2007年3月アーカイブ
真珠湾攻撃の直前、世界の情勢をしる人は、誰もがアメリカとまともに戦って勝てるとは思わなかった。やるだけのことはやり、後で講和に持ち込めれば言いと考えていた。海軍も陸軍も、戦争とは陣取り戦であり、攻めて来る敵を体をはって防御すればいいと考えていた。長距離爆撃機や上空からの爆弾投下の技術や、航空機レーダーや無線の技術が頭で考えていた以上に、あれほど加速度的に向上するとは、軍部は考えていなかったに違いない。作戦を指揮する大本営も、戦国時代からの歩兵戦略が基礎であると考えていただろう。まして、一瞬にして都会を廃墟に化す原子爆弾の存在など、真珠湾攻撃から4年後、現実化されるとは、微塵も考慮していなかったに違いない。
確かに、日本は国力では、アメリカには劣っていたが、技術的には劣っていなかった。ゼロ戦や戦艦大和や武蔵など、世界のトップレベルの軍事技術レベルに日本がいたことはたしかなのである。
ある程度、技巧は学習で身につけられる。特に、カメラなど、誰でも写せるものである。デジタル化されたから、プロとアマも技巧や知識やカメラの使い方には、それほど、差はない。小説家も、文章を書くだけであれば、女子高校生の方がうまい文章をかけるかもしれない。生け花も、花を生けるだけであるから、だれでもできるものである。しかし、そこにプロとアマの違いが厳然と存在する。将棋指しでも、経営者という立場でも、はたまた、営業でも、研究員でも、すべてに、なぜかひとつの壁が存在する。それが、いわゆるプロとアマの違いである。
現実的には、企業を立ち上げることは、そうたやすいことではない。何よりも大切なのは、作り上げたもの(商品)が、顧客のニーズを満たせるかどうかなのである。当たり前の話であるが、そこまで、たどり着くことは並大抵のことではないのである。まず、ベンチャー企業を考える前に、なぜ、企業を起こす必要性があるかどうかなのである。単に、利潤を上げて、金儲けしたいという発想からは、ベンチャー企業はなりたたない。旧ライフドアーのように、実体がないものをあたかもあるかのように見せかけ、投資をあおり、その資金で企業買収を繰り返し、資産を水増して、企業を大きく見せる方法論しかなりたたない。たまねぎのように、皮をむいていっても企業の本質には到着できない。なぜなら、すべて、頭で作り上げた仮想のビジネスだからである。ねずみ講組織のように、胴元しか儲からない構造でしかないのである。
般若心経の主要な空概念を、漠然とした霧のようなゆらぎと置き換えてみると、すこし、抵抗感がなく、全文の主旨が心の中に入って行くと思います。それ以外は、摩訶般若波羅蜜多心経、そのものです。空という難しい言葉を漠然とした霧のようなゆらぎに置き換えたのですが、本来はそれさえもない(空である)と容赦なく断言しています。前ブログの芸術と虚数で書いたとおり、漠然とした霧のようなゆらぎも、あるものを二乗してマイナス一になるようなものなのです。つまり、その実体を我々の判断では追えないものなのです。だから、それを空と定義したと推察します。これほど、端的に事象を分析し、短い文章で表現し、しかも現代のデジタル世界をいいあてたものを、私は知りません。哲学、科学、芸術を融合した傑作と思います。先人の知恵に謙虚に敬服するのみです。
視覚障害者の人は、霧に包まれて生きているように見える。しかし、もののありかやありさまは触覚や聴覚やそれと物質から発する物質波を読んで生きているはずである。視覚を止められても人にはそれをバックアップする機能が隠されていて、それが停止しても他の機能で十分に生きていけものなのである。そのバックアップ機能を復活させるのは、もとより、彼らの生きようとする強い意志が働くからである。我々には到底できないことである。私は手を合わせ、ただ、彼らに頭を下げるだけである。
桜が咲き出す直前、どこかから、鶯の声が聞こえる。ヒヨドリがとさみずきの花をつついては枝から枝を渡る。季節は巡る。都会の一画に区切られた自然環境の中にいても確かに心が和む。やはりそこには調和がある。仏像の前に対峙して、ひかりの中に浮かび上がる仏の微笑を見つめる気持ちと同じになる。その一瞬一瞬の不連続した時空が、永久に停止したような錯覚におそわれる。ふと、思う。聖徳太子は何を夢に見たのだろうか。秀吉は、家康は、あの時、そこで何を感じ、何を夢をみたのだろうか。その思いも時空の波の渦に消えていく。我々は現在を生きている。だから過去にも戻れないし、未来にもいけない。しかし、理数的に見れば、未来と過去はひとつの事象でつながっている。過去から来るものと未来から来る素粒子は相互作用を起こし、そして、エネルギーを交換して生成と消滅を繰り返していると言われている。しかし、我々の意識はそれを捕らえる事は出来ない。意識と言うものが、それを捕えることができないのなら、我々の意識は、風のように大気の密度差の変化の傾きに生じるひとつの現象に過ぎないのかもしれない。そして、自然の中に身を置き、自分の意識を限り無く少なくしていけば、己自身が風になり、そして、己の内部を通過する風と同化するような気がする。
町を歩いていると色々な草花や樹木に巡り合う。当然、彼らにも名前がある。けやき、エノキ、楠、エンジュ等、ひとつひとつに、それぞれの名前がつけられている。そして、街路樹や公園は四季折々の花の色と香りに包まれる。早春から今までに、いろんな実がなり、いろんな花が咲いてきた。まゆみ、まんりょう、せんりょうの実、梅、ろうばい、まんさく、沈丁花、つばき、さんしゆ、かんひさくら、はくもくれん、もくれん、やまもも、もも、あんず、すもも、こぶしの花、そして、後数日でソメイヨシノが咲き出す。梅や桃の花をよく見れば、小さいめじろが花の蜜をつついているのが分かる。それらを、デジタルカメラで写真をとる。花の美しさが画像に取り込まれる。花や樹木の名前があるために、それぞれの違いが頭に入る。普通の人は、まゆみの実がどんな形なのかわからないだろう。ピンクの果皮がはじけて、中から赤い実が垂れ下がる。それが枝いっぱいに広がる。青い空にピンクと赤が踊る姿は美しいものである。何気ないところに何気なく生きている樹木である。そして、さくらとももにまぎれて、あんずの花があでやかに咲く。花弁に独特のピンクの色彩を与えている。あんずの花を愛した万葉の詩人に心を寄せる。あんずがどの樹木であるかしらなければ、その花のありかも分からない。樹木は、花や実が咲くか成るかして、初めてそれがどの樹木かがわかるのである。
ゆらぐかげを持つ人は、世間から変わっていると思われている人が多い。感受性が強いために、一般的には、論理で物事を追う前に、感性で結論を先に出してしまう傾向が強い。なぜなら、論理で追う以上に心や感性で物事を捉えようとするからである。たしかに、暗記やつめこみ的な勉強が苦手になる。まさしく、頭の中が整理されていて学習したことが記憶として定着できる官僚的な手法とは対極的な位置にいるからである。いわゆる、芸能、芸術、直感型の気質になるからである。したがって、その道で能力を開花できる人の確率は非常に少ない。だから、現実的な仕事のスキールを向上させる必要があるのである。それがなければ、自然のゆらぐかげに流されて夢幻の方向に流されてしまうからである。ふっと、疲れて、自らの命を絶つ可能性もあるのである。
人の価値は、成果や資産の大きさでは決まらない。人の価値は、最終的には微細にゆらぐ心の綾をどれだけつむいできたかで決まると思う。それは、どれだけ、自然に潜伏するゆらぎと共鳴できたか、自分の中にどれだけ、自然のありかを取り入れたかであろうと想像する。科学を探求すると、どうしても不可思議なことに遭遇する。どうしても、生命体の上位に何かしらの存在を考えないと、つじつまが合わなくなる。それを、西洋で言う創造主という概念で現されるものではないと思う。奇跡と復活のシナリオをあえて考える必要もないような、時空を超えた何かの存在が、ここにもそこにもあるように思われる。きっと、それは己の中にもあるし、時空を超えた向こう側にもあるような気がする。我々は、自分を意識する。そして、宇宙や物質の成り立ちを考える。その瞬間に、時間と空間がむこう側からこちら側へと分離されて、今ここにあることが特定される。その瞬間に、己が現れて、その己によってこの時間と空間が知覚され、そして、今、己がここにいることが連続した記憶の中に浮かび上がる。そのような気がする。
(人の価値(ゆらぐかげ)を視点を変えて表現しました。)
「おねえちゃん、お母さん迷わずに帰ってくるかな」
葉子は、軒先に吊るしてあった盆提灯を傾けて、中にあるろうそくに火をつけた。提灯がぱっと明るくなった。
「きっと、帰ってくる。お母さん、葉子の結婚式のことをずっと気にしていたんだもの」
「おねいちゃん、ほんと、ほんとだね」
「本当だよ。お母さんの魂は、迎え火の光があるから帰ってくるんじゃなくて、お母さんのことを偲ぶ葉子の心があるから帰ってくるんだ」
文子は葉子にうなずいて見せた。
「お母さんがもどってきたら、色々なことを報告しなくちゃ」
「ほら、提灯にお母さんの顔が現れた」
「えっ、ほんと、おねいちゃん、ほんと」
「おねいちゃんには、はっきり見えるんだ。お母さんの心の粒子は蛍といま、交じり合っている。ほら、葉子、蛍があの池から舞い上がるよ」
文子は人差し指を池の方にさして、数を数えだした。
「ひとつ、ふたつ、みっつ」
「おねいちゃん、綺麗」
「蛍の輝きがお母さんの魂と同じようにゆれている。ほら、葉子、緩やかな弧を描いて、蛍が葉子のほうへ飛んでいく。お母さんの魂が葉子の方へ流れている。葉子、手を広げておいてごらん、そこへ蛍がゆらぎながら飛んでいくよ」
「あ、ほんとうだ、でも、おねいちゃん、すっと消えていく」
「それは、仕方がないんだよ。それは、おかあさんの心の粒子だから、それだけの力しかないんだ。だけど、精一杯、蛍の力をかりて、葉子の元へ行こうとしているんだ」
「あっ、また、やってきた」
「葉子、時間がないんだ。早く、おかあさんに報告しなきゃ、だめ」
「おかあさん、葉子、結婚する。幸せになる。だから、安心していて」
茶室に桃と菜の花が花瓶に生けられている。そのそばに椿の花がぽつんと落ちている。床柱に竹筒がかけられ、そこに椿が一輪いけられている。まさしく、落下の風情である。その静かな空間に凛としたゆらぎを感じる。そこには、何もない。落ちた椿の花があるがままに落ちているのである。たぶん、欧米人は、その事実を絵画的に見るだけであろう。そこに、何の音楽的な要素や空間的な奥行きも感じないだろう。怪訝な顔をして通り過ぎるだけであろう。日本文化の真髄は、そこに風情を感じる点なのである。椿が落ちた。その落ちた花の軌跡を想像し、その中にゆらぐものの変化を感覚として捉えるのである。微かな万物のゆらぎを命として無意識に捉えるのである。向こう側にもあるだろうゆらぎをこちら側の命として捉えるのである。それは、決して乱れではなく、本来あるべきあるがままの状態として許容するのである。
エコロジー商品をつくっている設備がエコロジーでなかったなら、そのエコロジーは嘘になる。省エネの設備で20%削減できるものを作るのに、従来よりも20%以上エネルギーをかけていたら、まったく意味がないことになる。また、50%省エネ商品を、もし2倍売ったなら、作るエネルギーが同じであれば、作ったエネルギー分だけ悪くなる。作るエネルギーを半分にして、やっと同じになる。50%省エネ商品をつくるなら、作るエネルギーも半分にしなければ、それはエコロジー商品とはいえない。
たとえ、それが無理だと分かっていても、最後まであきらめてはいけない。たとえ、それが虚しい徒労に終わろうとも、今日という日を精一杯に生きなければならない。太陽が山間に静かに沈み、東から夕闇が残光と重なりあうように押し寄せても、今日という時間を悔いてはいけない。たとえ、人生が長い坂道だとしても、それを一歩一歩踏みしめて上らなければならない。たとえ、その先に何もなくても、たとえ、いつかは自分の痕跡が時間に流され消えるとしても、与えられた命が消えるまで歩き続けなければならない。何のために、誰のために、それはわからない。ただ、いまここにあることの重みはけっして消えない。
ひとつひとつ何かが揺れ動いている。その揺れ動く一瞬一瞬の場にぽつんと粒子が生まれる。その粒子が動き、揺れる。光がそれに吸い取られるようにその粒子の間に入ってくる。その周辺に別な粒子が発生し、その場が揺れ、ひとつの集合体が形成される。それがひとつの心をもった生命体になる。電磁波に乱されぬようにあるところが強く結合される。粒子が特別な形で結合し水が生まれる。その水を取り囲むように網目が内部に形成される。そのなかに多量の光が発生する。水と光がその内部に充満する。心が生まれる。我々は母胎の中に浮いている。
人は生まれる前の事を知らない。
人は死んだ後の事も知らない。
人は睡眠中の事も知らない。
一分前の事も記憶が保持していなければ知りえない。
人が知りえるのはこの一瞬の変化だけである。
後は、記憶の残像だけである。
自分を微分すれば、そこにあるのはゆらぎである。
自分はあるようでいてない。
自分はないようでいてある。
どこに、あるのか、あるのは、ゆらぎの変化の中にある。
花が咲く。
その中に宿るコスモス。
それを、じっと見てごらん。
そして目をつぶり、揺れ動く命の風を感じてごらん。
何か見えないものが知らない所から放射線状に湧き上がるのがわかる。
心の粒が至る所からぽっと生まれ、至る所でぽっと消えている。
静かに流れるせせらぎの音に耳を傾けてごらん。
優しく吹く風を肌で感じてごらん。
甘く漂う花の香をおもいっきり感じてごらん。
きっと自分達がどこから生まれどこへ帰るのかがきっとわかる。
もう一度、花の中を何も考えずじっとみてごらん。
そして、目をつぶり自然の流れを感じてごらん。
星が瞬く。
その中で大きく浮かび上がる満月。
それを、じっと見てごらん。
そして目をつぶり、揺れ動く命の振動を感じてごらん。
何か見えないものが知らない所から放射線状に湧き上がるのがわかる。
心の粒が至るところからぼっと生まれ、至るところでぼっと消えている。
ゆっくりと打ち寄せる波の音に耳を傾けてごらん。
うす雲に反射する月の光を見てごらん。
懐かしく漂う潮騒の匂いを感じてごらん。
きっと自分達がどこから生まれどこへ帰るのかがきっと分かる。
もう一度、星群の瞬きを何も考えずじっと見てごらん。
そして、目をつぶり自然の流れを感じてごらん。
だから、
何も迷うことはない。
何も恐れることはない。
何も悩むことはない。
いつか、故郷の向こう側へ帰るのだから。
人の根本にある性格は直らない。ただし、それが成功するかしないかを決定づける因子にはならない。それは、断言できる。物事の動きを見るには、変化率を見ることが大切である。そう、一年で一(仕事量や位置)動く人もいれば10年で一動く人もいる。時間軸に対する(△Tにおける)△成果や環境の結果の傾きが大きいか、小さいかである。短時間で大きな成果を挙げることは、△時間における変化率が大きいといえる。それだけ、浮き沈みがある事を意味している。生き方としてはそれだけ苦しいが、逆に変化する可能性があり、成功する確率が大きいことにつながる。
中小企業の人やベンチャー企業の人やサラリーマンの人が生き延びるためには、技術(スキール)を磨くことしかやはりないのである。知的所有権にまもられたものでなければ、大企業にまねされる。だから、用途特許では意味がないのである。あくまで、大企業がまねできない原理特許を考える必要があるのである。原理特許を求めるには、開かれた自分がいる。自己防御が強く自分の壁で自分を守る人には変化がない。変化がないところには、ひらめきはおきない。それには、自分と言う壁をなくした、自然界とつながった心が必要なのである。思いつきは、考えている自分という視点からでは沸いてこない。考えている自分の向こう側から、突然に自分の意識の中に現れるものなのである。他人の特許や原理を真似するような小ざかしい技術では、いつか馬脚がはがれるものである。ものづくり日本の零細企業やベンチャー企業が生き残るためには、最後はやはり技術なのである。大企業がまねできない技術を抑えることが生き残る道なのである。基本的にはサラリーマンにも同じことが言えるのである。必要なのは技術でありスキールなのである。
