2007年10月アーカイブ
覚醒剤は、人の中枢神経を刺激し、脳神経に作用させて、心身の動きを一時的に活性化させる薬物の一種なのである。本来の広い意味での覚醒剤は、覚せい剤取締法の規定にはふくまれない薬物なのである。それらは、医師の管理と処方の上に、その中枢神経刺激薬が必要とされる人に投与されるものなのである。一般的に、覚せい剤といわれているのは、覚せい剤取締法で規定されている薬物をさしているのである。アンフェタミン、メタンフェタミンを主として、それらを含むものをさしているのである。特に、「覚せい剤」といえば、メタンフェタミンをさし、俗称、ヒロポイン、スピード(S)、ジャブと呼ばれているものなのである。光GENJI、赤坂が逮捕されたのは、そのメタンフェタミンを所持していたために、逮捕されたのである。
覚せい剤取締法第二条で、覚せい剤とは、フエニルアミノプロパン、フエニルメチルアミノプロパン及び各その塩類、それらと同種の覚せい作用を有する物であって政令で指定するもの、それらのものをいずれかを含有する物なのである。そして、刑罰も第41条で厳しく明記されているのである。ちなみに、41条の2では、覚せい剤を、みだりに、所持し、譲り渡し、又は譲り受けた者(第四十二条第五号に該当する者を除く。)は、十年以下の懲役に処する。 また、営利の目的で前項の罪を犯した者は、一年以上の有期懲役に処し、又は情状により一年以上の有期懲役及び五百万円以下の罰金に処する。ということになっているのである。やはり、覚せい剤の恐怖は、その強い依存性と中枢神経を刺激する薬理作用とその薬が引き起こす副作用なのである。なぜ、それほど、覚せい剤が恐ろしいものなるのかは、この覚せい剤により、脳内からドーパミンが放出され、そして、普通なら、それが取り込まれ、脳内である一定の量を超えない状態が作られるのだが、この覚せい剤により、その取り込みがブロックされ、脳内には、そのドーパミンが脳の中のある部位に過剰に充満することになるからなのである。それにより、薬理的には、覚醒作用を起こしたり、爽快な気分に一時的になるのである。しかし、副作用としては、中毒症状があらわれ、統合失調症的な症状があらわれるのである。それが、色々な妄想や幻覚や精神的な分裂症状となるのである。強い、依存性があるので、一度、覚せい剤を摂取したことが脳の中の記憶に定着したら、その覚醒作用と快状態を求めるため、理性では抑えられなくなるのである。脳が要求するのである。別な言葉でいえば、体が要求するようになるのである。
ドーパミンは、中枢神経系に存在する神経伝達物質で、運動調節、ホルモン調節、愉快の感情、やる気、学習といった人間の向上心に関わる重要な物質なのである。それ自身は、非常に重要なものなのである。人間の意志や自律神経を訓練することによって、ドーパミンを制御することは可能なのである。薬に頼らなくても、精神的に同じような状態を作り出すことも可能なのである。もちろん、自律で制御できれば、副作用などないのである。覚せい剤が恐ろしいのは、それによって、心身のバランスが乱れることなのである。問題は、それが異常に放出されるのである。基本的に、覚せい剤を打たなければならないのは、末期ガンの痛みの解除なのである。若く体力がある人がガンにかかれば進行が早いのである。そのガンが速く進行すれば、はげしい痛みがでてくるのである。それは、体力や若さがあるからなのである。痛みを感じる神経系統がまだ犯されてないからなのである。その痛みは、体を自ら衰弱させ、命を早く絶とうとするから、痛みがでるのである。それは、傍から見ても辛いものなのである。それを和らげ、安らかな死を迎えるために、医師は、モルヒネを打つのである。モルヒネをうつのは、やすらかな命の終焉を迎えさすためなのである。そして、人は、死ぬとき、脳内麻薬(ドーパミン)を放出し、自らのDNAを切っていき、自分で安らかな命の終焉を迎えるのである。だから、覚せい剤とは、命の終焉と関わるのである。それは、死を早めるためのものなのである。一時的な快楽をもとめ、一時的な苦しみを逃避しようと思って手をだすことは、それによって、間違いなく、命を短縮させることになるのである。特攻に出陣する若者に、覚せい剤を与えたのである。戦場で、命を散らせるとわかっているひとに覚せい剤をあたえたのである。覚せい剤は、安易に製造できるため、戦争中、軍人の精神を高揚させるために、製造していたのである。そして、戦後、一時期、軍事的に製造された覚せい剤が闇にながれたのである。作家や芸人が覚醒作用として乱用したのである。覚せい剤を乱用した人は、結局、早く命を落としているのである。
考えてみれば、自衛隊の人は、よくやっていると思うのである。日本は、徴兵制をとっていないのである。だから、何人も強制的に、軍隊に入隊させられ、戦場に送られることはないのである。その点、戦後に生まれた人は、ある意味、幸せなのである。そう、たった62年前までは、国家総動員法の下に、赤紙一枚で徴兵させられ、片道の燃料しか搭載していない戦闘機に乗せられ、敵艦に突っ込まされたのである。もっと、ひどいのは、人間魚雷として、海中を走らせ、これを敵艦に命中させ自爆しろと命令されたのである。つまり、お国のために死んで来いといわれたのである。それを指揮したのが、旧陸海軍の参謀本部なのである。今の若者の祖父の代や今、80歳以上のお年寄りは、それを経験してきたのである。惨い時代だったのである。本土は、アメリカの空襲にやられ、多くの人が死に、そして広島と長崎には、原爆が投下されたのである。そして、日本帝国は崩壊し、戦後、戦争を永久に放棄した第9条を柱とした平和憲法の下、再スタートしたのである。
陸上自衛隊は、朝鮮戦争時、アメリカのGHQの指令に基づき、警察予備隊が総理府の下に組織されたのが、始まりなのである。旧海軍の残存機関が、まとまり、海上警備隊になったのである。そして、それが海上保安庁になったのである。その後、警察予備隊は、保安隊となり、そして、1954年7月1日に自衛隊法が施工され、陸海空の三つの組織をもつ自衛隊が生まれたのである。自衛隊とは、自衛隊法第三条第一項に規定されているように、わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略および間接侵略に対しわが国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たることを任務としているのである。もちろん、この自衛隊法の上には、憲法第九条がしっかりと重石としてのっかっているのである。憲法9条一項、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。二項、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。だから、自衛隊は、軍隊ではなく、自衛組織という位置づけなのである。だから、志願制を取らざるを得ないのである。しかし、その軍事能力は、世界でもトップクラスであることには変わりはないのである。
憲法9条があるから、自衛隊が存在できるのである。そこで、自衛隊の制限がつくのである。もし、9条がなければ、日本は、再び勝手なことをやる可能性があるのである。だから、9条と自衛隊は実にバランスがいいのである。国権の発動たる戦争、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄すると明言しているのである。実に美しい理念だと、世界に誇れる理念であるのである。そして、二項も、国際紛争を解決する手段としての国権の発動たる戦争、武力による威嚇又は武力の行使に必要な戦力は保持しないといっているのである。これも、美しい理念なのである。だから、自衛隊は、国際紛争を解決する手段としての国権の発動たる戦争、武力による威嚇又は武力の行使に必要な戦力ではあってはいけないのである。自衛隊は、そういう戦力ではないのだから、どうどうとしていればいいのである。
公判での鈴香被告の供述を読んでいくと、なんともやりきれない思いがするのである。たとえ、鈴香被告の虐められた心境が、分かったとしても、まったく関係のない豪憲君を殺害したことの言い訳にはならないのである。鈴香被告と長女の彩香ちゃんとの関係で言えば、そこに、彼女の生い立ちや精神状態の特異性があったことで、同情はできたとしても、豪憲君に対しては、同情などできないのである。「今になってもなぜ豪憲が殺されたのか分からない。私たちのことを慰めたりしながら、ばかにしてせせら笑っていたのか。豪憲が帰ってこないことは分かっているが、死刑にしてもらいたい。」それが、米山豪憲君の父親の供述調書に記載されたものなのである。鈴香被告の精神状態がどうであれ、たとえ、大きくなるまで虐められても、豪憲君殺害の事実は消えないのである。自分の内部や関係者の人生が、どう変化しようが、かまわないのである。問題なのは、鈴香被告が、まったく関係のない米山さん一家までめちゃくちゃにした責任だけなのである。他人が関わらなければ、鈴香被告と彩香ちゃんと恋人の関係だけで、事がすんでいたのである。それだけであれば、それでよかったのである。ある程度同情は出来たし、いじめとの関係で、なるほどといえたのである。なんともやりきれない思いがするのが、そこに豪憲君の命を奪った被告の心理の身勝手さがあるからなのである。
公判に提出された鈴香被告の文書を列記する。
「うそをつき、ひきょうだった。私は、亡くなった2人の子供たちにごめんなさいという気持ちでいっぱいです。米山さんには、大切な家族を奪ってしまい、申し訳ありません。米山さんの家族と、私の家族が失ったものは大きく、両家族に謝罪しなければなりません。1年半前、私はうそをつき、ひきょうでした。人のせいにしたり、知らないといったり、隠そうと必死でした。1年半前、やってしまったこととどう向きあったらいいか、悩み苦しみました。ゲームとは違い、リセットボタンはないのに探しました。それではいけないと思っています。毎日いろいろ考え、悩み、落ち込みます。償わなければなりません。この公判で、私がどれくらい変わったか見てもらい、米山さんの気持ちが和らいでもらえたらと思っています。彩香はいつも「お母さん、お母さん」と言ってそばにいました。今となってはかなわないけれど、もう一度抱いてあげたい。本当に申し訳ありませんでした。」
豪憲君を殺した後捕まり、拘置所の中で、ある程度客観的になれたときに、鈴香被告はこれを書いたと思われるのである。これは、後出しじゃんけんなのである。謝っても、後の祭りなのである。これを豪憲君の両親が読んで、彼らの気持ちがどう消化させていくのだろうか。鈴香被告は、結局謝るしか方法がないのである。罪を受け入れ、素直に心境を告発すれば、いいのである。それで、何とか心身のバランスは取れるかもしれないのである。しかし、豪憲君の両親は、どうすればいいのだろうか。鈴香被告は、この公判で、「私がどれくらい変わったか見てもらい、米山さんの気持ちが和らいでもらえたらと思っています」と書いてあるのである。これは、逆に豪憲君の両親には、苦しみを与えるだけなのである。何の落ち度もない我が子を殺され、さらに、自己の弁解をこのように書かれたら、これほど、逆に豪憲君の両親にはむごいことはないのである。だから、これを絶対に受け止めることなど逆にできないのである。これほど、辛いものはないはずなのである。
テレビ中継というのは、恐ろしいものである。ロッキード・グラマン事件と同じように、心にやましいがあり、うその証言をしようと意図的に思ったとき、人は、それが態度に出るものなのである。どんなに細心の注意を払おうが、一瞬、それが表情に表れるのである。テレビの報道番組で、それを如実に放送しようとするはずである。各テレビ局の報道部局の手腕が発揮されるはずなのである。守屋氏の表情の微妙な変化が、どの質問に対してどう反応したのかを見るはずなのである。報道番組でどのカットを使うかでテレビ局の報道部局の感性と力量が、分かるのである。テレビ局は、守屋氏の顔の表情と答えと声の振るえを繰り返し再現し、一番インパクトのあるところを使うはずなのである。
今回の事案は、間違いなく一代疑獄事件に発展するはずなのである。焦点は、単に守屋氏と山田洋行との贈収賄だけではなく、テロ特措法とアメリカとの関係、沖縄の基地移転に絡まる疑惑、公務員、それ自体の存在を揺るがしかねない公務員行政改革、地方分権まで及ぶはずなのである。そして、戦後62年間、ゆがんできた利権体質の膿が一気に破裂しようとしているのである。まさしく、プレート型地震の発生の前触れが起きているような感じなのである。制度のゆがみ、利権体質、天下り、社会の不均衡が、極値まで達したと感じるのである。もう、隠しようがないのである。参議院において民主党が過半数を抑えている以上、自民党の単独政権時代のように、蓋をすることが出来ないのである。テロ特措法の延長、云々よりも、まちがいなく、福田政権は持たないし、その後、引き継ぐ麻生太郎氏でも、持ちこたえることはたぶん出来ないはずなのである。明らかに、今まで癒着してきた官僚支配の終焉が来たのであり、それを支えてきた自民党政権も崩壊するはずなのである。新しい日本が生まれようとするはずなのである。
守屋氏の一貫した態度は、自衛隊倫理規定に違反したことの責任だけで、幕を引きたいという思いだけがひしひしと感じられるのである。それに対しては、責任を取りたいと主張するのである。しかし、事の本質は、それだけでは済まないはずなのである。今までであったなら、政治家の贈収賄疑獄だったのである。今までであったなら、政治家の影に隠れて跋扈していた官僚が全面にでることはなかったのである。今回は、それがあぶりだされたのである。特に、防衛というある意味スキールが要求される官僚の聖域があったから、官僚のエゴが見えなかったのである。政治家が口利きで利権をむさぼれるほど、今は甘くはないのである。今の時代には、頭のいい、官僚の手腕が事実を隠蔽させるには必要だったのである。そして、それを擁護してきたのが、自民党政権だったのである。守屋氏は、都合の悪いことは、ロッキードグラマン事件のように、記憶がありません、関与してませんというのである。昔のフレーズがそのまま出てくるのである。接待を受けた事実、そして、随意契約で、莫大な利益が防衛専門商社「山田洋行」と元専務が作った「日本ミライズ」に流れているのである。守屋氏は、一貫して、便宜供与など一切ないというのである。もちろん、彼の立場から言えば、その認識があったとしても、ないといわなければ、逮捕されるからである。誰が考えても、そこに便宜供与の認識があったと、守屋氏が言うわけがないのである。これから、外堀が埋まっていくはずなのである。これから、守屋氏と利害の対立する人との証人喚問での対決が生じるのである。それが、テレビの画面で映し出されるのである。衆議院は、自民党が圧倒的多数を持っているので、再証人喚問や、野党議員が求めた別の証人喚問を認めるかどうかは、微妙なのである。理事会で判断されることになるだろうが、もし、自民党が拒否しても、参議院では、民主党が過半数をもっているので、必ず実現されることになるのである。
守屋前防衛次官の接待ゴルフの問題にしても、海上自衛隊が米補給艦への給油量の誤りを把握しながら隠ぺいしていた問題も、つまるところ、すべて中央集権官僚主導型の行政が招いた顛末なのである。彼らは、縦割り行政を牛耳っているプロなのである。所詮、所轄官庁の大臣や副大臣は、腰掛に過ぎないのである。任官してから、退官するまで、国の税金で庇護され、結果責任を負うこともなく、そこに、棲息していれば、何とか自分の人生を全うできる立場の人なのである。自分がもらっている給料は、税金だという意識がないのである。それが、そこにあるのは当たり前だと、考えている人たちなのである。すべては、保身でしか考えていないのである。基本的に、公務員なのである。公務員であるから、法律に抵触しなければ、その身分を剥奪されることは、ないのである。つまり、絶対にリスクを犯すことは、しないのである。それが、公務員の仕事でもあるのである。
身分保障なのである。悪いことをしなければ、自然と職種が上がり、給料も増えるのである。彼らの組織の根本原理は、基本的に、減点主義なのである。グローバルに戦っている大手の企業が採用している成果主義ではないのである。だから、何か不始末をやったり、問題を起こしたら、減点させられるのである。入ったときに、仮に、100点もっていたら、どれだけ、多くの点数をもっているかで、出世が決まるのである。基本的に、公務員であるため、その組織として利益があがるような方策はとれないのである。何に対しての成果といえば、国民がよくなるという漠然とした成果でしかないのである。しかし、それは、全体でどうかという点なので、各官庁の担当者の成果などには、反映されることはないのである。また、それをフィードバックさせて、個人の成果として認める制度もないのである。だから、減点主義であるために、あえて、やらないのが、彼らの論理からみれば正解なのである。無理して、やっても、成果を認めることはないために、やらないほうが、減点されないのである。だから、減点になるような事実は、隠蔽しなければならないのである。海上自衛隊が米補給艦への給油量の誤りを把握していたにも関わらず、それを隠蔽するのは、当たり前なのである。誤りを公表したら、担当官やその管理官が減点させられるからなのである。うまくやっても成果として点数があがらず、何か失敗をしたら、減点させられるのであるから、そういう体質になるのは、当然なのである。何もしなければ、減点されないため、上に行けるのである。当然に、そういう心理であれば、あえて上に逆らうことはしなくなるはずなのである。上に逆らえば、上からの心証を害すからである。だから、ゴマをすること、上に服従することが、一つの能力となるのである。ひとりひとりが、そういう体質を保身のために身につけるのは、公務員として生きるものとしては当然なことになるのである。それが当たり前になるのである。そういう属性をもった人の集合体で組織されたのが、まさしく今の公務員の中央集権官僚主導型の組織なのである。政治家でも、官僚出身者であれば、身内には絶対に甘いはずなのである。だから、官僚出身の政治家の大臣に、絶対公務員改革はできないし、公務員の無駄を省く行政改革などできるわけがないのである。予算がないから、増税するということしかいえないのである。公務員に公務員の無駄を省けと、減点主義をとっているその組織の人に本当にいって、実行できると思っているのだろうか。安部前首相が、改革の要と切り込んだ公務員制度改革も、結局は中途半端になり、そして、再び、公務員の組織の復元力が勝り、元に戻ってしまったはずなのである。福田首相には、それに切り込むだけの勇気と決断力と実行力は、ないはずなのである。安倍前首相が退陣して、喜んでいるのは、官僚たちなのである。
美しさとは、調和なのである。調和のあるものは、美しいのである。水は美しいのである。森林の中に、湧き出る水が、せせらぎとなり、さらさらと流れる様は美しいのである。美しさは、感覚でもあり、官能でもある。その美しさを感じるのは、もちろん人間なのである。人間の視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、感覚で感受される情報が脳にいき、脳の中で、心地よいと判断される情報が、美しいと人間が思うからである。では、人間が何かを感受したとき、何を基にして、それが美しいと思うのだろうか。それが、具体的なものであっても、抽象的なものであっても、同じことになるのである。いったい、その美しさの根底にあるものはなんだろうか。
それは、やはり乱れとの関係にあるのである。乱れとは、滅茶苦茶なものなのである。音で言えば、ノイズなのである。それを否定したものが、美しさなのである。つまり、乱れていないのが美しさなのである。では、乱れとは、どのようなイメージなのだろうか。流体(流れるもの)での乱れの指数として、レイノルズ数という無次元数(単位を持たないもの)が、広く使われているのである。その数がある数よりも、上であれば、乱れているということになるのである。簡単に言えば、(流速 x 間隙)/流れている流体の動粘性(粘度/密度)なのである。これが意味するところは、狭い隙間を早く流れているものは、乱れやすいし、さらさらしているものほど、乱れやすいということなのである。これを生き方にあてはめると、乱れやすいとは、ストレスのある生き方になるのである。狭い空間を早くがむしゃらに高エネルギー状態で突っ走ることになるのである。猛烈な企業戦士のイメージなのである。乱れて、倒れるのが必死なのである。心身のバランスが崩れ、死に急ぐことになるのである。美しい生き方でも死に方でもないはずなのである。逆に、広い空間を遅いスピードで、ねばねばした状態で動いても、そこにも美しさはないのである。これは、結局、何もしないということになるのである。そうすると、どうしても、その間に、正解があるのである。ある程度の動きがあり、しかも、乱れすぎないようなある適切な範囲があるのである。そこにあるものが、美しいはずなのである。
人の生は、母体から、放出されたときから始まるのである。なぜなら、母体がそれ以上持ち続けると、パンクするからである。風船をずっと膨らましていれば、どこかでパンクするのと同じである。生まれた落ちた後、自分でエネルギーを補給しなければ、当たり前であるが、人は死んでしまうのである。人間は、静止した空間に、いるのではないのである。動いているものの中に、いるのである。だから、時間を感じるのである。変化を感じるのは、時間があるからなのである。どうしてだか分らないが、動いているものの中に、我々はいるのである。しかし、その動きをつかむことはできないのである。新幹線の中に目隠しをして座っていれば、加速や減速をしなければ、人は、新幹線の中にいることが分らないのである。まさしくそれと同じで、うごいている空間域の中に、人は生れ落ちるのである。それは、川のようなものなのである。赤ちゃんのように小さければ、そのまま、川の流れに流されてしまうのである。だから、ある程度まで、親の庇護が必要なのである。川の流れも人間に対しては一様なのである。生まれ落ちてから、死ぬ(エンド)までの距離は、川の流れが一様であれば、ある程度決まっているのである。
すべての原理は、エネルギーの高低差から生まれるのである。それは、エネルギーが高い所から低い所へ流れることなのである。坂道の上にボールを置いたら、下にころころ落ちていくのは、ボールがもっている位置エネルギーを下げようとするためなのである。この宇宙がひたすら膨張するのは、ビッグバーンで持っていたエネルギーを下げようとするためなのである。人が生まれるのは、その母体の中で育つ命を外に放出するためなのである。生きるとは、自分の中のエネルギーが出て行くのを、外側から獲得していくことなのである。そして、外側から獲得したエネルギーを体内で燃焼できなくなれば、自分というエネルギーを宇宙に放出させていくだけなのである。それが、死の意味なのである。だから、ぶくぶくと太れば、いずれバンクするし、強欲に溜め込んだ財宝も、飽和をすぎれば、失うだけなのである。それが、この宇宙にあるべきものの定めなのである。それに逆らえば、崩壊するだけなのである。バブル経済が崩壊するのは、当たり前なのである。エネルギーは、必ず高い所から低い所へながれるのが鉄則なのである。それをとどめるには、力が必要なのである。それが、人の場合であれば命なのである。だから、寿命が長い人は、その力が強いのである。だから、その人にとっては、時間が遅れるのである。
利の道の基準は、儲かるか儲からないかなのである。経済活動としては、当然な話なのである。経済活動が活発なところは、エネルギーが高い状態なのである。今は、中国やインドは、相対的に経済活動が低いところなのである。だから、先進国から中国やインドに物や資金がながれるのである。その見返りとして、お金が動くのである。しかし、どこかで、飽和するところがでてくるのである。それで収束するのである。必ず、いつか、近未来に飽和するところが来るのである。地球全体の場に経済活動の高低差がなくなれば、経済活動は、終わることになるのである。したがって、この市場経済体制には、必ず終わりがあるのである。それがいつくるかは分からない。しかし、その終わりが来る以前に、地球温暖化で、環境が破壊され、経済活動もできなくなる時がくるのかもしれないのである。憲法で保障されている文化的生存権を、全世界の人と共有することができることは、たぶん出来ないだろう。それだけのエネルギーをまかない、排出すれば、間違いなく、地球温暖化で、人は生きてはいけなくなるはずなのである。答えはひとつしかないのである。文化的生存権を受けられる人の絶対数(N数)を下げるか、それか、その共有する文化的生存権の内容(質)を下げるしかないのである。今の、状態では、温暖化は加速している。このままの状態を維持して、N数を増やしていけば、つまり、経済活動の場を高い所から低い所に、無秩序に増やしていけば、後数十年には、パンクするはずなのである。利の道の基準は、儲かるか儲からないかなのである。儲かるから中国やインドに物や資金が流れていくのである。それは、あきらかに、地球温暖化を加速することになるのである。しかし、それは、ある意味避けることができないのである。温度が上がって、氷が溶ければ、海水が上昇する。それだけ、水蒸気が上昇し、大気を不安定にする。温度と気圧と湿度(水蒸気)の密度の濃淡の差が深く、不均一に分布することになるのである。雨が降れば、豪雨、風が吹けば暴風になるのである。したがって、春と秋との時間がなくなり、夏が長く、秋が短く、直ぐに冬が来るのである。そして、春が短く、夏になるのである。利の道を追求すれば、どこかで、飽和がくるのである。それ以前に、温暖化で、市場経済のシステムが崩壊するはずなのである。
濡れるというのは、固体の面に、液体が一様に密着している状態をいうのである。その接する界面(両面)が均一に隙間がなく接している状態を濡れがいいというのである。液体は、液体であり続けるように、内向な力が働いているのである。板の上に水を落とすと、丸くたまになろうとするのである。それは、液体の水には、水(液体)であろうとする力が働くからなのである。それを難しい言葉で言えば、張力が高いというのである。アルコールを板の上に落とせば、水のように玉にはならず、べったりと板の上に伸びるのである。それは、それだけ内向きに引っ張る力が水にくらべて弱いのである。張力が低いというのである。それだけ、板に対してぬれやすいということなのである。それだけ、固体面に密着しやすくなるのである。
物を微粒化するには、力を加えなければいけないのである。流体(液体)に包まれた固体を細かくするには、流体(液体)を通して、固体に力が加わらなければいけないのである。物を金槌でたたけば、金槌が直接ものに当たって、物に力が加わり割れるのである。それは、物を物として成り立たせる内向な力(分子間の引力)より、金槌によって加えられる外向きな力が勝れば、物は壊れるのである。ガラスを金槌でたたけば、われるが、ボーリングの玉をたたいてもボーリングの玉は割れないのである。ボーリングの玉を玉として成り立たせる内向な力の方が、金槌によってくわえられる力よりも強いために、びくともしないのである。もし、ガラスの上に、プチプチのエアーシートを敷いてたたいても、今度はガラスは割れないのである。なぜなら、金槌の力が、プチプチに邪魔されて、ガラスに伝わらないからである。
液体の中に物を入れて、物を細かくしようとした場合に、まず、液体と物との濡れ性が問題になるのである。濡れがわるいということは、液体と物との密着性が悪いということになるのである。その隙間に、気体が存在していることになるのである。流体(液体)を通して物に力を掛けなければ、物は割れないのである。濡れが悪いと、ガラスの上にプチプチをおくのと同じことが起きるのである。力が、液体と物との間にある気体に邪魔されて、物に液体からの力が加わらないのである。だから、濡れるというのは、非常に大切な要素になるのである。次に、乱れなのである。乱れは、エネルギーを一気に解放したときに、発生するものなのである。めちゃくちゃになるのである。(余談になるが、エネルギーとは、力をどのくらい掛けた値になるのである。力を掛けた。それをどのくらいかけたかが、エネルギーになるのである。物を押した。それが力なのである。そのとき物が1m動いた。そのときの1m押しつづけた力の和がエネルギー(仕事)になるのである。エネルギーと仕事とは、同じことなのである。)乱れは、振動をうみ、音を発生させるのである。そこに空気が発生するのである。したがって、濡れた面(液体と物)に、気体が入り込むのである。つまり、乱れると、濡れがわるくなるのである。物は壊れなくなるのである。これが、微粒化の際の濡れと乱れの関係になるのである。人生の男女の仲もまた同じなのである。
鬱病とは、脳の中で作用している物質の活動が、内的要因か、外的要因によって、乱され、通常とは異質な精神的な違和感や苦痛を生じる精神疾患の一種といわれているのである。そのために、気分の落ち込み、不安やあせり、食欲減退、頭痛、倦怠感、不眠症が自覚されるのである。その原因は、やはり乱れなのである。つまり、ノイズがのって、正常な心の作用反作用ができなくなるのである。誰でも、気分の上昇や下降はあるのは当たり前なのである。しかし、人によって、その受け止められる感情のキャパシタンス(受容量)は、まちまちなのである。ある出来事やある刺激をうけとめ、それを自分の心の中の波に収縮させることで、人はストレスから回避して生きていけるのである。やはり、人には固有の心の波があるのである。それは、ゆらゆらとゆれているのである。経験や自分の心の持ち方で、その海原は、大きくなったり小さくなったりできるのである。ある刺激が襲ってくる、その刺激の量が同じでも、受け手となる心の海原が大きければ、その刺激の荒波を飲み込んで、その刺激の荒波のエネルギーを、心の海原に拡散させていくのである。もし、その海原が小さければ、その刺激の荒波に乱されて、全体の海原は、大きく乱れるのである。刺激のエネルギーが、心の海原を動かしているエネルギーよりも、はるかに大きければ、心の海原は、大きく激しい荒波となって荒れ狂うことになるのである。脳の中の化学物質の活動が乱されるというのは、そういうことを意味するのである。その刺激が大きく持続すれば、心の海原は、いつまでも荒れ狂うのである。そこに、忘れてはいけないことがあるのである。それは、その刺激がなくなっても、心の海原は、なかなか元にはもどらないのである。これは、世の中は、すべてが、とびとびの状態で変化していくからなのである。水は0度で氷から水になるのだが、0度で氷から水になるときには、余計な熱が必要になるのである。それが潜熱というものなのである。100度で沸騰するときも、沸騰し水から蒸気に変わるとき、余計に熱をもらわなければいけないのである。逆も冷えるときもまた同じことなのである。蒸気から水に変わるとき、熱を余計に奪わなければならないのである。それと同じことが心で起きているのである。
正常な作用、それは、水で言えば、液体の状態であるのである。刺激のエネルギーが心の海原に加わるのである。水で喩えれば、99.99度まで耐えられるのである。その刺激のエネルギーが止まれば、正常な作用までもどれるのである。基本的に、肉体にしても精神にしても同じ原理なのである。その範囲であれば、元に復元できるのである。ばねと同じように、引っ張れば、元にもどれるのと同じことなのである。しかし、その刺激がさらに加わり、100度をこえ、潜熱分の熱量が加われば、水の相が変わり、蒸気となるのである。ばねを、引っ張れば、どこかで、復元できないところがあるのと同じなのである。相が変われば、自然発生的には、元にもどらないのである。それが病気なのである。だれでもが、気分の落ち込み、不安やあせり、食欲減退、頭痛、倦怠感、不眠症などはあるものである。それは、自然的に復元できる範囲内、つまり、水で喩えるなら、液体の状態の中なのである。それを超えたら、なかなか、もどらないのである。100度にもどったとき、余計に熱量を奪わなければ、液体にはならないのである。それがとびとびだということの意味なのである。
美とは、非常に難しい言葉である。しかし、非常に崇高な理念なのである。かつて、色々なブログを書いてきた。そして、色々なことを述べてきた。しかし、私には、すべてたった一つのことを述べているに過ぎないのである。それは、美しくしたいという思いなのである。乱れを書いたのである。乱れとは、非常に分かりにくいことなのである。それを簡単に言えば、乱れたものは、美しくないということなのである。美しい秩序ということを書いたことがある。美しいは、形容詞であり、この場合には、被修飾語の秩序が大切になるのである。しかし、実際には、逆なのである。秩序あるものが、美しいのである。美しいものは、秩序をもっているのである。人の心もまた同じなのである。心が乱れている人は、美しくないのである。美しい人は、心が乱れていないのである。
10月21日のブログに京都魔界散策を書いた。その中で、鞍馬寺の理念を書いたのである。非常に美しい連句が理念なのである。「月のように美しく、太陽のように温かく、大地のように力づよく」、私は、この連句の中に、すべてが凝集しているように感じるのである。もっと、凝集すれば、一言になるのである。それは、美しくなれ、ということになるのである。これは、非常に定性的な言葉なのであるが、これほど、真理をついたものはないと思うのである。地球温暖化により、大気が乱れて、その結果、異常気象が発生するのである。また、文明の進化により、温室効果ガスが充満し、太陽からの熱や、化石系燃料の消費や、生命体が生きるための放射熱(赤外線)が、宇宙へ拡散せず、地球内部にたまってくるのである。それは、密閉した空間で、たばこをぷかぷかすっているのと同じなのである。それが、美しいことかと、言えば、それは、決して美しいことではないと感じるのである。異常気象は、美しいことはないのである。
亀田一家の行為。それは、どう考えても、秩序を破壊しているように感じるのである。それが、美しいかと問えば、決して美しいことではないと感じるのである。化粧で化けた人がいる。バーチャルでみれば、綺麗だと思うかもしれない。しかし、現実的にあってみると、綺麗かもしれないが、どこかで、美しくないと感じるかもしれないのである。もし、そう感じるなら、どこかで、打算的で、優しさに掛ける点があるからと見えるからである。そう、直感的に感じたら、美しい人ではないのである。もし、私が目が不自由だったら、外見の綺麗さは分からないのである。私にとって、感じがよく、いつまでもいたいと感じれる女性がいたならば、その人が私にとって美しい人になるのである。
亀田史郎氏の苛立ちは、理解できないこともないのである。四面楚歌の状態で、何とか息子をチャンピオンにさせたいと、思う親心も理解できるのである。しかし、人は、自分たちだけで生きていないことを、この父親は、まるっきり理解できていないのである。史郎氏が何か動けば動くほど、乱れが生じ、逆に、史郎氏が願っている方向と逆の方向へ向かうことをこの父親は、理解できないのである。はっきりいって、子供が哀れである。この男は、はっきりいって、自分勝手なのである。テレビの放映でも、声で、「たまをうて」と収録されているのである。それを、自分は、反則を子供に指示していないと公の場で明言したのである。なら、あの反則行為は、子供の大毅選手が自分の意思で、反則を実行したことになるのである。つまり、確信犯だということで、将来、必ず、大毅選手にはその汚点が付きまとうことになるのである。
一部報道に、亀田史郎氏が水面下でジム移籍の話し合いをしていると報道されたのである。その件に関して、協栄ジムの金平会長が、「わたしと雇用関係にある当事者の史郎氏が報告もなく他ジムと移籍の話をするのは背信行為」と明確な不快感を示したのである。それを知って、史郎氏は、移籍先の関係者に連絡をとり、その事実を打ち消し、協栄ジム側に連絡を取ったのである。その移籍先ジムの言葉では、「ついテレビ局に乗せられていってしまった」といっているのである。火のないところには煙は立たないのである。それに、史郎氏は、公の場で、反則の指示さえもしてないと、都合の悪いことは、しらを切る人間なのである。「金平会長も、移籍先といわれているジム関係者が、テレビ局に乗せられていったことを分かっている」と史郎氏はそういっているのである。しかし、金平会長が分かっているといった意味が、事態が変化し自分に都合がわるくなると、史郎氏は嘘をいうことを分かっているという意味で言っているのかもしれないのである。とにかく、史郎氏は、動かないことなのである。徳川15代将軍の慶喜のように、謹慎して恭順の意を示すことが大切なのである。今までのようには、もういかないのである。今までのように、強引なやり方は無理なのである。親であれば、三人の子供が、何とかボクシングで生活ができるように、してあげることが、史郎氏の親としての務めなのである。史郎氏は、完全にボクシングから足を洗い、息子たちも誰かに再教育してもらえるように頼むのがいいのである。世話になり、迷惑を掛けた協栄ジムにこれ以上の迷惑を掛けたらいけないのである。金平会長が息子の再教育を承諾したなら、今後一切、何があろうとも口を出したりしてはいけないのである。そして、史郎氏は、別な人生を歩むべきなのである。史郎氏は、はっきりと認めるべきなのである。社会と戦い、ボクシングと戦い、金平会長とも戦ってきたのである。それが、敗れたのである。なら、敗軍の将、兵を語らずで、息子を金平会長に預け、完全にボクシング界から去るべきなのである。それが、美しい引き際なのである。いつまでも息子の周りにうろうろすると、息子は、いつまでも社会人になれないのである。
ガイドブックやHPでもよく紹介されているコースを私も10月20日に歩いてみることにしたのである。京阪で、淀屋橋から出町柳までいき、そこから、叡山電車で貴船口まで行ったのである。貴船口で降りたときから、もう、そこは、何か、異様な雰囲気が漂っていたのである。私は、結構、京都を散策している方である。特に、京の町を歩くのが好きで、大体、京都の観光ガイドに書かれているところは、ほとんどいっているし、京の裏道も、京都の通り歌に合わせて、碁盤目をジグザグと歩いたことがあるのである。貴船も鞍馬も車では、昔、単独で行ったことがあるのだが、今回は、なぜか分らないが、貴船側にある鞍馬の西門から鞍馬の奥の院を経由して鞍馬の仁王門まで歩きたくなったのである。
出町柳から乗った叡山電鉄鞍馬線の車両は、新鋭のデオ9000通称きららだったのである。鉄道ファンの私には、これほど、うれしいことはなかったのである。すこし、HPでこのきららのことを調べてみると、この車両を作ったのが、近畿車輛ということなのである。このデザインが近鉄特急のアーバンライナーと同系統だと、分ると、この内部の空間、座席配置がなるほどと分るのである。確かに、乗ってみると、鉄道友の会から1998年にローレル賞を受賞した訳が理解できるのである。最大の特徴は、運転手側から見て左側に一列の固定式クロスシートがあり、右側の前後に、4人がけのボックスシート、そして、真ん中に、なんと、窓向きのシートが配列されているのである。確かに、これには、たまげたのである。ふと、このキララを見たとき、外観からみてかなりのワイドビューで、車内からの景色はいいだろうと感じたのであるが、この窓向きシートをみて、これは、すばらしいと感じたのである。特急料金やグリーン料金を出せば、それなりの車両には乗れるが、これは、一般車両なのである。出町柳と鞍馬を410円で結ぶローカル鉄道なのである。この車両は、まったく、粋な車両なのである。これは、まさしく、鉄道ファンなら、この電車に乗るためだけに全国から京都に来ても、それだけの価値は十分にあるはずなのである。鉄道ファンなら、一日乗車券を買って(1000円)、このキララで出町柳?鞍馬間を何往復しても、きっと飽きないはずなのである。この沿線には、色々な神社仏閣があるし、観光名所もある。しかし、この電車に乗ることだけでも、十分なほど京都の景観を味わえるはずなのである。
叡山電車が、市原駅を過ぎると、一気に風景が変わるのである。そこからが、まさしく山岳鉄道にかわるのである。二ノ瀬駅、そして、貴船口駅なのである。駅に商店が一軒あるだけなのである。舗装された道が一本貴船方向に伸びているのである。そして、道に平行して、貴船川が流れているのである。バスも走っているのだが、ここは、歩かなければもったいないのである。北山杉が茂っているのである。高度を上げていくと、だんだんと時間が逆流していくような錯覚を覚えるのである。それでけ、現代のデジタル文明に侵食されていないのである。貴船は、水の神様なのである。水は、人の命なのである。その水が混ざり合うように、男女の仲の切なさも、ひとつに融合されるのである。貴船には、平安時代の歌人の和泉式部の歌が多く碑に刻まれているのである。賀茂川の水源のひとつが、ここ貴船なのである。まさしく、貴船川の流れる水の粒子に、沢の蛍が濡れるのである。古木の杉の葉から、飽和した水滴が空中に舞うのである。水こそ、人の命であり、男女の悲しい愛情の揺らぎなのである。だから、貴船には、怪しい、命の躍動があるのである。貴船神社、結社、奥の宮と進むにつれ、水流の中に潜む男と女の心の通い路が残っているような気がするのである。だから、この貴船には、水の魔界があるような錯覚を覚えるのである。ふと、振り返ると、愛に哀しむ女が、じっとそこにたたずんでいるような、感じがするのである。そして、それが、貴船の水に禊をうけ、貴船の古木の空間粋に消えていくような気がするのである。だから、貴船には、きっと、雪が似あうはずなのである。静かに、雪がふりつもる深閑とした空間に、貴船川の水がながれる。薄暗い中を、静かに雪がただ、舞うのである。貴船口から、貴船まで、雪道を歩いてみたい衝動が起きるのである。もし、雪が降り積もる中、貴船神社奥の宮に、ひとり若い女性が傘をもってたたずんでいたなら、誰でもが、きっとひきつけられるように、声をかけるかもしれないのである。そんな風景がみえるのである。
若い未熟な亀田大毅選手は、たぶん、激しい世論の反駁で精神的に打ちのめされているだろうし、最後の頼りだった父親の史朗氏まで、無期限のセコンドライセンス停止処分をうけているのであるから、完全に四面楚歌状態であるはずである。それよりも、今まで、自分たちを応援してくれていた一部のマスコミやボクシング関係者も、コミッショナーの裁定が下りた瞬間から、手のひらを返したように、否定したのである。温室栽培で、わがまま一杯で育った大毅選手がこれらの対応を見れば、彼は、ずたずたに打ちのめされたはずなのである。傲慢無礼が一転して、意気消沈になり、人間不信に陥ったはずなのである。ある意味、長い人生から考えれば決して無益ではないとわかるはずであるが、今はその余裕さえもないはずなのである。まあ、これを機会に、親と兄弟から独立し、自分のボクシング道を見つけたらいいのである。一年間は、試合にでれないのである。なら、この一年を無駄にせず、精神的につよくなるように、克己すればいいのである。兄、亀田興毅選手と戦うぐらいの自律性を考えなければだめなのである。
負けたら、切腹をするといったのである。そう、昔の武士は、実際に切腹したのである。大毅選手と同じ18歳の武士も、腹を切って、命をたったのである。たぶん、大毅選手も、どこかで、切腹を考えたはずなのである。もちろん、できる勇気があるわけではないし、実際に切腹などしようとしなかったのであるが、心やイメージの中では、それをしようとしたはずなのである。しかし、恐ろしくなって、イメージの中でさえも彼は止めたはずなのである。しかし、昔の武士は実際にそれを行い、死んだのである。亀田大毅選手が、仮に一年後、ボクシングに復帰しても、世論は、切腹という言葉を忘れてはいないのである。だれかが、切腹という言葉を投げかけるはずなのである。負けても、勝っても、切腹という強い言葉がリングに投げかけられるのである。それだけ、切腹という言葉は、日本人の武士道の中の生死観を分ける重要な言葉だったのである。考えればわかるが、切腹をする前は、生きているのである。元気で生きようと思えば、生きれる状態なのである。それを自分で腹を切り、生命力を捨て、介錯をお願いするのである。首をはねてもらうのである。切腹し、首をはねてもらうまでは、5分ぐらいだろう。自らの力と意思で自分の命を捨てるのである。それが、切腹の重たさなのである。よほど、精神的に純化させなければ、切腹などできるはずがないのである。精神を宇宙や森羅万象のエネルギーと同化できるように、高めていなければ、切腹などできるはずがないのである。そういう境地に達することなど、簡単にできるわけがないのである。
雨が激しく降っているので、展示会場にいく気がしなかったのである。今日は、大阪インテックス会場での粉体工業展の最後の日なのである。たぶん、ユーザーになる人の立場から見れば、この雨の中をいく価値はないと判断するかもしれないし、この雨の中でも足を運ぼうとする人もいるかもしれないのである。出展者側や主催者側の気持ちからすれば、来場者数が増えれば、それだけ、ビジネスチャンスが増える可能性があるのである。だから、この雨が恨めしいはずなのである。ある意味しかたがないのである。もし、バーチャル展示会とリアル展示会が同時に共催されていたら、間違いなく、多くの人がバーチャルの展示会に入ろうとするはずなのである。つまり、リアル展示会と同じような3Dをつくり、そこに出展ブースを作り、その部屋をネット上で作り上げ、そこに、企業や製品PRができるような空間域を作ることなのである。すでに、セコンドライフというバーチャルランド空間が商売として成り立っている以上、バーチャル展示会も理論的には成り立つはずなのである。ハードの容量やアクセス権限等の問題はあるかもしれないが、いずれ、そういう時代は確実に来るのである。
バーチャルビジネスというと、何か難しいイメージかと思うかもしれないが、基本的には、ネット上に乗るコンテンツがあるかないかで、バーチャルかどうかが決まるのである。音楽もすでにバーチャルビジネスであるし、言葉や映像もバーチャルなのである。デジタルと呼ばれているコンテンツとは、すべて、バーチャルなのである。別な言葉でいえば、イマジナリービジネスなのである。仮想や想像の世界があたかも現実の世界かのようにPC上に存在させることなのである。リアルビジネスというのは、今までの人間が介在し、人間が作り上げたものをベースにしているものなのである。実時間の中の実際に存在するものを対象にしているのである。日本の産業は、リアルビジネスからバーチャルビジネスへとすすんで、そして、それがまたひとつの調和をもったバーチャルリアルビジネスとして混在しようとしているのである。
実際に、検索で、何かを探すのは、面倒なのである。探しているものが、明確であればいいのであるが、実際には、それが漠然としてわからないのである。検索する人が、検索を絞り込んで、目的としたものにたどり着くことは、なかなか面倒なことなのである。何かの情報を求めようと、ネットで検索しても、なかなか出てこなくて、イライラすることがあるのである。偶然、何かのきっかけで見つけることが出来たとき、この検索で、このHPのここに、こんな情報が隠れていたのかと思うこともしばしばあるのである。会社名が分かっていればいいし、求めるものが明確であれば、その言葉を打てば出てくるのである。車と打てば、何とか、目的とした情報がとれるのである。検索キーワードの統一した名称や番号がないために、検索に引っかからずに、日の目をみない情報もあるのである。情報を発信したい人が、そのことを分かり、被リンク数やページランクをあげる努力をして、しかもブログやHPなどのコンテンツをかなりの頻度で更新すれば、検索エンジンで、その情報が上の方にランクされことになるが、現実的には、なかなか難しい話なのである。ある意味、時間とお金と頭脳がいるのである。SEO対策と呼ばれているものなのである。逆に、多くの情報がネット上に蔓延していているため、本物の情報と偽者の情報との目利きが出来にくい時代でもあるのである。リアルビジネス上のものをバーチャルビジネスに載せるには、やはり、限界があるのである。しかし、リアルビジネス上にあるものの、特徴や性能や特性をいかにバーチャルに載せて、ユーザーに伝えるかの方法論は、明らかに近い将来のビジネスの対象になるのである。ユーザーは、本物の情報を求めているのである。偽者と本物の目利きをしたいのである。そして、本物の情報を得て、本物のリアルビジネス上に存在するものと出会いたいのである。本来、リアルビジネス上に存在する情報や物をユーザーに提供していたのが、商社なのである。しかし、ネット社会が当たり前の時代になってくれば、リアルビジネス上の情報をいかに、バーチャルビジネスに融合させ、ユーザーにいい情報と物を提供できるようにするかが、今後の商社のネット社会での役割になるはずなのである。商社マンの一人ひとりの思いをバーチャルの世界にどのように反映させるかが、ひとつの課題になるのである。
この犯人は、この犯行を行うことで、どんな満足を得ようとしたのであろうか。その子供の家族が、哀しむことを求めたのであろうか、それとも、幼女を殺し、虫のように死んでいくことを求めたのであろうか、いずれにしても、そこに明確な殺意がなければ、柚希ちゃんは、あのような死に方はしなかったはずなのである。この犯人の心情は、闇なのである。金品を搾取するのではなく、あくまでも、何かの衝動に駆られ、自分の心の闇の空白を殺人という形で埋めようとしたのである。これは、異常なのである。通り魔的な殺人でもないのである。明確な殺意があるのである。そして、その対象を絞り込んで、計画的に実行したのである。そこに、意思があるのである。たぶん、うらむ対象は、社会なのである。虐げた自分に対する恨みを、弱者の柚希ちゃんで、晴らそうとしたのである。犯人は、捕まっていないのである。柚希ちゃんやその家族からの怨恨の線からは、犯人は浮かびあがらないのである。回りの人からの目撃情報を元にして、モンタージュ写真をつくり、容疑者を絞り込むことしかできないのである。もし、この犯人とこの土地との関係が薄ければ、この犯人を特定することが難しくなるのである。
いずれにしても、この犯人の心理は、独善的で、冷たいのである。他人とのかかわりは、あくまで、仕事だけの範囲にかぎられるのである。それも、自分の内部が傷つかないように、作られた仮面を通して、人とのかかわりを持つのである。だから、いつも、自分が絶対で、他人が悪いと感じているのである。私は正しい、相手がわるい、社会がわるい、しかし、この犯人は、それを主張する勇気がないのである。仮面を通して、社会に対して恭順な態度をとっているのである。抑圧されたものが、犯人の内部に蓄積していくはずなのである。そして、自分の殻で、それを押さえ込むのである。とうとう、その限界がきたのである。それを、発散しないと、自己崩壊する寸前まで来たのである。俺を抑圧するのは、社会である。社会が悪い、この犯人は、にゃとして笑ったはずなのである。表面は、なにごともなく、社会と接しているはずなのである。しかし、心は、乱れているが、それが抑圧されているため、乱れているようには見えないのである。ブラックホールのように、その憎しみや不平の心は高密度化され、凝縮されたのである。そして、人の心は、無限ではないのである。それが、どこかで、飽和になり、黒い憎しみとして一気に噴出したのである。まったく関係のない柚希ちゃんを襲ったのである。これが、もっとも恐ろしい心の闇なのである。
昔から、電車を見るのが好きであったし、小学生時代の愛読書は、時刻表だったのである。本屋に行けば、必ず鉄道ファンとジャーナルは、目を通すし、過去のブルートレインの写真があれば、必ず、数秒目を留めるのである。今の流行の言葉を使えば、私も確かに鉄ちゃんのひとりになるのである。ネット上で、鉄道ファンに対しての意識調査があったのである。もちろん、鉄・鉄子レベルは、間違いないので、私は、それにクリックしたのである。世間の回答をみると、少しがっかりしたのである。鉄・鉄子レベルが11%、まあ興味があるが、29%、あまり興味なし、20%、まったく興味なしが41%なのである。まあ、こんなものかと思っていても、やはり、どこかで、寂しいところが残るのである。趣味の多様化や今のデジタル化等を考えれば、やむを得ないのである。いまだに、子供の頃の情感を引きずっていることに、抵抗感があるが、それでも、電車から、車庫にならぶ、24系ブルートレインや583系電車寝台を見ると、心が躍るのである。
私の年代からみれば、昭和39年新幹線
まだ、だれもが、カラーテレビなどなかった時代なのである。ほとんどが白黒テレビの時代なのである。日本が高度成長で浮かれ初めた時期、小学校6年か中学一年の少年だった私には、今のような多様な情報などなかったのである。あったのは、少年マガジンや少年サンデーであり、その漫画の世界に没入するか、そとで、野球をしてあそぶか、時刻表を眺めて、松本清張さんの点と線のように、全国を夢の中で旅することぐらいしかなかった時代なのである。もちろん、私よりも年配の方は、逆に、テレビや漫画が乏しかった時代なので、たぶん、もっとラジオや読書にしたしんでいただろうと思うのである。
ねこさんから、下記のようなコメントをいただきました。「利ザヤのために、企業はどの様な優れた価値提供を図ってゆけるか・・・ですね。環境性能は、機能価値・情緒価値・精神価値の精神価値に含まれるのでしょうか?価値提供の差別化がなければ、価格を下げるしかなく、利ザヤの構造は崩壊するということですね。そういう意味では、環境性能は優位性を示しにくい価値ですね。先にやったもの勝ち、声が大きいもの勝ちの傾向があるような気もします。温室効果ガスを30万トン減らしますと言われてもピンとこず、800トンの削減でも環境宣言と堂々とアピールしてしまえる。事業規模や事業形態によっても異なる、非常に比較しにくい価値ですね。エコロジー広告合戦は、どういう差別化に向かうのでしょうか?結局、イメージ戦略合戦と向かうのでしょうか。逆に言えば、企業は環境広告によって、どれだけ企業価値や製品価値を高められるのかということでしょうか。」
そもそも企業とは、何でしょうか。資本主義で生きている以上、利ザヤを稼がなければなりません。当たり前の話です。営利団体である以上、安く仕入れて高く売る。そこに何かしらの価値がなければ、これは、詐欺にあたります。確かに、そういう経営者もいます。しかし、そういう考えをもっていない経営者もいます。たまたま、自分にはそういう資質がある。経営基盤がある。そこに、対価として得られるものがある。それを、合理的な価格で提供しよう、それが世のためになる。利他に役に立つ。それを信じて経営を行った先人の経営者もいるのです。企業もやはり人なのです。それが経営者なのです。雇われ社長もいます。しかし、代表取締役というのは、その会社の代表になるのです。だから、トップが変われば、その企業の色も変わることになるのです。日本の内閣総理大臣と同じなのです。安部前首相から福田首相に変われば、日本の色も変わるのです。はっきりといいます。経営者の心が見えない企業は、いずれ衰退します。二代目社長がだめだといわれるのは、先代を超えるものがないからなのです。精神にも二つあります。業(欲)の精神(これはエゴです)と義(正義)の精神なのです。企業の本質からみれば、業の精神が勝つわけです。しかし、経営者には、義(正義)の精神が要求されるのです。自分だけがよければいい、自分だけ利益があがればいい、そういう排他的な考えでは、絶対に人はついてきません。そこに経営者の義の精神が必要になるのです。経営者は、業と義、最終的にどちらを選択するかと問われれば、義を選ぶことになるのです。それが、経営者の心になるのです。それが、その企業の顔になるのです。企業のPRとは、その社長の心の叫びになるのです。イメージの広告合戦も、それが虚であれば、空しくなり、民意はその嘘を見抜きます。いくら広告代理店がうまくても、そこに実や本質が見えなければ、虚で終わってしまいます。広告代理店の人も命を掛けて仕事をしているのです。いい仕事をするとは、命をかけるからできるのです。社長がいい加減で、嘘をいっていると見抜けば、それなりの仕事で終わってしまうのです。そこに光るものがでるには、依頼人と製作側での心と心の共鳴が必要になるのです。それが人と人との信頼になるのです。
先にやったものの勝ち、まさしくそうです。ノーベル賞をとったひとも、先にやったから取れるのです。後で、俺も同じ事を考えていたでは、後の祭り、負け犬の遠吠えなのです。やるというのは、その意識を経営者が持っていることの証なのです。エコロジーをうつのは、その経営者の判断なのです。声が大きいのも、そこに力が入るからです。エコロジーをうち出す経営者は、地球温暖化を心配しているからです。どこかで、そう思っているからです。環境広告がいいかどうか、分かりません。イメージ戦略上、どのベクトルがでるかどうかは、その経営者の心の状態が反映されるのです。文化を大事にしようとする経営者であれば、文化を全面にだすでしょう。そうなのです。今後の経営者としては、自分の義の精神として何を押し出したらいいか、考えるべきなのです。それに対して、最大限の努力を経営者はすべきなのです。ゴルフをするだけが経営者の仕事ではありません。接待で飲み食いする