていれば、0.77秒の差である。清徳丸は、必死になって、全速力で走り抜けられたはずなのである。

 

 脳に組み込まれた生殖に対する本能を刺激し、それで収益をあげるのが、性という商業活動の場である。しかし、考えてみれば、多かれ少なかれ程度の差はあっても、それが、人間の根底にあることには変わりはない。人間対人間の関係、男と女の関係は、すべてが性に起因しているのが実情である。そう、人は、洋服を着る。寒いからきるのもある。しかし、もうひとつの目的は、性を隠すことでもある。

 

 美しさは、リズムと調和にある。すべてが、時間軸に対するエネルギーの変化なのである。音楽は何故美しいか、それは、共鳴する和音の時間軸に対する変化だからである。性とは、本能である。だから、性に、その美しさの属性はない。しかし、世阿弥がいっているように、隠せば花となるのは、性も隠せば花になるからである。人間の根源は、性である。そして、それを隠すことで花となるのである。また、花が時間軸にゆらげば、音楽となるのである。

 

 女優は、何故美しいか、それは、自分の性を隠す技巧が美しいからである。その花を演じれるからである。さくらのようになれるし、あやめのようになれるし、ひまわりのようになれるし、ふようのようになれるからである。そして、時間軸に対して、共鳴和音のように、その花を美しく響かせることが出来るからである。美しい人とは、そういう人なのである。けっして、容姿ではなく、その人の時間に対して朽ちようとする性をあるがままに、自分という花を通して外部に共鳴させられる人なのである。

 

 そう、性というものは、押しとめることのできない、人間の本質なのである。だから、太古から、性にまつわる商売は、すたれることはなかったのである。それが、性という商業活動の場だったのである。男も女も、蜜に群がるミツバチのように、そこへ、寄り集まるのである。しかし、それは、決して、公開してはいけない秘密の場だったのである。そう、いまでも、水面下でそれが動いている。それが起因として、犯罪がおきることもあれば、麻薬というものにも波及することもある。また、宗教、政治、経済、文化、音楽、人間に関わるすべてのものに性が関わり、それと因果関係を水面下で結んでいるのである。

 

 ネット社会の中で、私のところに、毎日、その性という商業活動の場から色々な誘惑のメールが届いている。実に巧妙に仕掛けてくる。すべてが、その本人ではなく、外部のライターで書かれているのは分かっている。私は、それをひとつひとつ読み、そのライターの技量を評価しているのである。はっきりというが、うまい水商売の女性は、決して、情には流されない。あくまで、男性という不特定多数を相手にしているのである。役所や銀行と同じなのである。特定のところに深情けをかけて、その不特定多数の場にゆがみを作ることはしないのである。どこかで、理が情を制するのである。だから、水商売の女性は演技するのである。Aさんには、Aさんに気に入ってもらうように、BさんにはBさんに気に入ってもらうようにするのである。八方美人だが、けっして八方美人とは思わせないのである。Aさんに、自分が好意をもっているように錯覚させるのである。そうして、全体にゆがみを作ることなく、性という商業活動の場から収益をとるのである。それがうまい人が、いわゆる、トップママということになるのである。しかし、演技が、本気になる場合がある。トップママは、いつも情を理で抑えている。その寂しさをどこかで癒されたいと感じている。器量の大きい人が、現れれば、つい、寄りかかってみたいと思うのも、トップママの性質からみれば、やむを得ないことなのである。

 

 イージス艦あたごが、漁船清徳丸と衝突し漁船が沈没した事案は、216日、日航機502便が、北海道、新千歳空港で、無許可で離陸の滑走をしたのとほぼ同じ構図である。飛行機の原因は、無線交信を担当していた副操縦士訓練中の乗員が、運行規定に反して、管制官の指示の復唱を行っていたのが要因らしい。もちろん、訓練の補佐をする操縦士や副操縦士もそのミスに気づかなかった。最終的な責任は、機長にあるのは当然である。その場合には、管制官がそれに気づき、ストップを命じたから、重大な事故にならなかったが、本来やるべき単純なことを軽視したために起きたトラブルである。今回は、それとは違い、最尖鋭のイージス艦「あたご」(7700トン)が、19日午前47分ごろ、千葉県南の房総市の沖合い、南南西約40キロの海上で、マグロはえ縄漁船「清徳丸」(7.3トン)と衝突し、漁船は沈没、乗組員、吉清治夫さん(58)と息子の哲大さん(23)の2人は行方不明になったのである。

 

 当時は、風も7m、波の高さも50センチ、視界は20キロと穏やかで、霧もなく見通しもよい状態であったそうである。そして、事故後、イージス艦の右舷に損傷があることが分かったのである。つまり、イージス艦から見て右側から走行してきた清徳丸と衝突したことになるのである。海上衝突防止法では、船同士の衝突をさけるために、右側通行の原則を規定している。この場合、回避義務はどうやら、イージス艦にあったのである。

 

 つまり、ここに、イージス艦に従事している人々の驕りが出てきたのである。慣性の法則があり、7700トンの巨大な戦艦は、なかなか方向を変えることができない。回避義務があったかもしれないが、お上の戦艦である。国防を担っている船である。お上の航路を遮るものは、許されない。だから、1/1000のマグロはえ縄漁船であるため、方向を変えるのも、対した手間ではないはずである。自衛官の中には、そんな奢りあがった思いがあったはずである。はえ縄漁船が自ら、自爆する目的で衝突させない限り、なかなか衝突することは出来ないはずである。まして、最先端の技術を搭載したハイテク戦艦である。漁船に爆弾を積んで、自爆する目的の敵船をも想定した防御システムは搭載しているはずである。だから、清徳丸の動きは、ちゃんと捕捉していたはずである。それに対してのフィードバックも機能していたのである。もちろん、航路中は、目視で自分の舟のまわりにどんな舟が航行しているか監視していたはずである。

 

 なのに、衝突し、沈没させ、清徳丸の乗組員の吉清親子を海の中に放り投げたのである。たぶん、潮に流されて、海の藻屑と消えた可能性が高いのである。うっかりでは済まされないのである。これが、民間の船どおしなら、海上審判をうけ、責任の所在が明確化されるが、この事例は、イージス艦(自衛艦)と民間の漁船との衝突なのである。船の大きさ、職務の性質の違い、何をみても、民間の船を守るのが、自衛艦の役目でもあるため、非は100%自衛艦の方にあるのである。国防を守るだけが、自衛隊の役目ではない、国の機関を外敵から守り、安全に運営できる環境をつくるのも、本来の自衛隊の役目なのである。それを放棄し、勝手に、民間の漁船とぶつかり、大事な命まで奪ってしまったのである。自国の何の罪もない人の命を奪ったのである。はっきりいうが、イージス艦を作るのも、イージス艦を運営するのも、自衛官の給料も、日本国民の税金なのである。どんな訓練で航行したのか分からないが、どう考えても、人為的なミスでぶつけたとしかいいようがないのである。

 人間として、一番やってはいけない最も卑劣な行為を、いとも簡単に行ってしまう。モラルハザードが、ここまで、崩れ落ちたか、ネット社会、携帯やデジタル家電での普及で、起こりうる最も卑しむべき行為が露見してしまったのである。想像すれば、誰でも、わかることである。それが日常茶飯事にならなかったのが、社会の最低のモラル感、社会の抑止力だったのである。県立高校生13人が昨年11月にその内の一人の自宅に同級生であり当事付き合っていた少女を呼び出し、全裸の写真を携帯電話で撮影したのである。その別な男子生徒がこの写真一枚を入手し、それを携帯電話の無料掲示板サイトに投稿し陳列させたのである。もちろん、それは、口コミで広まる。だから、学校内にその画像が広まったのである。少女は、当然にいたたまれなくなり、自主退学に追い込まれたのである。218日、神奈川県少年捜査課は、男子生徒4人を児童買春・児童ポルノ禁止法違反(児童ポルノ製造、公然陳列)の疑いで逮捕したのである。

 

 この事件で、連想するのは、1988年11月に東京都足立区綾瀬で起きた女子高生コンクリート殺人事件である。これは、想像するだけで身の毛もよだつ事件だったのである。数名の少年が女子高生を41日間にわたり仲間の自宅2階の居間に監禁し、強姦や過酷な暴行を繰り返し、挙句の果て、少女は死亡したのである。それをコンクリートにつめて江東区の埋立地に遺棄したのである。今回の事件は、それと同列にできないが、その行為に潜む卑劣さは、それ自身とさほど変わらないのである。物理的な攻撃性は乏しいが、精神的な残忍性は、それとさほど変わりはないのである。

 

 ネットのアダルトサイトをみれば、このような女子高生の全裸の写真は、たくさんあるし、素人のアダルトも、アメリカ経由のサイトであれば、見ようと思えばいくらでも見れるのである。一日の入場者数も調べたらわかるのである。そう、多くの人が見に行っているのは、確かなのである。規制がなく、無料であれば、好奇心で入っていくのである。性という商業活動の場であるため、男なら、官僚だろうが、大学の教授だろうが、政治家だろうが、社長であろうが、入っていくのである。新宿の歌舞伎町の風俗街をぶらぶら歩く感覚なのである。しかし、そこには、ルールがあるのである。不特定多数という場なのである。芸能界みたいに、だれだれさんという特定された対象がないのである。だから、個人が特定されないような配慮がアダルトサイトにもあるのである。まして、それが未成年者であれば、なおさらである。18歳未満は、法律で禁止されているのである。アングラではあるかもしれないが、それでも、暗黙のルールは存在しているのである。個人が特定されて、社会の中で生きていけなくなるようなことはしないのである。なぜなら、それをやったら、その性という商業活動の場が崩壊するからである。

 

 どうしても、若者の自殺者は、止まらない。16日、午後4時20分ごろ、埼玉県川越市にあるホテルの従業員が、「異臭がする」と警察に通報し、部屋の中を開けると、浴室で、20歳から30歳の男性2人、20-25歳の女性が1人死亡していた。室内には、「自殺します」と書かれたメモがあり、集団自殺を実行したようである。浴室は目張りで密閉されていた。浴室、トイレ洗浄剤などの空き瓶があることから、浴槽で塩素ガス(有毒ガス)を発生させ、自殺したようである。

 

 どんな理由かは分らないが、ブラックホールに吸い込まれるように、若者は自殺をする。理由は、簡単である。死にたくなったのである。そして、問題なのは、何故、ひとりではなく、3人仲間を募って、集団自殺かなのである。もし、ひとりだったら、実行できないからである。集団で、力を合わせるから、ホテルにいき、浴室に目張りをし、浴槽に塩素系の洗浄剤のガスを発生させ、意識がもうろうとなるまで、寄り添えたのである。虚しいのである。これはあまりに虚しすぎるのである。若い男女3人が、浴室にいる。塩素ガスを発生させ、それが、高濃度、致死量に飽和するまで、じっと、命の終焉を待っているのである。彼らは、それまでの間、何を語ったのだろうか、死の中に、どんなやすらぎを夢見たのだろうか、それとも、何もない虚無の中で、自分の意識を消したい、ただそれだけを念じていたのだろうか、想像するだけで、無償に悲しくなるのである。

 

 そして、命というものを軽々しく扱う、彼らのエゴを憎憎しく思うのである。まるで、命というものをあざ笑うかのように、自ら命を軽く消していく、彼らの心のありかが許せないのである。しかし、彼らはもうこの世にはいない。とおく、この時空間の中に、雪のように溶けて消えたのである。命のあるうちに、彼らを引き戻すことができなかったことへの、命のこる者としての無念さが、自分をせき立たせるのである。どうにかしなければ、と思うのである。死にたい奴は、死なせとけと、私にはどうしてもそう言えないのである。私の心の中には、生きたくても生きれなかった人の無念さが、どこかで響いているからである。

 小中学生の学習指導要領改定案を、文部科学省は公表した。基本的に、主要科目と体育の授業時間を約1割増やした。学習項目の内容も理数を中心に増やしたようである。円周率も3.14にもどしたようである。これで、学力低下が向上するとは、思えないが、とにかく、今よりは、すこしは基礎を勉強しなさいということになるようである。

 

 この年になると、すこしは、世の中の仕組みや、人々の動き、物の動きというものが、見えてくる。森の中にいた、自分が、だんだんと上から見えるようになり、いつのまにか、森を俯瞰してみえるようになった。そして、さらに、森の周辺もみえるようになり、森が周辺とどう作用しているのか、全体の中に部分、部分の中の全体が、わかるようになった。もちろん、小学校、中学校のときは、その森の中の木しか見ていない。年齢をかさね、色々なものを学習し、経験することで、森を、はたまた、地球全体、宇宙全体を感覚的に捉えることができるようになった。人間の能力には、大した差はない。すべてがちょっとした強制や指導によって、学生の時に、森の中の木しか見えなかった人が、急に森がみえるようになるものである。その人たちは、勉強の要領、こつ、しいては、作り手がどんな回答を期待しているかのポイントをも理解するのである。逆が見えるのである。問題を作る人が、どんな回答を期待して、どんなわなをしかけ、ふるい分けるかのポイントを理解するのである。ふと、それが分かれば、問題の前にどんなわなが仕掛けられているかがわかるのである。それをよけて通ればいいのである。だいたい、そういう人が、すいすいと、難関大学をとおり、難関な上級公務員試験をパスするのである。それがキャリアーと呼ばれている人の実態である。

 

 普通、そんなポイントなど、分かるわけはないのである。将棋と同じなのである。一手一手前から読んでいても、うまくはならないのである。後ろから読んでいって、次の一手を打つのである。がむしゃらに、勉強しても、忘れるのである。難関大学をとおり、上級公務員試験をうかるキャリアは、がむしゃらに勉強していないのである。能力の問題ではないのである。やり方の問題なのである。どこかで、ちょっとした指導や強制をうけているのである。それが、有名な小学校であったり、中学校であったり、有名な予備校なのである。それか、有能な家庭教師がついたかなのである。この年になってそれがわかるのである。普通の学校は、全体(全員)に対して科目を教えるのである。個々に対して、科目を教えるのではないのである。

 

 独学や我流でうまく行く人は、どこかで、成功体験をして、そのコツをまなんだからできるのであって、それまでは、右往左往するはずである。しかし、そのコツを人から教えられて学んだ人よりは、自分で見つけた人の方が、将来、実社会にでたあと、のびるのである。社会にでて、それまでの学校の経験や知識力の差で勝負できる期間は、まず、3-5年までである。10年をすぎれば、ほとんど、その差はなくなり、あとは、実社会での能力の差がその人たちの将来を決定することになるのである。学校で学ぶ時間と社会で学ぶ時間の質と量はぜんぜん違うのである。親の七光りで、博士号をとっても、仕事ができない人もいれば、中学しか出てない人でも、努力して、りっぱな業績を打ち立てる人もいるのである。35歳を過ぎれば、過去の履歴よりも、今、何ができるかが、重要なポイントになるのである。有名大学を出た人が、必ずしも出世するとは限らないし、中学や高校出の人が出世しないとはいえないのである。学歴年功序列の世界は、成果主義、能力主義の世界にとってかえられたのである。

 

 2008213-15日まで、東京ビックサイトで、NANO TECH2008が開催されている。ナノインプリント/微細加工最新技術セッションを受講するためにいった際、ついでに、NANO TECH2008も参観した。入って、驚いたのである。民間企業は、当たり前であるが、それ以上に、独立行政法人と国立大学法人と私立大学のオンパレードだったのである。とくに、各省庁所管の独立行政法人は、民間企業ばりのブースをもうけ、外見上であるが、昔の役所とは様変わりの様態を呈していたのである。予算(税金)があるためか、それとも、独立行政法人どおしのプライドと見栄の衝突か、それぞれがその技術を競い合っているような雰囲気だった。

 

 NANO TECHの後援としては、総務省、文部科学省、農林水産省、経済産業省なのである。それぞれの官庁が、独立行政通則第二条第一項に規定される「国民生活及び社会経済の安定等の公共上の見地から確実に実施されることが必要な事務及び事業であって、国が自ら主体となって直接に実施する必要のないもののうち、民間の主体にゆだねた場合には必ずしも実施されないおそれがあるもの又は一の主体に独占して行わせることが必要であるものを効率的かつ効果的に行わせることを目的として、この法律及び個別法の定めるところにより設立される法人」つまり、独立行政法人をもっているのである。したがって、その公共上の見地から確実に実施されることが必要な事務および事業が、なければ、消えていく法人なのである。もちろん、それぞれ所轄の親分には、国家上級キャリアのプライドがあるために、ひとつ消されれば、それだけ、事務次官の道が閉ざされることになるのである。だから、その必要性をアピールするには、格好の展示会なのである。私は、民間の企業よりも、いままで、世間にその実態を明かされることなく、雲の上の存在だったそれぞれの独立行政法人のブースをつぶさに見てきたのである。

 

 独立行政法人、新エネルギー・産業総合開発機構(NEDO)(経済産業省所轄)、独立行政法人、科学技術振興機構(JST):(文部科学省所轄)、独立行政法人工業所有権情報・研修館:経済産業省所轄、独立行政法人 国立環境研究所(環境省所轄)、独立行政法人産業技術総合研究所(経済産業省所轄)、独立行政法人 情報通信研究機構(総務省所轄)、独立行政法人 農業・食品産業技術総合研究機構食品総合研究所 (農林水産省所轄)、独立行政法人 農業生物資源研究所(農林水産省所轄)、独立行政法人物質・材料研究機構(文部水産省所轄)、独立行政法人理化学研究所 (文部科学省所轄)、それら法人が、パネルや物を展示し、しかも、担当者まで、ブースに貼り付けて、それぞれの成果を発表していたのである。すべては、ナノテクに関連したものばかりなのである。細かいところをみれば、多少違うのであるが、ぱっとみただけで、それぞれの独自性は、分からないのである。

 

 仕事がら、頻繁に大阪と東京間は移動する。知り合いの商社の人は、いつも、飛行機を利用する。JALならJAL,ANAならANAとマイレージの関係で、使用する飛行機会社を特定しているようだ。私は、そんな人を横目にしながら、ひたすら、新幹線を利用する。大阪から九州や北海道にいくのを除き、新幹線でいけるところは、新幹線でいく。なぜなら、理由は簡単である。ただ、飛行機が怖いからである。一時間の恐怖よりは、2時間半の退屈を選ぶからである。昔、東京から大阪まで、飛行機に乗った際、上昇してから、降りるまで、悪天候の中を飛んだことがある。その一時間は、恐怖の連続だった。それ以来、東京―大阪間に関しては、できるだけ新幹線をつかうことに決めている。

 

 そう決めれば、後は、その東京―大阪間の時間を有効に活用することを、考える。社員のひとりが、新幹線を利用する際に、携帯で予約を入れていた。それは、なんだ、と聞いたら、J-WESTカードです、これがEエキスプレス予約ですと、教えてくれた。色々みていると、確かに、これは便利だと感じた。あ、これが、仲間由紀江さんがやっているものだと、思った。駅のポスターで、カードをもって、仲間由紀江さんがニコニコわらっていた。JR西日本は、尼崎の事故の関係で、評判がわるい。しかし、この仲間由紀江さんをCMに使っているのは、実にいい、どこの広告会社かは知らないが、長い髪を清楚に流している仲間由紀江さんの微笑む表情は、人を和ませる。その勢いで、昨年か、一昨年か忘れたが、J-WESTカードを申し込んだ。若い社員は、本当にカードを有効につかっている。航空機のマイレージにしても、実に合理的に運用している。携帯とネットを駆使し、いろいろな特典を活用している。それをみると、いつも関心している。確かに、このカードは、2倍おいしいカードなのである。マイルがたまると、普通車の料金で、グリーン車にのれるのだ。金曜日の夕方、大抵は、東京ー大阪は、満席である。しかし、グリーンはあいているのである。この特権を利用して、数回、グリーンで大阪まで帰ったことがある。そして、普通のカードとしての特典もあるのである。

 

 人は、いつの世でも最短を選ぶ。だから、のぞみに乗る。もちろん、普通車よりもグリーン車の方がいいに決まっている。E-エキスプレスを使うと、3日まえに予約をすれば、ひかりのグリーン料金が東京―大阪、14000円で乗れるのだ。あらかじめ、時間がわかっていれば、私はそれを利用する。東京―大阪間、3時間であるが、その分、グリーン車の空間で、じっくりと仕事ができるからである。たいていは、パソコンを開き、ブログを書いている。お客さんから、社長は、毎日ブログを書いていて、ひまだね、と揶揄されるが、これも、SEO対策の一環で、仕事の一つだと考えている。他にもやらなければならないことがある。その中で、時間を見つけなければならない。意外と大変なことなのである。しかし、人間、やらねばならぬと決めれば、ぐうたらな私でもできるものである。

 

 どうにも、こうにもやりきれない事件がつづく。ある程度、町工場はつぶれていく現状が見えていたが、その過程の中で、そこで生きてきた家族が、こういう形で、つぶされていくのを見つめると、世の中の無常を感じざるをえないのである。大きなうねりの中で、小さい命が犠牲にされる。その変革の中で、年をとりすぎて、新しい波に対応できない、そのジレンマを感じても、どうすることもできない。乱れようとする心に苦しむ。結局は、なたをもって、自分が生きた痕跡を家族ともども抹殺する。そんな悲しい事件が東京都の足立区の町工場で2月11日の夕方起きたのである。一家4人が死傷する事件である。機械工の佐々木亨さん(52歳)が、母親(85歳)、妻(49歳)を殺し、次男(15歳)には、次男の両手首を切り落とし(重傷)、そして最後に自分の命をも止めたのである。いわゆる、無理心中である。長男(18歳)は、大学受験のため、家を離れていたので、難を逃れている。

 

 佐々木さんの町工場は、ある意味、機械工としては、ありふれた形態なのである。東京、名古屋、大阪、類似した町工場は、結構あるのである。戦後、亨さんの父親が立てた工場を受けついた。戦後の右肩上がりの経済では、どんなかたちであれ、堅実に仕事をしていれば、それなりに仕事はあったし、家族を養うことはできたのである。自宅の一階を作業場として使い、そこで、機械の修理や中古機械の販売、工具の販売、バイク修理、よく町並みでみかける町工場である。残念だが、もはや、日本では、このような形態の町工場は、成り立たなくなったのである。どこでもそうだが、中国から安いものが入ってくる。工具やちょっとした機械なら、大手のホームセンターで売っている。バイクも車も大手資本の系列会社がどっと入ってくる。そう、大きな敷地をもっていた工場が移転するか、倒産した後に、大手のホームセンターや、車やバイク、タイヤ関連の店が町並みに入ってくるのである。そして、零細の機械工の町工場は、そこで息の根を止められてしまうのである。もはや、収益をあげられるものがないのである。亨さんは52歳、機械いじりしかやってこなかった人である。いまさら、営業などできないのである。油がしみこんだ手をきれいにし、パソコンをうって、ネクタイをして、外回りはできないのである。職人は職人しかなれないのである。そして、借金が残るだけなのである。

 

 まだ、52歳である。これから少なくとも10年以上は働けたのである。しかし、もう52歳なのである。父親から受け継いだ後、家族のために一生懸命がんばってきたのである。たぶん、家族一体で、生きてきたのであろう。二人の子供が学校から帰る。あそびに行く姿をみて、家族のためにがんばろうと思ったに違いないのである。夕暮れどきに、子供が帰ってくる。妻が夕食の支度をする。みんなで食事をする。労働は大変だが、それなりの充足感はあったはずである。そう、その平凡な中にも幸せがあったはずである。しかし、それは永遠には続かない。市場経済の中で、その幸せが崩れ去ったのである。仕事がへってきたのである。いや、なくなったのである。それが、10年前に来ていたら、あと、10年後に来ていたら、そう、タイミングが悪いのである。母親は85歳、介護が必要になる。子供は、大学へ教育費の負担がかかってくる。残るのは、受け継いだ財産を処分するしか方法はないのである。もし、それ以上の借金があったら、残された道は、命を絶つしかないのである。そう追い込まれるのである。

 

 ふたたび、沖縄でとんでもない、破廉恥な事件が起きたものである。アメリカ海兵隊のタイロン・ハドナット容疑者(38歳)が、10日午後10時半ごろ、沖縄県北谷町北前の路上にとめてあった車の中で、女子中学生に暴行、強姦したという容疑で逮捕されたのである。この事件が、大きく取り上げられるのは、199594日に起きた、アメリカ海兵隊兵士3人が沖縄の12歳の女子小学生を拉致した上、集団強姦で事件があるからである。この事件は、明らかに、買い物にきていた12歳の女子小学生を拉致し、その上で、抵抗できないように、粘着テープで顔を覆い、そして手足を縛った上で、近くの海岸までつれていった。そこで、集団で強姦し、傷害を与えたのである。その当時、日米地位協定により、身柄が拘束できるのは起訴後ということで、起訴されなければ、実行犯の身柄拘束は不可能だったのである。もちろん、この事件は、起訴され、日本で裁判され、この犯人には懲役6年から7年の実刑が言い渡されたのである。その後、日米地位協定は見直され、殺人や強姦といった反社会的な凶悪事件については、逮捕(身柄拘束)が出来るようになったのである。この事件をうけて、沖縄県民の反米や反基地感情が爆発したのである。

 

 このタイロン容疑者は、愚か者である。38歳にもなって、少女に手を出すとは、実に愚か者としかいいようがない。ロリコンでしか、自分の性欲を満たせないような人は確かにいる。少女趣味で、その仮想の世界の中で、欲望を昇華する人た