2007年8月アーカイブ
人は、自分たちの視点で物事を捉える。もし、朝青龍を、横綱という固定観念から外し、一モンゴルから来た青年としてみたら、どのようにみえるか考察することにする。私も含めて、相撲関係者が朝青龍を横綱としての公人という視点からみて評論するが、朝青龍からみれば、今の言葉で言えば、そんなことで見られること自体、うざったいことだと、思っているのである。彼にとって、相撲道など、なかったのである。ただ、モンゴルでは、地位も名声も取れないので、彼の特技を生かせる道を模索しただけなのである。たまたま、モンゴル相撲が強かったから、日本にきただけなのである。親方が自分たちの部屋のエゴのため、外国から人をスカウトしたまでなのである。その利害が一致したから朝青龍は来たのである。郷に入れば、郷に従えなので、朝青龍は、目的のために、我慢したのである。師匠とか、先輩とかは、色々な精神論をとく。相撲道とは、何か、国技とは何か、心技体とはなにか、いろいろと洗脳したはずである。まさしく、朝青龍にとっては、そんなことはどうでもよかったのである。目的は、金をとり、名声を勝ち取り、人より楽していきたいという、人間のエゴとしては、至極あたりませのことを、実践したまでなのである。
相撲というルールにのっとり、相手を負かせばいいのである。朝青龍は、地位が上がれば、待遇がよくなる。相撲世界に、階級制度を見たのである。それも、絶対的な上下関係を見たのである。師匠の言うことを聞いて、番付をあげれば、それでいいと考えたのである。だから、がんばれたのである。がんばれば、モンゴルでは永遠に手に入れられない栄華と財物を、手に入れられる。そして、現実にモンゴルで手に入れられないものが、次から次へと入ってきたのである。国籍も、言葉も、何も関係ない。ただ、勝てばそれだけでいいのである。勝てば、師匠も日本相撲協会も何も言わないのである。ただ、相撲力士としての、最低のマナーや振る舞いで生きればいいのである。そうして、勝っていけば、どんどん収入が増えるのである。朝青龍にとって、日本は単なる出稼ぎの場でしかなかったのである。相撲道も心技体も横綱の品性や品格も彼には関係がないのである。それをもとめたのは、朝青龍以外の人間の見方なのである。相撲は日本の国技である。それは日本人の見方なのである。朝青龍はモンゴル人なのである。朝青龍にとって、相撲は日本の国技であって、モンゴルの国技ではないのである。だから、朝青龍には洗脳が効かなかったのである。もともと、朝青龍は日本に残って、相撲世界で生きる意思など、さらさらなかったに違いないのである。日本は、出稼ぎの場であり、帰るところは、モンゴルであり、相撲は単なる名声や資金をためる手段でしかなかったからなのである。
8月29日と30日、一般紙の公告面に、東芝が「王子と地球のはなし」というタイトルででかでかと広告を打ったのである。連作が予想されるので、明日も打つかもしれないのである。誰が考えても、これは、明らかにシャープを意識しての広告だとわかるのである。連作で共通するものは、「この星のエネルギーとエコロジーのために」というキャッチコピーなのである。どこかの、広告代理店が企画発案したのだろうが、これを見ると、東芝は、明らかに、不採算部門を集約し、再生したことが、読み取れるのである。ある意味、この広告は、東芝が市場に発する決意と自信とある意味、宣戦布告とも読み取れるのである。眠れる獅子が蘇ろうとする意気込みが感じられるのである。これを受けて、シャープもだまってはいないはずなのである。アクオス(液晶)と太陽光エネルギーを主体とする、エコロジークラスを標榜するシャープが、これを受けて、さらに踏み込んだ、ID広告イメージをうってくるはずなのである。エコロジーを中核とした東と西の戦いが今まさに展開しようとしているのである。
東芝は、もともと、家電メーカーの東京電気と重電(モーター、発電所、機関車等)メーカーの芝浦製作所が昭和14年に合併して出来た東京芝浦電気という社名だったのである。愛称として、東芝として、通用していたのである。1984年に、正式に社名を東芝にしてイメージを統一したのである。したがって、東芝は、あくまでも重電と家電の二つの顔をもつ総合電気メーカーなのである。東芝と比較されるのが、日立製作所なのである。シャープは、シャープペンシルからスタートした会社なのである。1970年にシャープと社名を変更するまでは創業者の名前をとって、早川電気工業といわれていたのである。今日のシャープを築いたのは、明らかに1970年代以降の話なのである。シャープの製品の基礎は、当時世界で始めて作り上げた電卓からスタートしたのである。その中に組み入れられたソーラーシステム、電卓から派生した電子手帳、そしてビューカムの中に搭載された液晶技術、それらがシャープの主力製品になっていくのである。東芝とシャープは、実は裏と表の関係だったのである。それが、時代のめぐり合わせで、接点があってきたのである。殿様だった東芝が、疲弊していた間に、シャープやSONYが台頭してきて、逆転したのである。大きすぎて動けなかった東芝の株価は日立製作所の半分以下だったのである。それをスリム化し、半導体に特化させたのである。その勢いでデジタル家電の復活がなされたのである。しかも、重電を背負いながら、東芝は復活したのである。シャープは、太陽電池生産、世界一というプライドがあるのである。東芝は、原子力、火力、風力、タービン等の技術をもっているのである。電力供給を担っているプライドがあるのである。家電と、その上流にある技術を全面に押し出して、勝ち抜こうとしているのである。
とんでもない殺人事件が8月24日名古屋市で起きたものである。まったく面識のない若い女性を拉致し、顔を粘着テープできつくまき、しかもその上からビニール袋をかぶせ、ハンマーでどついたのである。それを岐阜県の山林に遺棄したのである。卑劣な3人は、携帯電話サイト「闇の職業安定所」で知り合ったのである。お互いを匿名にし、3人の関連性も分からないままに、金品を略奪する目的で合流し、犯行を行ったのである。今回は、犯人の一人が自首したために、事件の全容がわかったのであるが、もし、自首しなければ、まさしく、磯谷利恵さんは、完全に闇に葬られ、その失踪もいつか忘れ去られたに違いないのである。ただ、残された家族に心配と諦めと悲しみが癒されぬまま残ったはずなのである。
しかし、事実は最悪な結末を残された母親に突きつけたのである。想像するだけでも、むごいと思わざるを得ない事件の詳細が公開されたのである。その残された母親の気持ちは、昇華されることなく、犯人に対しての憎しみだけがきっとのこることだろう。お葬式後に発表された母親のコメントを読むと、一人の人間として、一人の親として、胸を締め付けられる思いがするのである。誰が読んでも、この母親の無念さに対して、何もいえなくなるのである。ただ、静かに合掌し、冥福を静かに祈ることしかできないのである。確かに、壮絶なコメントであり、感受性のある人なら、自然と目頭が熱くなるのである。
−なぜ利恵が……。その時の娘の恐怖と痛みと苦しみを思うとき、いたたまれない気持ちで一杯になります。お母さん助けて、助けて!と叫んでいたに違いありません。あと少しで我が家にたどり着けたのに、と思うと本当に残念でなりません。行き場のない悔しさ、無念と犯人たちに対する憤りで胸が張り裂けそうです。何の落ち度も、関係もない娘に対し、あれほどの異常な行為を行った人間の存在を、私は認めることはできません。絶対に、絶対に、許しません。
残念ながら、朝青龍は、モンゴルへ帰国して治療することに決まった。ブログで書いたように、朝青龍が、モンゴルへ帰るようなことになれば、再起は不可能になるだろう。朝青龍は、精神科医から、「解離性障害」と診断され、その薦めによって、日本相撲協会も帰国治療に同意せざるを得なくなったのである。解離性障害とは、自分が何者なのか分らなくなる障害である。自分の肉体に対して、自分と言う意識がもてなくなり、自分の心と体とが、分離している感覚なのである。心的なショックが大きすぎて、それを受け入れたくない思いが、自分(精神)と肉体(現実)とを、切り離すのである。また、現実と心とがどこかでつながれば、今度は、現実から受けた心の傷害を受け止めなければならないのである。いつまでも、乖離していたいと願う症状が解離性障害という心の病でもあるのである。自己防衛的な要素が強いのである。
これを見ていると、朝青龍も単なる普通の弱い人間だったと誰もが思うのである。相撲も格闘家である。その時点で、相手から、逃げた横綱と思われるのである。現実から逃避した横綱と思われてしまうのである。残念ながら、再度、朝青龍が土俵にあがったとしても、そこに強い横綱の面影は見られないはずなのである。今は、解離性障害で、自分を見失っている。しかし、心が静まり、現実から受けたショックが薄まれば、自然と心と体との結びつきが生まれるものなのである。もし、朝青龍の中に、今回の記憶が抜け落ちていたら、朝青龍は、再起できるはずなのである。しかし、朝青龍の中には、今回の顛末はすべて記憶の中に収納されているのである。今は、忘れているかもしれないが、どこかで、思い出すものである。やがて、冷静に、自分を見つめられるときがくるのである。そのとき、横綱としてのプライドが、朝青龍をどう変化させるかなのである。
安部改造内閣が決まった。民意を明らかに意識した改造内閣である。いろんなコメントが入るだろうし、あれほど、安部内閣を批判した舛添要一参議院議員が、厚生労働大臣になって、言動がどう変化するのかが、楽しみである。マスコミの注目度は、この布陣を見る限り、舛添議員に集まるのは、当然である。後の人は、それなりの実績と経験があるのだろうから、それなりの仕事はこなしていくことだろう。ただし、誰がやっても、安部首相の考え方が基本になるのであるから、期待はできるはずがないのである。
問題は、安倍首相が、改造人事において、格差を生んだ、小泉構造改革の実と虚の総括を国民に訴えられるかどうかなのである。ジニ係数が、0.5263になり、国民の23%の金持ち層だけで、総所得(国民所得)の77%をさらっている、逆なことを言えば、国民の77%の圧倒的な人が、総所得の23%の分を分配しているという現実に、どう格差是正を訴えられるかどうかなのである。国民の77%の人が、実は相対的に、貧困層になっているこの現実をどう説明するかなのである。(詳細は、8月25日の美粒ブログ、所得格差 (05年ジニ係数0.5263の意味する所)を参照してください。)安部首相が、この所得格差について、どう言及し、それがいいことなのか、悪いことなのか、を明確化できる点にあるかどうかなのである。公明党は、連立内閣与党として、今回も国土交通省に冬柴衆議院議員を送り込んでいる。公明党は、(生命・生活・生存)の人間主義、生活者重視の文化・福祉国家、人間と自然の調和、人類益を目指す地球民族主義へ、世界に貢献する日本、草の根民主主義の開花と地方主権の確立、民衆への献身とオピニオン・リーダーとが、党の綱領なのである。人間主義の項目には、政治の使命は、生きとし生ける人間が、人間らしく生きる権利、つまり人権の保障と拡大のためにこそあります。と明記されているのである。文化・福祉国家には、経済体制としては、自由な市場経済を基調としつつも、社会的公正の実現と社会的弱者の擁護など、市場原理と平等の原則との調和のとれた社会としての福祉社会のあり方を追及すべきです。と書いているのである。公明党の綱領を読んでいくと、小泉構造改革の路線とは、完全に異質であると感じるのである。小泉構造改革を継承すると明言した安部首相の路線とも、完全に乖離しているのである。誰が考えても、不自然なのである。今の弱肉強食のこの日本の、どこに社会的公正が実現されて、どこに社会的弱者の擁護が組み込まれているかなのである。「経済大国ながら生活小国」「繁栄の中の貧困」といわれているこうした現実を変えるといっておきながら、23%の人は、生活大国、77の人は生活極小国、23%の人は繁栄の中の大繁栄、77%の中は、貧困の中の貧困になっているのである。
アメリカ流(欧米)のやり方は、いつでも、力には力で対応するというものである。物を微細化するにも、物を壁にたたきつけて割るような手法なのである。物は壊れるが、壁も傷つくというものである。何回かやっていると、壁も破壊されるというものなのである。物も壊れるが、自分も壊れるというものなのである。欧米の考えで作られた機械は、すべてそういう考えで設計されているのである。なぜなら、欧米人は、変化を好むからなのである。それも急激な変化を好むものなのである。それの根本は、戦いなのである。基本的に、狩猟、征服型の気質なのである。相手が銃を出したら、相手よりも早く銃を抜いて、早く引き金を引き、相手を倒すことなのである。世の中の基本は、変化なのである。変化があるから、時間が生まれ、命がうまれるのである。変化があるから、経済がなりたち、物理や心理もなりたち、社会が成り立つのである。だから、その変化の差が激しいほど、そこに格差がうまれ、利益の差がうまれ、正か負のエネルギーがうまれ、急激な運動が発生するのである。
アメリカの考えは、その急激な変化の差によって、そのギャップにエネルギーをためることが良いことだと信じているのである。急激に電位が高くするのと同じなのである。急激に水位を上げることと同じなのである。そして、そこで利益を確保し、その後は、そのエネルギーを一気に解放するのである。スパークが一気に乱れ、火花がとびちり、まさしく放電現象であるから、雷となるのである。水が高速で乱れるため、津波のように氾濫するのである。金融も株もまったく同じなのである。そこに変化の差があるから、利益となるのである。安値で買う。短時間で株価を吊り上げる。高い位置に来る。そこで売って、利益を確保する。不安定な株は下落するのである。
ジニ係数とは、見慣れない指標だが、これはある意味、とんでもないことを意味するものなのである。(ジニ係数の詳細は、検索で調べてもらえれば、詳しく他のHPで紹介されているので、参照してください。)この数字(ジニ係数0.5263)は、2005年の集計結果なので、さらに、今は拡大していることが予想されるのである。この数字が意味するところを、言葉で表すと、労働人口の23.685%の人が、国民総所得の76.315%の所得を占有していることになるのである。裏返せば、国民総所得の23.685分の所得を労働人口の76.315%の人で分配しているという事を意味しているのである。具体的な数字で言えば、2005年の国民所得は、3,676,303億円である。日本の労働人口は約6772万人である。つまり、富裕層と呼ばれている人は、1604万人にて、その人たちは2,805,570億円を分配しているのである。その人たちの年間の一人当たりの平均所得は、17,489,000円になるのである。一方、非富裕層と呼ばれている人は5163万人で、全体の76.315%の人はこれに入ることになる。その人たちの年間所得は870,732億円であるから、その人たちの年間の一人当たりの平均所得は、1,684,000円になるのである。その格差は実に10.8倍近くになっているのである。まったく格差のない平等の社会であれば、国民所得が3,676,303億円であり、労働人口が6772万人であれば、年間一人当たりの平均所得は、当然に5,427,000円になるのである。 ジニ係数が意味するところは以上の所なのである。そして、8月24日、2005年のジニ係数が0・5263で、過去最大になったと、「05年所得再分配調査」の中で厚生労働省がその数字を発表したのである。
ジニ係数は、0から1の範囲にあり、0に近ければ、格差のない状態であり、1に近づけば、格差が大きい状態であると意味するのである。0は完全平等であり、総所得を総労働人口で割った数字になるのである。一般的に、0.2から0.3の中にあるのが、普通であり、市場経済で、競争を求められるときでも0.3から0.4が望ましいとされているのである。0.5を超えたら、これは、格差が大きく、社会のゆがみやひずみが社会の許容範囲を逸脱している状態をさすと言われているのである。05年であるから、今から2年まえですでに、0.5263であるから、今はもっと進んでいると感じられるのである。人口の75%弱の人たちが、低賃金の中で押し込まれているのである。逆に25%近い人たちで総所得の75%の果実を独占して優雅に生活しているのである。普通は、革命が起きてもおかしくない状態なのである。その結果をみれば、参議院選挙で自民党がまけ、民主党が勝つのはあたりまえなのである
沖縄空港で、中華航空機ボーイング737−800(ハイテク機)が着陸後、燃料が漏れて、炎上し、間一髪で、乗務員乗客が助かった。その事故の原因が、ボルト一本が欠落で引き起こしたことが、事故調査委員会で判明したのである。ボルトというのは、ものを固定するもので、機械に使われるときは、必ず、振動や力を受けるものなのである。どうもボルトが緩んで外れたのが原因だが、いずれにしても、ボルト一本の管理ができていなかったことが最大のミスなのである。致命的な事故につながる可能性のあるところのボルトが通常の離着陸の力に対して緩むものであれば、ボルトの強度、材質、ナット、ワッシャーの選定を軽く見ていたと指摘されても、抗弁が立たないのである。新鋭機である。フェールセーフの考えの上で、設計が行われているのである。ボルトが外れれば、スラット(可動翼)を収納するときに、ボルトが燃料タンクの壁に押し付けられ、その力で、穴をあけることぐらいの可能性は、予見できたはずなのである。万が一、ボルトが外れても、燃料タンクのフラット部との隙間がボルトの全長よりも長ければ、今回の事故は起こらなかったはずなのである。よしんば、ナットがボルトから外れても、ボルトの頭に、薄いステンレス板を曲げて載せ、その板を固定していれば、ボルトが踊っても、外に落ちることはなかったのである。明らかに、絶対に事故を起こさないフェールセーフの考えで、設計したというよりも、コストを落として設計したハイテク機だと、思われてもしかたがないのである。たまたま、事故が着陸後に起きたからよかったのである。可動翼を収納したのが、たまたま着陸後だったから、助かったのである。もし、走行中や飛行中に起きていたら、間違いなく爆発していた可能性があるのである。もし、爆発していたら、燃料タンクもフラットも粉々になっていたため、事故の原因は、完全に迷宮入りしたはずである。
ボルトとナットは、機械設計では基本のものである。数本が折れても、残りのボルト一本で、固定し支えたため、事故が起きなかったこともあるのである。その一本のボルトでも、締められたら、外観からでは、その内部の腐食や疲労度合いなど、分からないものなのである。二つのものの面をボルトで連結するのである。ナットが緩むことがあれば、その締め込みトルクが不足していることになるのである。もし、強度があっても、強い力が繰り返しかかれば、そのボルトの頭に過度のストレスがかかるのである。ねじる力と引っ張る力の複合的な力を常にうけているのである。ボルトの強度が負ければ、ボルトの頭がとれ、ボルトのねじ部が欠落し、二つの面は外れることになるのである。
再び、出生率が低下に転じたとのことである。厚生労働省は、要因がわからないとしている。原因は、簡単なのである。生んだ子供の、子供の世代には、地球温暖化等で、この今の現実がそのままの状態であるかどうか、不安だからである。今年の夏が異常に暑いという単なる一過性の現象なら、それは問題ではないのである。40.9度が、何かの偶然でその因果関係も明確されるなら、それはそれでいいのである。しかし、最近の異常気象に対して、みんなが何かがおかしいと感じ出して、それが、漠然とした不安として心に根付いた後に出てきた数字(40,9度)だから、余計おそろしく感じるのである。そして、今の残暑をもたらしている高気圧が東にされば、南の海上で生まれた台風は、高気圧の縁を回るように日本を狙うことになるはずなのである。海水が高いので、台風は、湿った空気をもらって、一気に気圧を下げ、そして、激しい積乱雲を下から上へと発達させることになるのである。猛暑が一転して激しい豪雨となるはずである。人々の心は、ますます不気味になるはずである。
いままで、天地が不安定なことはあった。地震、洪水、豪雨、津波、台風、それは、自然現象として、いずれも自然の営みの範囲の中にあったのである。春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来る。季節は、循環し、その中で、ほぼ同じことが、自然現象としては現れてきたのである。多少の変動はあったが、それは、雄大の自然のなかのばらつきとして許容されてきたのである。それが、日本人の中の無意識の中に、刷り込まれた日本人としての生存用件だったのである。沖縄には沖縄の、九州には九州の、四国には四国の、近畿には近畿の、それぞれの四季があり、それぞれの季節との文化や風習が、根付いていて、日本人は、その身についた時計に合わせて、歳をとりながら、次の世代に日本人の心と命を継承させていったのである。
地球温暖化に伴い、原子力発電所をどうするのかが、今後の大きな問題にならざるを得ないのである。原子力を利用することが、いいことなのか、どうかが、民意の分かれ目になるはずなのである。基本的に、原子力発電とは、放射性物質の核分裂反応で発生する熱で、水を沸騰させ、その力で、蒸気タービンを回し、発電することなのである。発電するメカニズムは、火力も水力も風力も基本は同じなのである。問題は、放射性物質での核分裂を利用することなのである。特に、火力発電所は、火力で燃焼させることで、水を沸騰させて蒸気タービンをまわすことでは、原子力発電と殆ど同じなのである。
問題を複雑にしているのは、日本が原爆の被災国である点なのである。原爆での高熱での熱死や放射能による障害が、面前に繰り広げられたことにあるのである。放射能汚染が、どれだけ、被爆者に深い傷をいまでも与えているかなのである。核分裂反応を利用するため、放射線が常に拡散し、放射能汚染を引き起こす危険性があることになのである。原子炉の周囲を完全に密閉遮断しても、そこがやられれば、放射線は、外へ放出されるのである。それがチェルノブイリ原子力発電等の事故なのである。
原子力発電の仕組みは、下記のようなものである。ウランのような不安定な核燃料に、ある速度をもった中性子を当てることによって、その原子核が中性子を吸収し、そのことで、その原子核はさらに不安定になり、原子核が2つにわかれるのである。それと同時に、複数の中性子を吐き出すのである。それが、別の原子核に吸収され、分裂を誘発させるのである。実際には、その高圧炉のなかには、水があり、高速で飛ばされた中性子が水分子と衝突し、その結果中性子はエネルギーを失い減速するのである。変わりに、エネルギーをもらった水は、勢いよく運動するので、温度が上昇するのである。もちろん、圧力がかかっているので、気化することなく、高温、液体の状態で、熱交換へと移行するのである。それが一次冷却水ラインである。熱交換器で熱を別の二次冷却水ラインに供給し、冷えた一次冷却水は、原子炉にもどるのである。それはそれで、クローズ系なのである。熱交換器で熱をもらった二次の冷却水ラインの水は、水蒸気となり、その水蒸気の力で、蒸気タービンを回すことになるのである。回して熱量を失えば、蒸気は水にもどり、そして、熱交換器へと循環されるのである。これもまたクローズ系であるため、放射能に汚染した
一次冷却水が二次側に行くことはないのである。
宮沢賢治は、自らの内面を森羅万象のゆらぎと重ねながら、大地に根付く人々の哀しみと共鳴し、何とか、己の命を利他のために奉仕しようとした、類まれな詩人・童話作家・教育者そして技術者なのである。享年37歳で、死去するまで、宮沢賢治は、だた、ひとつのことを実践したにすぎないのである。それは、自然の中で生かされた己の命を、どれだけ、有効に人のために役立つことができるか、それだけを念じて生きていたように思えるのである。宮沢賢治の足跡を記念して、彼の死後、色々な事業展開が行われてきたのである。現在でも、花巻には、宮沢賢治記念館や宮沢賢治学会イーハトーブセンターなどがあり、全国にも宮沢賢治の詩や童話を愛好している会が多く存在しているのである。はたして、それらが、過去に生きた一人の人間、宮沢賢治とどう結びつき、彼が、心の中で求めていた世界とどうリンクしていくのかが、ぼやけているのである。宮沢賢治は、あくまで、実践者なのである。教育者として、技術者として、科学者として、この現実をなんとか彼が求めた理想に近づけようと、一歩一歩努力した人なのである。その原動力となったのが、彼の内面にある心象風景なのである。それを文学に綴ったのが、詩であり童話なのである。だから、賢治は、生前に積極的に、詩集や童話集を発表していないのである。賢治27歳の4月に心象スケッチ「春と修羅」を自費出版し、28歳の12月に童話「注文の多い料理店」を刊行しただけなのである。後は、文芸誌に、詩を発表している程度なのである。病気で倒れて、他界するまで、彼は、農業技師や鉱山技師としての技術者として、農民や炭鉱の人とともに、生きたのである。そして、他界する二年前の病床のとこで、手帳に「雨ニモマケズ」を書きとめたのである。宮沢賢治の文学的な評価は、彼の死後に発表されたおびただしい未完の詩や童話によって、受けたものなのである。
宮沢賢治は、生前、詩や童話作家としての評価を求めたのではなく、あくまでも、利他のために、この現実という世界の中で苦しむ人を救いたかったのである。だから、死の寸前まで、農民の肥料の相談を技術者、科学者として受けていたのである。彼が遺言で残したのは、法華経を1000部印刷して知人に配布してくれるように父に頼んだだけである。自分が書き残した詩集や童話を刊行し、世に広めてくれと願ったのではないのである。彼の死後に残った人が、それを発表し、後世の人に伝えたのである。宮沢賢治は、あくまでも小乗的に生きたのではなく、大乗的に生きた人なのである。賢治が伝えたかったのは、彼の心象風景のスケッチではないのである。童話のように自然と交流する心をもてといいたかったのでもないのである。それは、彼の孤独の中にあった思いを詩や童話という形式で、表現しただけなのである。それを後世の人が評論・評価し、そして、後世の人が、彼らの頭の中にイメージされた宮沢賢治像をつくりあげ、祭り上げたのである。
昔から、言葉によるいじめは存在していた。社会でも会社でも類似した問題はあったのである。いわゆる、陰口である。上司や同僚への不平や不満を酒のつまみにして、発散したものである。会社の女子従業員での休憩時でのうわさもそうである。集合住宅でも、誰それさんの云々は、井戸端会議で話題にされるものである。中学高校の学生の学校裏サイトは、その延長線にあるもので、それが、特に異質なものではないのである。裏で言っていたことを、ネット上に載せただけなのである。特定少数の場で、こそこそといっていたのが、不特定多数の場で公開されたことなのである。ネット社会が発展すれば、そういう問題が出てくるのは必然的なのである。あとは、それに対してどういう対処をするかどうかの問題なのである。
大人であれば、仮に会社裏サイトというものがあっても、誰も書き込まないのである。社会的なルールがあって、それが特定されれば、書き込んだ人は、まず解雇させられるからである。まして、名誉毀損や損害賠償の対象になるから、サーバーからPCや携帯電話が特定される可能性があるからである。それが、社会的に許容されるのは、内部告発の場合である。組織が不正をおこなって、それを告発する場合なのである。社会正義が告発者側にあることが前提となるのである。子供は、社会の縮図なのである。肉体的には成熟度が早くなったが、精神的には明らかに未発達なのである。ゲームやパソコンの仮想世界になれているため、人とのコミュニュケーション能力が乏しくなっているのである。そこを理解しないと、本質が見えないことになるのである。子供は、精神的に未熟なので、ある意味、残酷なのである。他人の心を推し量る能力が、経験的にわからないので、やはり自己中心的に考えるのである。甘やかされて生きてきた子供は、特にその傾向がつよいのである。後は、その子供(人間)の性格が大きく影響を受けるのである。外交的な子もいれば、内向的な子もいる。積極的に前に出る子もいれば、消極的に人見知りする子もいるのである。社会的な環境の因子、家庭内の環境因子、遺伝的に継承される性格の因子、色々な複合因子の影響を受けて、子供の人格(性格)は形成されるのである。
(内外因子の影響を受けた)その子が、ある中学校や高校の場に配属される。そして、ある教室に組み込まれるのである。もちろん、その教室に数十人のクラスメートがいる、担任の先生がいることになるのである。それは、ある無限の中の組み合わせのひとつが決まるのである。その教室の場の中で、それぞれの内外因子の影響を受けた生徒達と、内外因子の影響を受けた担任の先生との相互作用が発生するのである。その構図は、社会関係と同じなのである。昔から、その閉鎖された学校―学年―学級という構造には変わりはないのである。それぞれの子供のエゴがあるために、そこに好き嫌いや、合う合わないといった主観がどうしても入るのである。子供たちは、肉体は成熟しているが、精神的または、社会的には未熟なため、そこに排除の論理が入るのである。勝気な子どもからみれば、内気な子がいれば、うじうじしていると感じるのである。ひがみやすい子からみれば、八方美人的に対応する子がいれば、いい子ぶっていると感じるのである。子供は残酷なものなのである。昔なら、閉鎖的な環境であったため、数人の仲間内で、事はすんでいたのである。
人には、無限の能力があります。その能力を決めているのは、自分なのです。自分で決めるからできないのです。もちろん、人間には、物理的な制約があります。他から、エネルギーを与えられず、単独で、重力に逆らって、浮遊することはできません。もちろん、人間は、エネルギーを食べ物と言う形で取得し、それを消費して生きています。あるものは、熱という形で人間の外に放射しています。ですから、人間には、体温があるのです。人によって、平熱は違います。人間の目には赤外線は見えませんが、もし、可視光線の波長領域よりすこしずれた波長を感受できれば、人間の周囲から、熱として放射されている揺らぎがみえるはずなのです。ですから、それを意図的に、集中させ、あとは、指のちからを利用すれば、スプーンは曲げられるし、折れることも可能なのです。
空手で、板を素手で割る人を見ます。瓦を何十枚重ねて、割る人をテレビでみます。スローモーションでみても、そこに、種はありません。本当に割れるのです。板を割るには、力が必要です。板であろうとするには、板には内部に凝集力、結合力という力を保有しています。それ以上の力をかければ、割れるはずなのです。あとは、挙手の方の問題です。力は、質量と加速度の積になるため、素手に力をいれて、拳をつよくし、加速度をあげれば(スタートから板にあたるまで、拳のスピードをあげること)力は加わります。そして、圧力は、単位面積あたりの力ですので、板と拳があたるところを最小にすれば、それだけ、圧力は高くなり、割れやすくなります。それを訓練するわけです。
この分にかんしては、下記のところにアップしています。
http://beryu.livedoor.biz/archives/50724612.html
昭和8年7月25日、山形市で観測された最高気温温度40.8度をとうとう2007年8月16日に超えてしまったのである。それも、岐阜県の多治見市と埼玉県の熊谷市で、二箇所も越えたのである。気象庁のホームページを見ると、温度観測も、日射や風雨の影響を受けない通風筒の中で観測されているのである。その通風筒も二重の円筒であり、その間に断熱材を入れて日射や反射光が温度センサーに当たらないようにしているものである。また、その中にファンがあり、常に、約5m/秒の通風が入る構造になっているのである。したがって、40.9度は、日陰のある程度通風が効いたところでの、温度なのである。気象庁は、温度計に対して、ある程度の期間で、キャリブレーション(センサーの校正)を実施しているはずなので、その温度は、間違いないのである。日向で、通風が5m/sec以下のところであれば、それ以上の温度があったはずなのである。
これは、まさしく、地震、台風よりも恐ろしい現象なのである。報道番組で、最高気温が更新された、熱中症に気をつけてくださいだけでは、根本的にすまない問題なのである。この場合の大気の温度とは、空気の運動エネルギーに他ならないのである。太平洋の高気圧が張り出し、しかも、その周りを水蒸気(雲)で囲われた。そのため、その中の熱が逃げにくい状態になったので、気温が上昇したとの一過性の現象ではもう済まされないのである。たまたま、多治見市と熊谷市で、40.9度を観測したということで、話を終わらせたらいけないのである。
基本的に、エネルギーは保存されるので、日本が異常に暑いということは、どこかで、異常に寒い現象が起きているはずなのである。地球の、エネルギーの入り(外から地球に入る量)とエネルギーの出(地球から外に出る量)の差が、常に一定であれば、たまたま、最高気温を更新したですむ話なのである。その差が年々拡大していくことが、問題になるのである。温室効果ガスによって、地球から外に出る量が減ってきているのである。
温室効果ガスは、主に水蒸気、二酸化酸素、メタン、窒素酸化物等である。そのガスは、太陽から入る日射エネルギーは、通過させて、地表の温度を暖め、逆に地表から放射される波長の長い赤外線(熱)を吸収する性質をもっているのである。つまり、熱を取り入れるが、熱を放出しない性質をもっているのである。断熱材で囲われた家の中を下からどんどん火であぶっているようなものなのである。
防衛事務次官人事に端を発した衝突は、小池防衛相と塩崎官房長官との心理的な衝突まで発展してしまった。この原因を作ったのは、明らかに安倍首相そのものであり、その騒動を対岸の火事として傍観しているのは、安倍首相の人間に対する気配りのなさをあらわしているのである。それを見抜いた民意は、安倍首相にNOと突きつけたにもかかわらず、自分のどこに問題があるのかさえも、理解できていないのである。事の発端は、安部首相にあるのである。
防衛省は、自衛隊を管理する中央官庁である。女性隊員や女性職員もいるが、圧倒的に男社会なのである。旧陸海軍の流れを汲む以上、そこに明らかに軍律が存在しているのである。警察と同じように、完全に階級縦社会で構成されているのである。現場は、徹底的に訓練により、その規範を遵奉するように仕込まれるはずなのである。頭よりも体で軍律を洗脳させられるのである。それは、憲法が変わっても、基本的に軍隊である以上、その本質は変わることはないのである。だから、現場をしらない人に、その特別な系統で維持されてきた組織体制を変えられる事に、防衛省幹部は抵抗を感じるはずなのである。
62年前の8月15日正午、玉音放送を通して、天皇(昭和天皇)は、国民に終戦の詔勅を伝えた。実際には、8月14日、午後11時、天皇の証書と無条件降伏を柱とするポツダム宣言受諾を連合国に伝えることで、対外的に戦争は終結していた。8月6日、広島に原爆投下、7日にソ連参戦、9日に長崎に原爆投下、その時点で、日本に戦争を続行させる力は皆無だったのである。10日には、国体の保持を条件としてポツダム宣言受託を決定していたのである。もし、国体の保持にこだわらず、それをその日に受託していれば、10日から14日までの空襲はなかったのである。もちろん、満州での悲劇もすこしは緩和されていたはずなのである。ポツダム宣言受託、無条件降伏に関する重臣や軍部たちの思惑や駆け引きや保身のために、多くの人の命がなくなったのである。もちろん、広島、長崎での原爆被災者にもそれだけ早く治療を施すことができたはずなのである。
逆に言えば、1945年8月10日から8月14日までの意思決定の遅延がなくて、10日に受託できるような国家体制であれば、もともと、無謀な戦争を起こすことはなかったろうし、仮に、起きたとしても、どこかで、講和し、戦争を終結させていたはずなのである。誰が考えても、資源のない日本が、連合国を相手にして、勝利を得ることなど、不可能なのは分っていたはずなのである。日本全体が、自分たちが作り上げた神の国という共同の幻想に麻痺し、自己洗脳がかかり、そこに軍部の国家体制(国家総動員法)がしかれてしまえれば、天皇自身でさえ、何かのきっかけがなければ、戦争終結など、公にいえなくなっていたにちがいないのである。戦争を否定し、講和を口に出したら、非国民として、たとえ軍人であれと、射殺されたであろうし、まさしく、幕末の尊皇攘夷のヒステリック症候群と類似していたはずなのである。
最近、ブログで地球温暖化を取り上げている。8月10日(ハゲタカファンドは地球を滅ぼす)8月11日(美しい国づくりのために)8月12日 (二回目ハゲタカファンドは地球を滅ぼす)である。いづれも、経済成長と地球温暖化は市場経済優先であるならば、当然に関連付けられると述べたのである。大手の自動車会社は、エコロジーという名目で、ハイブリット車を売り物にしている。それで、アメリカやヨーロッパ車との差別化し、高収益を上げている。少なくとも、中部経済圏は、トヨタが牽引して、経済をリードしているのは、間違いないのである。
しかし、ハイブリッド車が、エコロジーに貢献しているかどうかは、疑問なのである。その電池をつくるのに、どれだけのエネルギーをかけているのか、普通はだれも気がつかないはずなのである。その電池をつくるのに、溶剤と電力(エネルギー)を使い、規格と性能にあうものを作っているのである。何故、ハイブリット車が高いのかは、その電池製造コストが高く、微粒化にかかる非効率と溶剤等の回収の非効率が重なるからなのである。確かに、車自身の省エネは40%以上はあっても、そのために使われる新たな余分なエネルギーが40%増えれば、トータル的にはエコにはならないのである。今後の中国での自動車保有台数の伸びを考えれば、いくら、ディーゼル車・ハイブリッド車の組み合わせを行っても、焼け石に水であり、地球温暖化は加速する一方なのである。燃料電池車も、メタノール車も、基本的には、エネルギー源を地球内部から持ってきている以上、何をやっても同じなのである。地球内部にあるエネルギー(石油、電力、物質)を利用して、できるだけクリーンなエネルギーとして活用しても、エネルギーは保存されるため、その実態は、エネルギーの形態が変わっただけでトータル的には同じことなのである。仮に、50%の削減があったとしても、その車の台数が倍になれば、同じことになるのである。もちろん、その車を生産するにも、莫大なエネルギーが使用されるために、事態は余計ひどいことになるのである。車の生産数が伸びれば、伸びるほど、蓄積される車の保有数は増えるはずなのである。日本で廃車された車が中国や他の諸国で走っているからなのである。
小泉前首相の前に小泉首相はいないし、その後にも小泉首相はいないのである。確かに、小泉前首相のいったように、戦後から培った自民党の古い体質は、ぶっ壊れたのである。そして、小泉前首相の思惑と少し違う結果になるかもしれないが、小泉前首相も守ろうとした自民党の保守基盤も残念ながらぶっ壊れたのである。小泉前首相は、支持率が低下する安倍首相に、忍耐、辛抱とアドバイスしたそうである。しかし、忍耐の後に、何かしら晴れわたる予想があればいいのだが、その予想されるビジョンが見えない以上、安倍首相の、針のムシロ状態は続くはずなのである。一体、小泉前首相は何をもくろんでいたのだろうか?
時代は、急激に変化している。人生80年は、長いか短いかは人それぞれだが、私が生きてきたこの約50年を振り返っても、明らかに、今の時代のスピードは、指数的に変化しているように感じるのである。小泉政権時代でも、ものづくり日本の基盤産業は、着実に伸びていたのである。問題になったのは、時代の成長のスピードが速すぎたため、需要の変化に企業の体質がついていけなかったのである。そのために、一時的な構造のシフトが必要になったのである。客観的みれば、批判もあるだろうが、リストラ等で、身軽になり、時代が求める方向へと企業が動き始められるようになったのである。金融も医薬品も建築関係も同じである。それまで、護送船団で守られた業種とは、実は、税金で下支えされていた集団であったと、その実態がわかってしまったのである。そのために、企業の合併がおこったのである。その時点で過去の膿をだして、税金で支えられなくても自活できるように、再生プランが必要になり、それを実践したのである。それはそれでいいことなのである。
たばこをやめることは、なかなか難しいことである。酒をやめるのも、同じことである。習慣性のできたものを、自分の意思でやめることは、よほど、意思がつよくなければ、できないものなのである。普通は、挫折することが多いのである。しかし、たった、ひとつ、やめられるケースがある。それは、ドクターストップがかかった場合である。たばこをすい続けたら、明らかに、生命を失うことになると、自覚できた場合なのである。その命にかかわる恐怖感がおそってきたら、普通の人は、まず自己防衛が働くため、たばこをやめることができるのである。残念ながら、身に直接の危険が感受されるまで、人はなかなか動かないものである。
それと、おなじことが今、地球全体に襲い掛かっているのである。それが地球温暖化問題なのである。これを生み出しているのが、基本的に熱量なのである。熱量はジュールという単位で表される。エネルギーとしての単位として使われているものである。4.19ジュール=1カロリーである。ご存知のように、1カロリーは、1gの水の温度を1℃だけ高めるのに必要な熱量なのである。今、これを見ているPCのCPUの発熱量(CPUが演算処理をしているために、電力が消費されている、それが熱に変換されている)が約100Wであれば、100W=100ジュール/秒ということになる。100/4.19 カロリー/秒、つまり、24カロリー/秒の発熱をしていることになる。仮に、100万の人が、一時間、ただ、コンピューターに仕事をさせているだけで、86,400,000,000カロリーを放出していることになるのである。864トンの水を100℃あげることができるものなのである。クーラーは、もっとすごいことになっているのである。もちろん、それだけ消費されれば、それに対して供給するものを作り出さなければならない。それが、電力会社が発電所でつくっている電力(エネルギー)なのである。地球温暖化は、大気中に放出される温室効果ガス(水蒸気、二酸化炭素、メタン、窒素酸化物等)が増えたことによって、本来、地球の外に放出されていた熱(赤外線)が、その温室効果ガスに吸収されてしまい、地球の内部(空気層)から外に放出されにくくなったのが原因なのである。それが、年々、ものすごい勢いでふえていっているのである。
エントリピーという言葉を、ご存知だろうか、熱力学や情報処理を学ばなければ、耳にする言葉ではないだろう。ありていに言えば、乱雑さをあらわす言葉なのである。整理されていれば、エントロピーは低いといい、乱雑になっていればエントロピーは高いということになるのである。固体は、エントロピーが低く、気体はエントロピーが高いということになるのである。時間の流れが一方にしかながれないように、エントロピーも孤立系では(そとから何かをしなければ)低い状態から高い状態にながれるということになるのである。命も、そとから栄養をとるといった行動をしなければ、ばらばらになって、灰になり、そのうちなくなってしまうのである。逆に言えば、人間が生きるというのは、その時間とともに流れるエントロピー増大の法則に逆らって、食べ物をとり、命や心というものを整理してがんばることにほかならないのである。それがマイナスのエントロピーということになるのである。そして、力尽きれば、この世から消えることになるのである。
人類の歴史は、人類がいるから価値があるのであり、その人類がいなくなれば、その歴史も発見も発明も伝える人がいないので、まったく意味がないということになるのである。そんなことはない、人類がいようがいまいが、その歴史や発見や発明、それ自身に価値があるのであり、それが伝える人がいようがいまいが、関係がないといえる人がはたして何人いるのだろうか。エントロピーという概念も、人間にとって何かしらの価値をもたなければ、意味がないような気がする。学問のすべてが、結局は、人間にとってどのような意味合いをあたえるかどうかが重要なのである。そして、どんなものでも、人間となにかしらの相互作用(関連性)をもつのであるから、それと人間との関係を講じることもまた大事なことになるのである。今回は、エントロピーとマイナスのエントロピーがどう人間と関係をもつのか論じることにする。
地方都市に行くと、商店街のシャーターがほとんど下りている。都会の町工場は活気のあるところとないところが、二分されている。世の中は、完全に二極化されている。富めるものは富める以上の富をもち、失う人は、失うものがない以上のものを失っている。疲弊しているところと、発展しているところが、はっきりと別れている。夕張市のように、財政破綻したところもあれば、いまだ、豊かな財源をもって健全に市制を運営しているところもあるのである。本来、自然界の動きからみえれば、日本をひとつの孤立系(閉じられた空間)だとすれば、全体が均一になろうとするのが、自然の姿なのである。結果的に二極化するのは、平均化したところに山を作ったからなのである。その平坦だったところに、一番多くの人がいたのである。その空間を下からおしあげたために、逆にそのひずみで富んだところと貧しいところに谷ができたのである。人為的に山と谷をつくったのである。だから、富める方向へ行く人と、失う方法へ行く人が別れたのである。ころころと、できた山の坂道をそれぞれの谷へ落ちていったのである。そして、本来、人がたくさんいたところが山の頂になり、そして、人の集団がそこからいなくなったのである。それが地域格差なのである。
地域格差是正をするのであれば、上がった山を押し下げて、谷をつくればいいのである。そうすれば、富んだところの谷はすこしあがり、貧しいところの谷もあがるのである。富んだ人はすこしづつ失うほうへ行き、失った人はすこしづつ富んだ方向へもどるのである。原則は、簡単なのである。所得を増やすことができるかどうかなのである。そうであれば、生産性をあげれば、日本に入る所得が増えるのである。あとは、それをどう再分配すればいいかどうかなのである。所得がふえないのであれば、そのなかで切り盛りするしか方法がないのである。そうであれば、富んだ人から多く税金をとり、少ない人から税金を取らなければいいのである。あとは、律令官僚組織体制を情報公開、共有、透明性、公平性の原理で見直せば、役所の中で無駄に消費された経費がうまく社会に再分配されるはずなのである。
参議院選挙で自民党で負けたのは、地方への配慮が欠けていたためとして、平成20年度予算の概算要求基準での公共事業費3%削減を見直せと言い出したのである。まったく、次の衆議院選挙目当ての自己保身でしか考えていない人たちだと、あきれて物が言えなくなるのである。幕末であれば、獅子身中の虫として、切り捨てられたことであろう。今は、小泉政権時の構造改革路線の延長にいるのである。あのとき、自民党は、全員で小泉構造改革をバックアップするといったのである。舌の根も乾かぬうちに、もう反対と言い出したのである。あきれて物が言えないのは、「きれいごとでは党は持たない。財政再建は党を滅ぼし、国を滅ぼす。」「改革は小休止。参院選でこんなに負けたのに諮問会議であんな議論をして。1年ぐらい休んで考えたほうがいい。」といった声が、自民党の政調全体会議で飛び出してきたことである。確かに、小泉構造改革の行き過ぎが格差社会を生み、参院選で地方票を大きく減らしたのは事実である。しかし、小泉構造改革を実行すれば、都市と地方の格差が広がるのは、分かっていたことなのである。それに対して、抜本的な対策を打てなかったことが自民党の敗北の一因でもあるのである。
「改革には痛みを伴う。それに耐えなければ、日本の将来はない」といったのは、天才、小泉前首相なのである。その人気にぶら下がって、自己保身に走ったのは、今の自民党の議員たちなのである。良いか悪いかは、別にして、郵政民営化法案に反対し、小泉前首相にだめだといって、自民党を出て行った、国民新党の綿貫民輔代表や亀井静香副代表の方が政策は別として、筋が通っているのである。また、先の衆議院選挙で静岡7区で小泉前首相が放った刺客、片山さつきさんに僅差で敗れた城内実さんの方が、自分の信念を貫き通し妥協しなかった点、政治家としては立派であると感じるのである。郵政民営化反対で、造反した議員が右顧左眄して自民党に復党するなか、それでも自分の信条を曲げずに無所属の立場を貫いている平沼赳夫衆議院議員の方が、政策は別にして、人として信頼が置けるのである。与党の無策を棚に上げて、参議院選挙の結果を見て、急に改革にブレーキを踏むとは、政治家としての信頼性にかけるし、それ以前に人間としてどうかと思いたくなるのである。城内実さんは、落選して衆議院議員からただの人になったのである。今回の参議院選挙候補としての出場要請が、自民党からあったと報道されている。それでも、城内実さんは、それを断り、無所属で立派に活動し、次の衆議院選挙に備えているのである。その信念を貫く姿勢を必ず有権者は見ているに違いないのである。
野球は、基本的に打者と投手との戦いである。相撲とおなじように、これも心技体がそろわなければ、打者は投手に勝てないのである。投手が投げた140km/h前後のボールを、打者が動体視力でおい、脳の中で思い描いたイメージを信号としてだし、それをもとにして筋肉を動かすのである。バットを、どのような角度でどのような力を用い、コントロールして当て、そのボールが野手のいない所にいかに通すか、または落とすかで勝負が決まるのである。投手も、流体力学を利用して、直球、カーブ、シュートを使い分けて、打者の予想を外すのである。投手の力量に対して、打者の力量が勝てば、それだけ打率が上がるのである。それが一番うまいのが、イチロー選手だということである。相撲は、押す形、引く形、投げる形、かわす形がそれぞれある。先に土俵を割った方が、または、先に土俵についた方が、負けとなるのである。これも、相手の動きに対して、どう対処するかで、勝負はきまるのである。これも、胴体視力で相手の動き(変化)をよみ、脳の中で思い描いたイメージを信号としてだし、それを元にして筋肉を動かすのである。組み合えば、相手の微妙な変化を肌で感じるのである。すきが出たと感じれば、一気に相手が動こうとしている力を利用して、技をかけ、相手を先に土俵につけるのである。それが一番うまいのが、朝青龍関だということである。
スポーツでも色んなタイプがある。個人の記録を競うものがある。陸上競技などはその例である。より早く走れる、より高く飛べる者がチャンピオンとなるのである。それは、個人だけで、相手はいないのである。それと、個人対個人の戦いがある。格闘技である。より強い者がチャンピオンとなるのである。相撲、柔道、剣道、レスリング等である。それに、団体対団体の戦いもあるのである。野球、サッカー、バレーバール、バスケット等なのである。特に野球は、個人対個人と団体対団体の複合試合なのである。より多く点数をとった団体がチャンピオンとなるのである。同じ、アスリートといっても、そこに明らかな違いがあるのである。
横綱朝青龍関は、子供の心をのこしたまま、大人になった横綱である。自分の世界を守れたのは、技と体があったからである。格闘技は強ければいい、その結果だけを残せばいい。それで、今まで上り詰めてきたのである。わがままも、強ければ、許される。そういう過保護の体制の中で、育てられたのである。ある意味、横綱朝青龍関にとっては、栄光とは裏腹に、悲劇そのものなのである。純真な心、少年のような気持ちがある横綱なのである。体は立派であるけれど、逆に、精神レベルは、子供なのである。つまりは、わがままな一面をもつのである。つまり、師匠の高砂親方が、相撲協会での自分の影響力を確保するために、朝青龍関を利用して、自分の権力を確保したのである。強ければ、何をやってもいい、それを放任したのである。技と体はすばらしい。横綱朝青龍関の心のありようを親方が理解しておれば、若いときに精神力をもっと強化できるような指導を朝青龍関に行ったはずなのである。それを師匠として怠った結果が今回の顛末なのである。強ければ、何をやっても許されるという体質を作り上げてしまったのである。まさしく、今、問題になっている亀田興毅選手と同じ問題を含んでいるのである。
安倍首相も、心技体の心がかけているのである。経歴をみても、自ら苦労して這い上がった形跡はないのである。まさしく、親の七光りを受けて、プリンスのように政界に進出した人なのである。仲間には、やさしいだろうが、自分と異なる意見を持った人の意見を受け入れるだけの器がないのである。残念ながら、甘やかされて育て上げられた二代目社長と同じようなものなのである。二代目社長も安部首相も、自分の周りに自分と同じ環境で生きたお友達を置くものである。そうして、先代に仕えた人をないがしろにして、組織を腐らすのである。今の安倍首相をみていると、まさしく、すべてを自分ひとりで切り抜けようとしているのである。自分の考えは、民意の支持を受けている。自分を支えている周りがおかしいのだ。私の内閣は、決して間違ってはいないと、自分だけの世界だけを見て、自分の周りを見ようとしないのだ。まさしく、二代目社長と、同じ論理で、自己を正当化しようとしている。先代は、先代と会社とがイコールだから、周りがついてきているのである。二代目には、そのイコールがないのである。それを錯覚して、私の会社、私の内閣だというおかしさに本人は気づいていないのである。
1945年8月6日、午前8時15分、B-29(エノラ・ゲイ)によって、原子爆弾リトルボーイ(濃縮ウラン型)は広島市中心部、上空約580mで炸裂した。熱戦と放射線と爆風と衝撃波によって、一瞬にして広島は壊滅したのである。それは、人類が作り上げたもので、人類史上もっとも目を覆いたく激しい方法で、人間がある目的と意図をもったものとして、生命と物を一瞬にして破壊したものである。地震や噴火、津波、台風とは違って、人間が人間に対して適応したものなのである。そして、3日後の1945年8月9日、午前11時2分、長崎市に対して、原子爆弾ファットマン(プルとニューム型)が投下されたのである。どんなにアメリカが正当化しようと、降伏寸前の日本に対して、それも非戦闘員が住む市街地に向けて、投下するなど、まともな人間のすることではないのである。戦争終結を早める目的であれば、東京湾のど真ん中に炸裂させればよかったのである。本土から近くにある無人島に落とせばよかったのである。それで十分なはずであったはずである。
アメリカは、もともと非戦闘員が住む都市部を、目的をもって狙ったのである。広島、長崎が原子爆弾という兵器の威力を測る生体実験場だったといわれてもしかたがないのである。生体実験としてヨーロッパ人ではなく、日本人を使用したのである。その心理の裏には、人種差別意識があると指摘されてもしかたがないのである。まさしく、これと逆なことを、日本は、中国のハルピンで細菌部隊731が中国人を捕虜にして、細菌戦の準備として生体実験を行ったのである。小説家森村誠一さんの著書「悪魔の飽食」で克明に語られている。そこには、おぞましい事実が語られているのである。(そして、もっとも不快なのは、戦後、731部隊の幹部は、その実験データーをアメリカに渡すことを条件として戦争犯罪責任を免責されたのである。)日本人が日本人で生体実験をしたのではなく、それをマルタといって中国人をものとして扱えたのは、人種差別意識が日本人にも中国人対してあったからである。それと同じ心理がアメリカにもあったはずなのである。
参議院選挙から、一週間が経過した。新聞やネットやテレビ報道番組では、連日、 その後の経過が伝えられている。安部首相の支持率は低下した。絆創膏の不可解な言動を繰り返した前赤城農水大臣も、結果的に辞めさせられた。選挙日の夕方での、森元首相と中川幹事長と青木参院議員会長との福田元官房長官による暫定政権案に関する密談内容も公にされた。もちろん、安部首相は、「解散のない参議院での選挙は、政権選択選挙ではない、その結果で政権選択が行われることはあるべきではない」といって、どんな結果になろうとも続投すると、その案を受け入れなかった。それに対して、理性的で言葉を慎重に選んで話す石破元防衛庁長官は、感情を顕わにし、自分をとるか小沢民主党代表をとるかなど、選挙中にいうことが間違っていると、痛烈に首相の責任を追及しているし、外添自民党参院政審会長も同様な発言をし、新しいリーダーを選んで立て直すだけのエネルギーも自民党にはないのかと、批判を繰り返している。一方、民主党は、着々に、多数派になった参議院から法案を提出しようとしている。また、国政調査権を利用して、各省庁の支出明細を出させようとしている。このことで、今まで政府与党に圧力をかけて、国政調査権の発動を阻止して、明細の公開を拒み続けてきた各官庁の利権天下り構造が崩れかけようとしている。これだけのことが、この一週間のなかで動いているのである。民主党が参議院で比較第一党になったことで、日本の構造が大きく変化しようとしているのである。小泉改革よりも本格的な民意による改革が真の意味で遂行しようとしているのである。
いわゆる朝青龍問題とは、腰の疲労骨折で夏巡業ができないと休暇届を出しながら、帰国後、横綱朝青龍関が中田英寿さんとモンゴルのチャリティーサッカー試合に出て、それに興じて元気な横綱朝青龍関の姿がテレビで報道されたことが、きっかけとなった問題である。つまり、仮病をつかって診断書を作り、大相撲の夏巡業をすっぽかし、国技の相撲の秩序を乱したというのが、その本質にあるということである。処分結果は、9月の秋場所と11月の九州場所の2場所出場停止と減俸30%(4カ月)、九州場所千秋楽(11月25日)まで謹慎の処分にすることを決めたようである。その後、モンゴル大使館が、当初、横綱朝青龍関はそのサッカー大会の予定はなかったのだが、無理して出てもらったとの謝罪文を日本相撲協会や横綱朝青龍関にも送っているのである。ついでながら、師匠の高砂親方にも監督腑行き届けで四ヶ月間の減棒30%の処分が下されている。それを横綱朝青龍関は受けいれるとの事である。
問題の本質は、なぜ、夏巡業に出たくなかったか、モンゴルに帰りたくなったのかという横綱朝青龍関の心の問題なのである。横綱の責任、日本相撲協会での立場、相撲