2007年5月アーカイブ

 ひとつ、ひとつ、ひとり、ひとりには確かに個性がある。自分と言うものがある。己は己だという意識がある。だから生きられるのである。若い時は、未来は揺らぐ霧の中にある。どんな夢も可能性の中にある。それを期待して明日を生きることが出来る。若いから、エネルギーに満ちている。目標は、時間のかなたにあり、そこへ向かうことが人生の夢だと考える。情熱は愛情につながり、異性との情念の絡み合いが命の源泉だと考える。

 人が苦しむのは、煩悩があるからだと、仏教的にはそういう。しかし、煩悩を断ち切ることは、できない。人が生きている以上、肉体の生命運動は、基本的にこの世の物理現象の支配を受けている。脳もまた、しかりである。自分という意識をもつなという、それもできない。なぜなら、生きることは自己を保持しなければならない。つまり、求心的な力が働かなければ無理だからである。僧侶が煩悩がなく、安心して生きているかどうかは分からない。たぶん、嘘である。人は生きている限り、この宇宙の因果の支配を受けている以上、だれもが平等にその因果の影響をうけているのである。

 宇治に行った。源氏物語の宇治十帖の世界を感じたかったからである。源氏物語を訳文でも読みきるのは結構至難の業である。人物相関図を見比べながら、視点が変化する物語の流れを心に刻み、紫式部が求めた世界をトレースするには、やはり相当な根気が必要になる。現代の人で、何人の人が源氏の世界観を理解できる人がいるだろうかと、ふと思いたくなる。訳者の影響もあるかもしれないが、1000年も前によくもこれだけの人の心の心象風景を纏め上げたものだと、ただ、紫式部という人に脱帽する。同じ日本人として、先人にこのような人が存在した、それ自体に、同じ日本人として誇りを感じる。日本文学史の中で、源氏物語は、傑作のひとつになる。書かれた時代背景、構成力、哲学性、文学性、どれをとっても、これに勝るものを私はかつて読んだことがない。原文など、読める力は私にはない。故谷崎潤一郎、故与謝野晶子、故円地文子、田辺聖子さん、瀬戸内寂聴さん等、それぞれの心の中で源氏物語を吸収し、それぞれの視点で源氏を再構築している。しかし、桐壺から夢の浮橋まで読みきれば、やはり、そこに浮き上がるのは、紫式部の心、そのものなのである。光源氏の一生、そして、その後の柏木と女二の宮との不義で生まれた薫と匂宮と浮舟に至る情念のゆらぎ、源氏物語の終盤に書かれた宇治十帖、それらをまとめると、紫式部は、するどい感性と人間洞察力をもっていると感嘆するばかりだ。

 高野山に上った。南海高野線の極楽寺駅から、ケーブルカーにのらず、女人堂まで、延々と坂道をのぼった。50分前後で女人堂までたどりつき、そこから、金剛峰寺、奥の院の弘法大師霊廟まで歩いた。かえりも、女人堂を経由して、極楽寺駅まで、歩いて帰った。一の橋付近で老夫婦にであった。五月の光のなかで、ゆったりとした時間を満喫しているようにみえた。何かを語らうのではなく、何かをもとめるのではなく、だた、二人は、じっと、流れいく参拝者の群れを見つめていた。

 久しぶりに京都を散策した。四条烏丸から清明神社、釘抜地蔵、船岡山、健勲神社、大仙院、上賀茂神社、大田神社、円通寺、妙満寺、そして岩倉の実相院まで歩いた。延々と歩き続けた。実相院から四条河原町まではバスで帰った。

 釘抜地蔵は、確かに異様な雰囲気だった。時間が停止したような錯覚を覚えた。参拝者は竹の棒をもって地蔵堂の周りをまわっている。私は最初、何をやっているのかわからなかった。注意深くみていると、箱から竹を取り出して、一周するたびに竹を返している。人に聞くと、年の数ほど取り出して、願をかけ一周し竹を返す。それを年の数だけ延々と繰り返すそうだ。
 私は色々な寺院をまわったことがある。しかし、この光景は明らかに異様な雰囲気だった。苦を抜く、だからくぎぬき地蔵だといわれる。おばあちゃんやお年寄りの夫婦が、一所懸命に願いをこめて回っては祈願し、そしてまたそれを繰り返す。確かに私はその場に釘づけになった。その一途な思いに圧倒された。まさしく、あの世とこの世とを結ぶ魔界であると感じた。そのなかで、必死に願いをこめている。そこに、人の驕れや見栄もなく、ひたすら願い続ける純粋な人の魂を感じた。願いがかなえられた人は、絵馬を奉納するという。普通の絵馬ではなく、くぎ抜きと釘を絵馬として奉納する。それらが地蔵堂の一面に張られている。人は地蔵堂を延々と回り続ける。そのなかで、内面の時間軸が止まる。意識もとまってくるはずである。ただ、ひたすら、その願いと一心になる。自分という縛りがなくなってくる。時空間が希薄になるはずである。脳の隙間から、何かと相互作用をおこすはずなのである。それが強く集中されれば、その願いは限りなく実現されるような気がする。己の心は浄化され、その思いは相手にも時空を超えて作用を及ぼすだろう。この光景をみれば、私はありうると感じる。脳の縛りが緩めば、魂があの世とこの世をゆらぐことが信じられてくる。

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