2007年11月アーカイブ

 横綱朝青龍関がモンゴルから帰国して、謝罪会見を開いた。ただ、そのニュースを聞いて、朝青龍が、帰ってきたと感じたのである。彼が、できることは、相撲をとって、給金をもらうこと。自分の実績と能力からみて、これほど、彼にとっておいしい所はないのである。いままで、まさか、そのおいしい場所を失うことなど、考えていなかったのである。ちやほやされるし、まわりから、おべっかを言われたりするし、これも、裸の王様状態だったのである。彼のおごりとして、俺がいるから、興行がなりたち、この俺の力で、相撲協会も成り立っていると感じていたのである。だから、何をしても、文句は言われないとたかをくくっていたのである。その根底が覆ったのである。引退勧告まで、突きつけられたのである。朝青龍は、本気で考えたはずである。わがままを通し、引退できるかどうか、引退すれば、考えてみれば、ただのモンゴル出身の相撲しかできない男だと理解したはずなのである。利益と能力を天秤にかけたのである。その結果、残ったほうがいいと判断し、日本に帰ってきたのである。それが根底にあるから、神妙にしていればとりあえず、世間は納得するだろうと考えているのである。だから、謝罪会見を開き、「皆様に長い間ご迷惑をおかけし、心からお詫びします」と謝罪したのである。心からお詫びしますと本気で思っているわけがないのである。もし、本気で思える人間なら、そもそも、今回のような騒動など、起きなかったのである。みんなから、人望の厚い横綱と慕われていて、仮病をつかって、モンゴルに帰り、サッカーに遊興などしなかったはずなのである。そう、ただ、相撲というフィールドで、相対的に相手を先に、土俵から出すか、土俵につける能力がたまたま、高かっただけの男なのである。

 

 なぜ、今日という日を選んだのかわからないが、あの亀田大毅選手が、謝罪会見として公の場にしゃしゃり出たのである。世界フライ級タイトル戦で内藤選手に反則行為を繰り返し、ボクシングコミッションから一年間の資格停止処分をうけた男なのである。はっきりいって、18歳のつまらない少年なのである。ただ、人より、ボクシングというフィールドで、相手をノックアウトする能力やボクシングのルールにのっとり、相手よりも相対的に高いポイントを得る能力が、多少よかった少年にすぎないのである。ただ、それだけの男なのである。そして、タイトル戦で、反則行為を繰り返すことしかできなかった男なのである。この男も、このフィールドで生きるしかないと考えたはずなのである。何か謝罪会見や説明をしなければ、このフィールドで生き残れないと感じたはずなのである。もちろん、彼は、そんな謝罪会見など、したくはなかったはずなのである。しなければ、生きていけない。いまさら、他の仕事をしても、今以上の生活が保障されない、自分の能力をわかっているのである。だから、謝罪会見をしたのである。しかし、それだけの男でしかないから、「皆さまお騒がせして大変申し訳ありませんでした。今日から、気持ちも体も落ち着いてきたんで、1からではなく、ゼロからスタートしたいと思うので、ファンの皆さま応援よろしくお願いします」と話し、頭を下げただけなのである。もちろん、この男に、反則行為やゴキブリといった言動等の説明や内藤選手に対しての詳細な謝罪、こういう点がわるかったから、謝罪したい、こういう言動をした点に問題があった、といえるものがあるわけがないのである。もし、そこに世間で納得できるものがあれば、まだ、すこしは大人になったと見れるのだが、実際はそれもないのである。ただ、金平会長が、「百万遍の言葉より、これからの姿を見てほしい」とサポートしたに過ぎないのである。

 仕事の関係で、昔、イスラエルに行ったことがある。北朝鮮にはいったことがないが、非常に、イスラエルの入国と出国は、大変だったのである。とくに、セキュリティ対策の関係で、出国時の手荷物検査は、厳重であり、そのために専門の係官との一対一の面談(インタビュー)を受けるのである。どこから、来たのか、あなたの家はどこなのか、イスラエルのどこにいったのか、そういった日常性の質問をえんえんと繰り返すのである。そこで、彼らは私の心理を見ているのである。よどんだり、矛盾があると、相手は疑問に思うのである。相手は、私がテロリストかどうか見ているのである。日本人だから、どうだは関係ないのである。どんな人にも例外はないのである。それを終えると、簡単な荷物のX線検査があって、やっと、飛行機の登場手続きが出来るのである。大体、ひとり子一時間、その激しく不快な尋問を受けるのである。それほど、厳重にしないと、やられるのである。今は、どのようなセキュリティになっているか、わからないが、あの国の実情を考えると、今でも続いているように思えるのである。そう、イスラエルは、当然に、徴兵制を引いている国のひとつなのである。

 

 徴兵制は、有無を言わず、人を軍隊に組み込ませるのである。イスラエル人の精神的な強さは、その徴兵制で、培われるのである。一瞬の迷いや決断の遅さで、命を落とすことを擬似経験させるのである。やらなければやられる。その一瞬の決断力、行動力を軍隊で、徹底的に体にしみこませるのである。そう、昔の日本の武士と同じなのである。やらなければ、やれれる。一瞬の剣の迷いが、命取りになるのである。そのために、日本の武士は、精神を鍛えたのである。すくなくとも、徴兵制での訓練は、兵器の取り扱い方や使い方の訓練よりも、より実践的な、生きるか死ぬかのシュミレーションを基にした、精神の鍛錬なのである。それは、日本の武道の訓練、特に、空手、少林寺、剣道といった、相手よりも先に自分の拳や剣が相手に届くことを柱とした武道の訓練に近い所に力点が置かれているのである。戦場におかれたら、生きるか死ぬか、倒すか倒されるかの問題になるからである。

 

 徴兵制度のある国として、韓国がある。それは、いつ北朝鮮がせめてくるかわからないからである。だから、徴兵して、いざというときは、ある程度年齢がいった人でも、いつでも、兵力として戦えるように訓練しているのである。だから、韓国の人は、肉体が徴兵制で鍛えられているために歌がうまいし、瞬発力があるのである。それに、精神的に強いのである。だから、日本の企業が韓国企業に負けるのは、その心の弱さが出てくるからなのである。

 東京地検特捜部は、前防衛省事務次官の守屋容疑者を収賄容疑として、その妻、幸子容疑者をその共犯として逮捕したのである。当然に、守屋容疑者が、公務員に適応される収賄罪として逮捕されるのは、当然だが、その妻まで、その収賄容疑の共犯として、逮捕されるのは、よほどのことがないとありえないのである。収賄罪で公務員の配偶者が逮捕されるのは、確かに異例なことなのである。確かに妻に対しても、逮捕状が発布されたのである。俗にいう刑法第65条の1の「身分犯の共犯」に該当すると地検は判断したのである。収賄罪は、公務員に適応される身分犯である。刑法65条の1は、「犯人の身分によって構成すべき犯罪行為に加功したときは、身分のない者であっても、共犯とする」と明記しているのである。この事案には「身分なき共犯」が成立すると判断し逮捕状を裁判所に請求し、それが受諾され、それを基にして逮捕したのである。

 

 まさしく、「家政婦は見た」の世界そのままなのである。飲み食い、ゴルフ、すべての享楽に関する費用を、山田洋行に払わせたのである。とんでもない世界なのである。これほど、自我を肥大させ、しかも、女帝としての栄華を享受してきたのである。防衛省事務次官の妻として、夫の権力の傘の下で、わがままし放題の人生を歩んできたのである。それが、崩壊したのである。守屋幸子容疑者は、防衛省と自衛隊幹部が集まる婦人会「美鳩会」の第二分会会長として権力をもったのである。そして、その婦人会メンバーらと飲食した代金、すべてを山田洋行になんの罪悪感もなく、当然という顔で支払わせていたのである。一事が万事なのである。この夫婦は、とんでもない虚像を実像と錯覚したのである。

 

 この二人をそこまで、おごらせたのは、他人の追従なのである。まさしく、裸の王様状態なのである。夫には職務権限があるのである。防衛省という機密があるのである。それを隠れ蓑にして、自分の栄華を突き進んだのである。はむかうものは、夫の権力で、左遷し、すべてを、贈賄の提供者に優位になるように仕向けたのである。だから、だれも、守屋前事務次官にはむかうものはいなくなったのである。当然に、その妻にも逆らえなくなったのである。こういう単純でしかも権力をもつわがままな人に対しては、賄賂をしかけ、その見返りとして、利益をもらう人とその権力に迎合しぺこぺこひれ伏す人がでてくるのである。だから、この婦人に対して、どれだけの人がゴマをすり、おだてあげたか、想像がつくのである。この婦人は、地元の高校を卒業後、防衛庁に入り、守屋容疑者と結婚したのである。虚栄心のつよい、見栄をはる勝気な女性だと想像するのである。守屋容疑者が、トントン拍子に出世するにしたがい、段々と自分の地位も上がるような錯覚を得たのである。この防衛省には、婦人会が存在するのである。たぶん、自衛官幹部の妻の横のつながりを重視した組織なのである。銃後を守る感覚として、存在していたはずなのである。人があつまれば、上下関係が生まれるのである。夫の階級がそのまま婦人会の階級になったはずなのである。当然に女の争いと派閥が形成されたのである。頭のいい、付和雷同する婦人会の女性は、幸子容疑者を、持ち上げるだけ持ち上げたはずである。その代償として、そのメンバーの人は飲食に連れていってもらい、そのおこぼれを預かったのである。それも常軌を逸したものなのである。もちろん、幸子容疑者は自腹を切ることはない。山田洋行といううちでの小槌をもっていたからである。「請求書は山田洋行にまわしてね」それだけでいいのである。

 詳細は、分からない。しかし、これは悲しい結末であった。事件の構図は、簡単である。三浦啓子さんの妹の夫(川崎容疑者)が、16日の午前三時ごろ、三浦さん宅に入り、三浦さんを殺害した。騒がれたため、一緒に寝ていた茜ちゃんと彩菜ちゃんをも殺し、その遺体を遺棄したのである。その容疑で、逮捕されたのである。取調べに対して、その容疑事実を認めているのである。香川県坂出市で起きた行方不明事件は、親族の犯行というもの悲しい結末で、その事実関係が見えてきたのである。警察は、その事実(仮定)の裏づけをとるため、証拠を固めているのである。自白の強要がなければ、本人がそう供述しているので、それは、確かだと感じるのである。

 

 事件が解明したのは、被害者と容疑者との接点があったからなのである。これは、怨恨による犯行だと想像する。証拠を隠蔽し、さらに孫娘まで、殺害しなければならないくらいに、容疑者には、強い恨みがあったはずなのである。たぶん、被害者も、自分に強い恨みを持つ人間がおり、何かしらの殺害される不安や予感があったはずなのである。きっと、被害者には、容疑者の存在を意識していたはずなのである。だから、孫娘をそばに寝かしていた。ひとりでは不安だったかもしれないのである。被害者は、容疑者を知っている。もし、襲われても、孫娘がいてくれる。そのとき、容疑者は、孫娘までは手を出さないと思ったかもしれないのである。そこまで、残酷にはなれないと思ったかもしれないのである。しかし、現実には、茜ちゃんと彩菜ちゃんは、殺されたのである。被害者としては、最悪な事態となったのである。もちろん、容疑者にとっても、悔やんでも悔やみきれない結果を加重させたのである。容疑者の心は、興奮している。だから、茜ちゃんと彩菜ちゃんをも殺した実感はないはずなのである。罪悪感は、その興奮のため、今は出てこないはずなのである。しかし、時がたち、その興奮が鎮まれば、容疑者の心に、茜ちゃんと彩菜ちゃんを殺した罪悪感が激しく襲い掛かるはずなのである。

 

 被害者と容疑者との接点があれば、そこには、原因と結果とのつりあいが存在するのである。結果に対する動機があるのである。人殺しを実行する。そして、茜ちゃんと彩菜ちゃんまで、殺害する。目的は、三浦啓子さんだったのである。その目的を阻害する因子となる茜ちゃんや彩菜ちゃんまでも、盲目的に抹殺したのである。だから、容疑者には、その激しい結果に対して、見合うだけの強い動機があるのである。その事案の裏に潜伏する事実は、容疑者の妻(三浦啓子さんの妹)が、今年4月にガンで病死している点と、被害者のために、容疑者の妻名義で多額の借金が存在している点なのである。

 

 誠に、残念な情報が、入ってきたものである。覚せい剤取締り違反で、歌手の桂銀淑容疑者が逮捕されたとのことである。たぶん、ごきぶりと同じで、一匹発見したら、相当、棲息しているとのたとえどおり、芸能関係者の間で相当蔓延していると考えたほうが無難である。確かに、光GENNJIの赤坂君もつい最近逮捕された高橋祐也容疑者も、同じ容疑で逮捕されているのである。ある意味、3件立て続けなのである。警察が摘発に力を入れているのも分かるが、これは、確率的に見て、相当、蔓延しているといわざるを得ないのである。覚せい剤は、1031日の美粒ブログ光GENJI、赤坂、覚せい剤所持で逮捕(覚せい剤の怖さ)で明記したおとり、その強い依存性と中枢神経を刺激する薬理作用とその薬が引き起こす副作用が問題なのである。一端、その感覚を記憶したら、なかなか、そこから抜け出ることは出来ないのである。

 私も、彼女のファンなのである。そのメロディの中に注ぎ込まれる情感に、うっとりとさせられた一人なのである。彼女の経歴をみていると、過去色々なことがあったろうと想像できるのである。つい、心の寂しさや感情の不安定さから、覚せい剤に手を出したとしたら、誠に残念至極なのである。誰にも、迷惑を掛けているわけではないという意識から、その罪悪感が希薄になっているのだろうが、それでも、覚せい剤は、社会のためにも、個人のためにも、よくないことなのである。しかし、そんな意識さえも、忘れるぐらい、目の前に、それがあったら、ついという気持ちが働くのも事実なのである。つまり、芸能界は、覚せい剤が、簡単に手に入りやすいし、その誘惑を受けやすい世界だと思われてもしかたがないのである。

 基本的に、罪悪感がないのである。だれにも迷惑を掛けていないと錯覚するのである。そして、どんどんその強い依存性が体の中に浸透していき、最後には、それがなければ生きていけないようになるのである。強い禁断症状がでてくるのである。そこに、妄想や幻想が現れ、特に、被害妄想が現れると、反社会的な行為に及ぶこともあるのである。だから、覚せい剤を使って、人をコントロールすることができるのである。覚せい剤を与えて、中毒させればいいのである。自分が、覚せい剤により、他のものから、コントロールさせられるのである。一番怖いのは、売春なのである。売春婦にさせられる可能性があるのである。これは、日常の中に潜む、最大の恐怖のひとつなのである。

 事件から、一週間経過した。警察の懸命な捜索にも関わらず、犯人につながる物証は出てこない。これは、不可解千万な事件なのである。16日の早朝、「はよせんか」という声を近くの人が、聞いた以外には、さほどの遺留品もないのである。すくなくとも、誰かが三浦啓子さん宅に侵入し、三浦啓子さんと孫の茜ちゃんと彩菜ちゃんに危害を加え、その血痕や証拠となる物証を可能な限り取り去り、しかも、啓子さんと茜ちゃんと彩菜ちゃんを拉致し、そして、なぜか、靴と自転車と携帯電話を現場から持ち出しているのである。そして、窓や玄関が壊された形跡はないというのである。

 

 多量の血痕が残り、その血痕がしみこんだカーペットを剥ぎ取ることをしている以上、自作自演の狂言ではありえないのである。確かに、誰かが、三浦さん宅に、三浦さんを傷害、暴行、または、殺害目的をもって、侵入し、そしてそれを実行し、しかも、犯行隠蔽の目的をもって、証拠となるもの、遺留品、ことごとく、現場から持ち去ったのである。三浦さんを拉致・監禁・誘拐目的をもって犯行に及んだのでなく、三浦さんを危害を加えようとして、たぶん、殺害しようとして、侵入したのである。孫娘の茜ちゃんと彩菜ちゃんは、その巻き添えとして、もちろん、証拠隠蔽を目的として、危害を加えられたのであろう。そこに、犯人の冷酷無比な人間性を見るのである。現場を目撃された、犯行露見の可能性のある孫娘の存在まで、頭に入れて、犯行に及んだのである。もちろん、孫娘が現場にいなければ、手を出さなかったはずなのである。

 

 この犯人の冷静さを見ると、この犯人(実行犯)と三浦さんとの間に何かしらの利害や怨恨関係はないはずなのである。たぶん、三浦さんに好意をもっていない人が、この実行犯に犯行を依頼したと考えるほうが自然なのである。この実行犯は、冷静に、何のためらいもなく、目的を遂行したはずなのである。だから、今でも、犯人は、ぬくぬくと、犯人が生息する日常の中に埋没し、犯行前と同じように、何食わぬ顔をして生活しているはずなのである。だから、なかなか見つけることが出来ないのである。依頼人と実行犯とのつながりも希薄なはずなのである。たぶん、闇サイトか、裏サイトを使って、実行犯と依頼人はつながったはずなのである。それも、匿名で、相手がどこの誰かを知ることがないのである。報道によると、犯人は、単独犯ではないのである。たぶん、実行犯は、また、闇サイトか裏サイトを使って、仲間を募ったはずなのである。警察が必死で追いかけているのである。因果関係が明確なら、必ず、探し当てるはずなのである。それが、困難なのは、そこに、不特定多数のN数が存在しているからなのである。もし、実行犯の生息地が、別の都道府県であれば、縦割り行政の警察の組織の壁があり、たぶん、後手に回るはずなのである。

 どこからともなく、甘い好い匂いが漂ってきた。深いぎざぎざの葉の間に、銀細工のような小さな花が咲いていた。ヒイラギが咲く季節になった。この季節には、色々な実がなる。ナンテンやピラカンサは有名だが、よほど、園芸や花に興味がないと分らないのが、紫色した、ムラサキシキブや、マユミの実が実るのである。5月にさくナハミヅキも早春に咲くさんしゅゆも赤くて美しい実をつけるのである。そして、ひっそりと、冬桜(しきさくら、ふだんさくら)が、落ちてゆく落葉樹の間で、ひっそりと可憐な花をさかせているのである。

 

 晩秋の日差しは、温かく感じられる。木枯らしが吹かなければ、傷ついた夏の疲れを癒すのに、晩秋の光は最適である。その光が、ナンテンの実にきらきらと輝くのである。すこしの風に、ナンテンの赤い実がゆらぎ、それと同時に光のプリズムも微かに揺らぐのである。それは、確かに美しさなのである。そう、世の中は確かに揺らぐから美しいのである。そう、心も揺らぐから美しいのである。揺らぐ美しさなのである。強すぎてもだめ、弱すぎてもだめ、程よい揺らぎがいいのである。世の中には、直進運動と回転運動がある。それを組み合わせると、確かに、波になる。ゆらぐ波の美しさ、それも、強すぎたら、怖いし、弱すぎたら、単調になるのである。

 

 私は、会社を起業するまで、攪拌機のメーカーに勤務していた。毎日、毎日、流体の動きを見ていた。化粧品、医薬品、化学品会社のテストサンプルを、処理し続けてきた。そこで、海外製の高圧乳化装置とであった。今の私は、その原理を否定するが、その当時は、よく原理も分らず、テスト処理をしたものだった。通せば、細かくなるのである。力をかけるのだから、当たり前なのだが、その当時は、それでも、毎日が変化の連続で面白かった。水をベースにしたものもあれば、溶剤をベースにしたものもあった。人は、頭で考えても答えは見えないもので、何かしら、運転条件を勘でやれば、うまくいったのである。今はなくなられたが、当時、某大手の研究開発の部長さんだった人が私にいったものである。「門前の小僧、習わぬ経を読む、のたとえがある。君のやり方の教えを請おう」、当時30代の門外漢の私に対して、大学教授並みの知識を有する人が、私に頭をたれて聞いてきたのである。私はいまでもその人の謙虚さを忘れないでいる。当時私は、この海外の装置には、限界があるのをしっていた。うまくいくのも、うまくいかないのも、たったひとつ、乱さないようにすること、もちろん、その当時は、それを理論立てて、説明することもできなかったが、ただ、職人的な勘で、こうすればいいと、なんとなく分っていたのである。そう、毎日、毎日、処理物を見ていれば、なんとなく分るものなのである。頭で考えても、答えなどでないのである。そう、すべてが、ゆらいでいるため、強く力をかければ乱れ、弱すぎたら、細かくならずに分離したり、凝集したりするのである。それは、なんとなく、勘でわかっていたのである。

 歌手のCHIMIKOさんに、ボイストレーニングを頼んだのである。CHIMIKO先生は、なかなか手馴れたもので、歌うときの姿勢から、腹式呼吸から、口のあけ方から、舌の位置、発声方法まで、懇切丁寧に教えてくれるのである。第一回目であったから、ほんのさわり程度であったが、このボイストレーニングというのは、実に有益なものであるか考えさせられたのである。まず、鼻腔共鳴音が基礎ということなのである。鼻腔を指でつまんで、発声したときに、そこが振動していなければ、だめだというのである。確かに、そこを振動させると、声が振動して、自分が発した声が、骨を伝わって直接自分の耳に届くのである。今まで聞いていた自分の声とすこし違った音に聞こえるのである。たしかに、そのポイントを修正させられるだけでも、自分の声が確かにいい声に聞こえるのである。人からも、すこし聞きやすくなった、いい声ですねといわれだしたのである。これは、驚きの事実だったのである。

 

 こんなことを、いままで、意識したことがないのである。CHIMIKO先生のいうこと、逐一、納得できるのである。複式呼吸も、腹に力を入れて引っ込ましながら、息を全部吐き出すのである。そして、出し切れば、鼻から、自然とリバウンドするように、吸引できるのである。それを電子ピアノのメトロローム(電子音)にあわせて訓練するのである。CHIMIKO先生いわく、全部吐ききらないで、途中で吸引すると、吐くとき、つまり音がでるとき、音が汚れるというのである。音の発生と呼吸の吸引を、乱れという概念で説明した人は、いなかったのである。これは、確かに道理なのである。つまり、歌を歌うとき、常に、複式呼吸になっていれば、歌声は綺麗になるのである。それと同時に、常に、わき腹に力が入っているのである。綺麗な声を出す人は、たしかに、スタイルがいいのである。それは、腹式呼吸を常にしているからなのである。それが、歌う基本になるのというのである。美声の持ち主は、スタイルがいいというのが、納得できるのである。

 

 さらに、驚いたのが、舌の位置なのである。できるだけ、舌を下歯の方に収納するようにV字がたになるように押し下げ、音声の通る道を阻害しないようにすることなのである。ほほ骨もできるだけ上にあげるのも、同じ理由だそうである。そして、なんと、姿勢とくびの位置まで矯正させられたのである。特に、素人は、のどを絞って歌うのである。そうすると、声帯域が邪魔されて、ノイズが入るのだそうである。のどに力をいれないようにと、徹底的に指導させられるのである。高音になれば、首があがり、のどをしぼるようになるのだが、それだと、綺麗な高音がでないのである。つまり、声の発生には、コツがあるのである。当初、巻き舌音も出せなくなっていたのが、訓練していたら、若いときのように出せるようになったのである。そう、ある意味、だれでもが、その人にとってのいい声を発生させることが出来るのである。ボイストレーニングであるから、あとは、音階の問題である。それは、おいおい練習するが、それよりも、このボイストレーニングそれ自体が、声のトレーニングだけではなく、人生のボイストレーニングにもなるのである。下手なエアロビックスよりも、下手なカウンセリングよりも、下手なエステよりも、このボイストレーニングの方が、より、実用的だし、より実践的だと思うのである。

花が開く。

その中に宿るコスモス。

それを、じっと見てごらん。

そして目をつぶり、揺れ動く次元の風を感じてごらん。

何か見えないものが知らないところから放射線状に湧き上がるのがわかるよ。

心の粒が至る所からぽっと生まれ、至る所でぽっと消えている。

静かに、流れるせせらぎの音に耳を傾けてごらん。

優しく吹く風を肌で感じてごらん。

甘く漂う花の香りを思いっきりかいでごらん。

きっと自分たちがどこから生まれどこへ帰るのかがきっとわかるよ。

もう一度、花の中を何も考えずじっとみてごらん。

そして、目をつぶり自然の流れをもう一度感じてごらん。

 

星が光る。

その中を走る星群。

それを、じっと見てごらん。

そして目をつぶり、揺れ動く次元の風を感じてごらん。

何か見えないものが知らないところから放射線状に湧き上がるのがわかるよ。

心の粒が至る所からぼっと生まれ、至る所でぼっと消えている。

ゆっくりと打ち寄せる波の音に耳を傾けてごらん。

薄雲に輝く月影を見てごらん。

懐かしくゆれ漂う潮騒のにおいをかいでごらん。

きっと自分達がどこから生まれどこへ帰るのかがきっとわかるよ。

もう一度、星の群れを何も考えずじっと見てごらん。

そして、目をつぶり自然の流れを感じてごらん。

 

だから、

何も迷うことはないんだ。

何も悩むことはないんだ。

だから、

何も苦しむことはないんだ。

何も恐れることはないんだ。

 

人は百万分の一秒の中に生きて、百万分の一秒の中に消える。

 

考えるから、分らないんだ。

考えるから、感じないんだ。

考えたら、自分が出てくる。

自分が出てきたら、見えなくなるんだよ。

 

だから、コスモスがみえないのだよ。わかるね。

 

 

文明は言葉から生まれた。人は、言葉によって定義され、言葉によって世界を隔離し、言葉によって、世界を覚え、言葉によってこうあるべきだと規定した。経典も、法律も、経済も、科学も、すべて言葉によって定義され言葉によって規格化され、死後の世界もまた、言葉によって暗示されるようになった。言葉の影響力は絶大である。しかし、反面、言葉により我々は気づかないうちに何かを失った。言葉によって確立された自我により、言葉による世界を別につくった。知らぬ間にそれが当たり前のように錯覚し、それが真実だと思うようになった。言葉によって、人は隔絶され、言葉により、人は神を創造した。すべては、言葉により語り継がれ、言葉によって運命付けられる。言葉によって習慣化され、言葉によって、何かを植え付けられ、言葉によって洗脳させられる。知らぬ間に、こうあらねばならぬと言葉によって束縛を受ける。恐れや不安や焦りや妄想も結局は言葉によって形成されたものである。

 

人は、言葉によって何かを考える。言葉を出して、何かを表現する瞬間に、人は何かを想起している。想起しているから、言葉がつながる。意識しているか無意識かは分からないが、言葉を出す瞬間、なにもないことはありえない。同時に見えるかもしれないが、時間を極端に短くすれば、言葉を出すまえには、必ずそれの素になる何かが存在している。それをイメージといえば、イメージだし、その表現したいものがあるならば、それはその言葉になるまえのイメージの模様であるはずである。それは、混沌としていて、そのイメージがたくさん重なっている状態である。言葉を想起するとき、その漠然と巨大に重なっていたものが、収縮し、その言葉とついになったイメージが1つ選択され脳の中に現れることになる。恐れを表す言葉が想起されれば、恐れのイメージが現れる。不安を表す言葉が想起されれば、不安のイメージがひとつ現れることになる。怖くない怖くないと強く自分に言い聞かせなければ、または、考えることや思考することを完全に放棄しなければ、人は自殺することなど出来ない。

 

自分は自律的なものだと思い込む。自分の意思があり、自分の考えがあり、自分は実存的や自立的に生きていると思い込む。しかし、それは、すべて言葉により形づけられたものであり、視点を変えて自分を再考察すれば、自分の意思も変わるし、自分の考えも変化する。自律的に生きていたと考えていたのも、実は何かに洗脳されて生かされていたと思うことも可能である。催眠により、自分は鳥であると強く洗脳されれば、催眠中、鳥の格好をするのに似ている。悩み苦しむ人は、何回も言葉により、自分を洗脳し、言葉を発する前のイメージの模様がある範囲の中で固定されているのである。本来は白紙である。別な言葉で言えば、空の状態である。色々な波動の模様が重なった状態である。そこには、言葉とつながったイメージはなく、人間が生まれる前、言葉が生まれる前から存在しているものが波動として重ねられている状態があるはずである。それが、悩み苦しむような模様に自分の言葉によって洗脳に近い形でゆがめられていくからである。血液がうっ血して肩がこるのと同じように、その言葉により心がそのイメージがでやすいように変形させられているだけである。だから、すこしのことでも悩み苦しむのである。何かを瞬間的に想起しようとしても、それがその悩み苦しむ方向にすぐに向けられるからである。

 

微分という考え方がある。時間を限りなく短くしていったときのその瞬間の状態を表すものである。車の速度計で60km/時間と表示されれば、速度計を見た瞬間、その車は60km/時でその瞬間走っていたのである。その精度をどんどん上げていけば、その瞬間が0.001秒であればその0.001秒での速度、0.00000001秒であれば、そのときの速度を表すことになる。

我々は、0.1秒では何も決定できない。言葉をだすのにも1秒は掛かる。0.1秒は短い、しかし、0.001秒に比べれば、100倍も長い。0.000001秒に比べれば100000倍長い。0.1mmは短い、しかし0.001mmに比べれば、100倍も長い。0.000001mmに比べれば、100000倍長い。言葉を発す前のイメージの模様が心の粒子で揺らぎ振動しているならば、その波長を0.5ミクロンとして、その速度を30万Km/秒とすれば、一秒間の間に、600000000000000(6X1014)回振動していることになる。人の脳の長さを20cmとすれば、一秒間に20cmの間を750000000回往復している。一回往復するのに0.000000001秒でしかない。その中で600000回振動していることになる。波長の差、振幅の差の波動がたくさん重ねられているとすれば、視覚化できない模様が言葉を発する0.000000001秒前にも存在していることになる。一回振動するのに、0.00000000000000167秒の時間でしかない。我々の中でそれを識別する能力はない。

(この世の中にある不可思議なゆらぎをイメージ波として捉えてみました。)

 

人は生まれる前の事を知らない。

人は死んだ後の事も知らない。

人は睡眠中の事も知らない。

一分前の事も記憶が保持していなければ知りえない。

人が知りえるのはこの一瞬の変化だけである。

後は、記憶の残像だけである。

 

自分を微分すれば、そこにあるのは、イメージ波である。

自分はあるようでいてない。

自分はないようでいてある。

どこに、あるのか、あるのは、そのイメージ波のゆらぎの中にある。

 

自分は哀しむ。しかし、その哀しみはどこにある。自分のどこにある。

哀しみも流れる。哀しみも変化する。

哀しみを微分すれば、そこにあるのもイメージ波である。

 

自分は喜ぶ。しかし、その喜びはどこにある。自分のどこにある。

喜びも流れる。喜びも変化する。

喜びを微分すれば、そこにあるのもイメージ波である。

 

イメージ波ってどんな波、

浜辺に打ち寄せ減衰する波?

弦をはじいて、揺らぎ震える琴の音の波?

桜の花びらをそっと散らすように通り過ぎる春風の波?

母の胎内でゆっくりと浮いたり沈んだりする生命の波?

 

目が覚める瞬間に感じる何かのゆらぎ、睡眠に落ちる瞬間に感じる何かのゆらぎ。

人が生まれる前にあったゆらぎ、人が死んだ後にもあるだろうゆらぎ。

きっと、自分を自分として感じるものの向こう側にそれらがある。

自分の背後にそれらが存在し揺らいでいる。

 

自分を自分として意識する間は、それらは消える。

自分を意識していないとき、人の背後からそっと現れ、人の体をすり抜けていく。

自分を意識するその瞬間だけ、自分はある。

それが、瞬間・瞬間に生まれては記憶へと消える。

飛行機雲のように、花火の瞬きのように、風鈴の余韻のように、

線香の煙のように、どこかへながれ、空(くう)に消える。

その間の変化を記憶としてとどめる。

 

イメージ波はどこにある。

自分の中にも、自分との境にも、自分の外にもそれらはある。

自分を強く感じたなら、それらは別な形になる。

喜びと結びつけば、笑顔になる。

哀しみと結びつけば、涙となる。

憎しみと結びつけば、夜叉になる。

嫉妬と結びつけば修羅になる。

 

でも、本来は無色透明な波。つかみどころのないもの。

識別できないもの。まるで、幻のようにゆらぐもの。

言葉を超えたものだから、言葉では言い表せられないもの。

 

空(くう)ってなに。何もないこと。

いいえ、それは違う。

言葉では言い表せないイメージ波で満たされた世界、それが空(くう)。

お釈迦様もキリストも大日如来様も観音様もすべて言葉で表したものは、

イメージ波をその人なりに作り変えたもの。

それはそれで良いこと。その向こうにあるものは同じである。

 

昔、山の向こうに神がいると信じた。

死んだ人の魂は山へ帰るといわれた。

そう、山の向こうにも、海のかなたにも、宇宙の先にも、すべてがイメージ波で満ちている。

記憶の中にはそれらは残らない。だから分からない。

自分を滅した瞬間、それらは瞬間的に顔を出す。

しかし、人は滅した瞬間、別な顔を持つ。

だから、とどめることは出来ない。

生きている限り、それらを見ることは出来ない。

人の心と作用を持った瞬間に、別なものに変化する。

 

だから、安心しなさい。

 

恐れはイメージ波が自我と結合したために、生じたもの。

記憶を残したいと感じる心が生み出したもの。

電源を落とせば、自分の中の記憶はなくなる。

しかし、イメージ波のどこかに記憶は永遠に残る。

自分の一瞬一瞬の変化がイメージ波のどこかに繰り込まれている。

 

人の記憶や自意識は消えても、自分を感じたその事や、

そのことで変化したゆらぎそれ自身はイメージ波として残る。

そのどれかが、新しい生命から派生した自我の中に取り込まれる。

でも、それは自分ではない。まったく新しくリセットされた自我だから。

 

でも、安心しなさい。

 

それはあなただけじゃなく、みんな全員、そうなのだから。

お父さんも、お母さんも、おじいちゃんも、夫婦も、子供も、お友達もみんなそうだから。

 

だから、安心して生きなさい。

 

恐れは、自我から生まれた幻想。

だれもが、生命を保持できなくなる前には、記憶が薄らぐ。

それと同時に、イメージ波が浸透してくる。

そうしてイメージ波に満たされたあと、生命を閉じる。

恐れや不安もなく、イメージ波のゆらぎの中に自分というものは帰える。

その瞬間、最後の瞬間に、自分が一番愛したゆらぎを感じる。

それが、母の子守唄なら、そのゆらぎ。

それが、子供のとき感じたそよ風のゆらぎならそのゆらぎ、

海辺の潮騒の香りならそのゆらぎ。

森林から差し込む朝日の輝きならそのゆらぎ。

 

そうして、そのゆらぎを最後に感じながら、大きなイメージ波の中に人は帰ることになる。

 

恐れもなく、不安もなく、怒りもなく、哀しみもなく、

空(くう)から生れ落ちたと同じように、空(くう)の中にもどる。

 

その一瞬のそのまた一瞬に、生命というものに再生させられた喜びを感受する。

そうして、大きな愛に満たされたイメージ波の一部に組み込まれる。

もし、そこに愛がなければ、人の心にも愛が存在しえないのだから。

 

 私の手元に11月18日執行、大阪市長選挙公報がある。そこの右下欄にわけが分からない人の広報が載っていた。公職選挙法により、候補者からの原稿が原文のまま掲載されているのである。その名前は、藤井英悟氏なのである。その内容は、支離滅裂なのである。大阪市選挙管理委員会も、困ったはずなのである。しかし、売名行為等を排除するために、市長選挙に立候補するためには、供託金240万を支払わなければ、立候補できないのである。しかし、この男は、ブログをよんでいくと、消費者金融で240万を借りたとのことなのである。当然に、有効投票総数の10%に満たない候補者は、その供託金は没収されてしまうのである。それを覚悟で240万を支払った以上、藤井英悟氏の主張は、公職選挙法で禁止されている条項以外は、その権利として主張できるのである。

 

 それでも、有効投票総数904,054票に対して、藤井英悟氏は、8199票を獲得しているのである。もちろん、1%も満たないので、供託金は没収されてしまうのである。一体、このわけがわからない男は、何を考えていたのか、藤井英悟氏は31歳、派遣社員であり、写真の掲載を断った訳は、本人曰く、「写真不掲載の理由として出馬に当たり家族(妻、子2人)シンセキ(親戚)一同の猛反対があり、写真が掲載されることにより心労をかけないためです。家族親戚一同は至極まっとうな方々であり、私が言うのもなんですが、その心労を察してくださいますようお願いいたします。また、言動を見ればわかるように命の危険(暗殺、恐慌による凶行)があるため。セキュリティコストを考えても、公人となっても肖像権の確保、顔をメディアに出さないことを国会および市議会にも承認を頂きたい。万が一市長となりましたら市庁舎、議会では顔を出しますが撮影は禁止としてください。まず私が見て聴いて歩きます。」と書いているのである。その公報には、詳しくは、えいごの日記ブログをみろと書いてあるので、どんなものかと、見てみると、コメントの嵐が吹きまくっているのである。確かに、この藤井英悟氏は、おかしいし、主張をよんでも、ちんぷんかんぷんなのである。まともに取り扱うのもあきれるくらいのものなのである。たしかに、そこに、意味などないのである。意味などを求めること事態がばかばかしくなるような内容なのである。しかし、これは、事実なのである。240万を捨てても、藤井英悟氏は、結果として大阪市長選を戦ったのである。その代償は何かと考えることさえ、ばかばかしくなるような、内容なのである。興味のある人は、藤井英悟というキーワードを検索すれば、えいごの日記ブログはでてくるし、そこに書かれた内容を読むだけでばかばかしくなるし、そこに書かれたコメントを読むだけでも、はっきりいって、下手な漫才師よりも笑えるのである。

 長年大阪市が管理運営している財団の賃貸工場を6部屋借りている。駐車場も含めると毎月、そこそこの金額を財団に払っている。ここは、故小渕首相が、肝いりで訪問したところでもあるのである。とにかく、管理人は、天下りで数年おきに入れ替わる。だから、管理人が変われば、対応はいっぺんするのである。また、管理人ともども、財団の担当者もころころ代わるので、事務的なことは引き継がれるのだが、担当者個人の信義則で取り交わしたものは、どこかへ行ってしまうのである。とにかく、個人的には、いろいろと大阪市の内情は、聞いているのである。普通の民間ではありえないことが、役所、特に、巨大な行政機関(大阪市)では、起きているのである。ここでの対応をみれば、巨大な大阪市の内部で何が起きているかは、想像できるのである。官僚組織なので、まったくの相似形であることは、理解しやすいのである。東京特別区を別格とすれば、政令指定都市で、大阪市NO1なのである。その権限と資金力は、都道府県以上の力をもっているのである。大阪府と大阪市、どちらが、力を持っているといえば、大阪市なのである。だから、何かことがあれば、ぼろぼろとわけのわからないものが出てくるのである。そう、大阪市は日本のある意味、行政の縮図でもあるのである。

 

 官僚とは、まったく、減点主義なので、あえて、リスクを犯すことはしないのである。つまり、何もしないのである。上から言われたことを、それなりにやるのである。絶対に前例のないものや、責任がとれないことはしないのである。そして、何かあれば、それはいいましたよ、それは企業様のリスクでやってくださいという言い方をするのである。そんな話をいろんなところから聞くのである。そう、責任転嫁、つまり、何かあっても減点が最小限度になるように、いつも布石を敷いているのである。その根本にあるのは、身分保障なのである。つまり、公僕であるために、それ以上のサービスをする必要もない。さりとて、苦情が出ない程度のことしかやらないのである。規則で書いてある時間だけ、そこにただいて、やるべきことだけをやる。それが彼らの仕事なのである。何かしでかして、免職でもしたら、退職金や年金がもらえないからである。彼らは、自分が公務員以外の仕事は出来ないと知っているのである。民間がどれだけ厳しい現実を向かえて、どれだけしんどい思いをしているか、分かっているのである。基本的に頭のいい連中なのである。自分がつかんだ境遇を手放したくないと思っているのである。人間にはエゴがあるのでそれが当たり前なのである。公務員の最大の弱点は、公務員以外の仕事ができないという点なのである。だから、天下りした人も、過去のやり方が身についているため、民間との交流ができないし、どのように対応したらいいか分からないのである。民間ならくびである。しかし、そこは民間に委託できないのである。なぜなら、天下り先がなくなるからである。そう、逆に、民間から役所に入ったら、その非効率さにあきれるはずなのである。事実、そういう人は、役所で言えないことを、私にぺらぺら話すのである。もちろん、彼らは、頭がいいから、ちゃんと自己弁護のロジックは残しているのである。公務員はいつも同じことをいうのである。「私たちはみなさんのために一生懸命に仕事をしているのです。そのように受け止められているとは悲しいことです」、公務員は弁が立たないと上にはいけないのである。

 世の中には、何も決まったことはない。人は、何かの縁があって、この世に生まれ、それが自分という意識をもった結果、自分がこの世に生まれる。この自分の基本になるのは、自分の中の記憶だけであり、自分を自分としてつなぎとめるものは、それ以外にはないのである。いつか、自分はぽっくりいく。どんな人でも、いつかぽっくりといくのである。それが、明日かもしれないし、一週間後になるかもしえないし、十年先かもしれないのである。確率的に、この瞬間でも誰かがぽっくりといっているのである。そのぽっくりといった人は、昨日、自分が今日ぽっくりといくとは、考えていなかったはずなのである。それと同じように、いつぽっくりいくとは、だれもわからないのである。それが自分に襲ってきたとき、あっ、そういうものなんだと分るのである。もちろん、ぽっくりいってしまえれば、この世の世界がどうなろうと、関係がないのである。総理大臣まで上り詰めた人も、億万長者であろうと、ノーベル賞を受賞した人も、逆に言えば、何もできずそれなりの人も、ぽっくりいってしまえれば、それまでの話なのである。それは、考えたくない話だが、事実なのである。それを踏まえて、どうするのかが、すべての事の出発点になるはずなのである。

 

 だから、すべては、どうでもいいという結論になるのである。ある意味、当たっているのである。それに対して、そういう虚無的なものはよくないといっても、その当人にとっては、おせっかいと受け止められたら、それで終わりなのである。どんなことを言ったって、ぽっくりいったら、それで終わりですよと言われたら、それに対する抗弁がないのである。死後の世界があり、だから、生前の因果が死後の結果を左右するといっても、それを証明するすべがないのである。生前の因果が果たして、死後の結果にどう影響するかなど、だれもわからないのである。それこそ、その人それぞれの考え方で、いくらでも死後の結果の内容が変化するのである。そう、ぽっくりいったら、それで、終わりなのである。だから、ぽっくりいくのを、できるだけ遅らせたり、ぽっくりいくまで、それなりに生きたほうがいいという考え方もできるのである。もちろん、そう思わなければ、それでもいいのである。すべては、生きている人がどう自分の人生(生)と向き合うかなのである。これには、正解はないのである。なぜなら、どうして、この宇宙があって、この自分と言う意識をもった自分がここにいるのかなど、誰も分らないからである。生まれてきたものが、何故自分なのか、自分の意識はなぜ、この自分なのか、それも、ぼっくりいくまでの間だけの自分でしかないので